☆ 11月第3週 ☆    2015/11/12 〜 11/18


ふたたび、「安楽死・尊厳死」を考える


 これまで、このテーマについてはいくつかの視点からとりあげてきました。
 ブログの冒頭 '14/5月 第3週 は「ターミナルケアに関する要望書」で始めました。
 私自身の死について、単なる時間的延長のみを目的にした治療は遠慮したいと
 いうのが、その出発点でした。 「尊厳死」という表現で呼ばれているものです。

 つぎに、シスター鈴木の著書「死にゆく者からの言葉」を取り上げ、死を間近にした
 人と、それを見守る人のケースのいくつかを、味わい深く拝聴しました。
 そこには、延命用のもろもろの医療機器に囲まれた患者ではなく、
 死にゆく人と、それを看取る人々との暖かい関係がありました。

 また、末期がんのアメリカの若い女性が、安楽死を認めているオレゴン州に転居してまで
 安楽死を選んだ実話をもとに、それに対する批判的な意見と、私が若い頃見た映画
 「ソイレント・グリーン」に触発された、私自身の「末期」への積年の思いを紹介しました。

 「安楽死」と「尊厳死」とは、似ているようで実は異なるものです。 これについては
 '14/11月 第3週 で取り上げました。 私自身は「安楽死」を受容する気持ちが
 強いのですが、今の日本の法体制からいって、それを文書化しても医療関係者は
 受け入れ難いと思いますので、冒頭に紹介した「・・・要望書」は、
 尊厳死の線で文章化されている訳です。

 私の「安楽死」への願いは、「やりぬいた≪生きる時間とき≫」の項に、記した通りです。
 現代の日本では、とても法律的にも・国民感情からも容認してはもらえそうにありませんが、
 私自身のこころからの強い願望であることに間違いはなく、

 『 80歳を迎えた私に、これ以上、一体何をしろとおっしゃりたいのですか?』

 というのが、今の私の心いっぱいに占めている思いなのです。






  ・ 人生の幕引きくらいは、自分で決めさせて!

   '15/7 第1週 で書いたことですが、自分の寿命をいつ終わらせるかの判断は
   それぞれの人に、委ねてよいのではありませんか?
   とりわけ、ある年齢になれば、自分のなすべきことに対する意識や判断は
   おおむね整理できる訳ですから、それを社会が認めてあげるというのも
   決して悪くはないのでは ・・・ ということです。

   そうであれば、自分の死に関連するもろもろの手続きなども人様を煩わせる
   ことなく、自分で済ませておくことができる訳です。


  ・ 終末事前準備システム 私案

   '15/7 第2週 で書いたように、自分の人生の幕引き時期を自分で決めることが
   できるような「法整備」ができたならば、家族や周囲の人々に余計な手数を
   かけることなく、終末期と死後の諸々の公的手続きや、私的な片付けを事前に
   済ませておくことが可能になります。

   人の誕生は、己の与り知らぬところで決まるのは当然としても、せめて最期
   くらいは、己の意思・己の手で準備し、実現できるような社会にしてほしい。

   これが、平均寿命に到達しそうな時期に近づいた私の、こころからの願いです。
   ここまで生きて来たら、もうそれでいいのではありませんか?
   もちろんまだまだ生き続けるという思いの方は、それはそれでいい訳です。

   生きたくても、その希望を叶えることができなかった多くの友がいました。
   同期生には、「次のオリンピックを、もう一度、この目で見るぞ!」と張り切って
   いる頑張り屋さんもいます。 もちろんそれでいいのです。
   が一方で、私のような思いの老人がいることも、知っておいて欲しいのです。

   これは侘しい話ではなく、「もう十分に生きさせていただきました。 ありがとう!
   本当に本当にありがとう!!」 という、いわば人生という食事・宴の後の、
   心からの「感謝のことば」であり「最後の願い」なのです。



   こういう気持ちの方が、ほかにもいらっしゃることを新聞の投稿欄で見つけました。     


   「安楽死の法制化」も検討を     深津 定 81 (大分県臼杵市)

     私は週に2回デイサービスに通っています。 若い介護士はたいへんだ
     なあと思うことにもかいがいしく働いてくれます。
           (中略)
     私たちの一日には健康体操というものがあって、30分みっちり体操します。    
     健康で長生きを願ってのことです。 でも、老人にとって健康で長生きが
     果たして切実な願望かどうか疑問があります。
     また、長生きすることが必ずしも健康とは限りません。寝たきりの人も多い
     と思います。そういう場合、長生きははた迷惑以外の何ものでもなくなり
     ます。一般的にはそうは口にしませんが・・・
     元気で長生きはスローガンとしては美しい言葉です。言葉として美しいから
     といって、世の中の実態に合わないことを、あまり大声で唱道しないほうが
     いいと思います。
     政権の介護政策には「安楽死の法制化」も検討してもらいたいと思います。


   毎日新聞 '15/10/24 朝刊に掲載のものです。
   この投書に対して 10/31 の同欄に、大阪の主婦の方が、『現実から目を
   そむけることなく、「人生の終焉」を真っ正面から議論する時が来ていると
   思う 』 と賛同なさっていました。

   同じようなことを考えていらっしゃる方がいて、嬉しくなりました。



くどいようですが、私の安楽死観は、「見るに見かねる苦しみからの解放 」 という
視点からではありません。 「自分のやるべきこと ・ 私のやれることは一応やりきった。
だから、ここらで区切りをつけさせてほしい 」 という考えからのものです。
周囲の人々に、余計な心配と苦労をかけたくはないという 『 さよなら 』 のメッセージなのです。
悲しむことでも、侘しいことでもありません。
人生の最後に、これくらいの我儘はゆるされてもよいのではありませんか?





今週のmemento     11/10 は父の、11/16 は母の命日です。
  父は55歳、母は49歳で亡くなっています。
  仲の良い夫婦だったとはいえないふたりでしたが、
  別府の教会墓地に一緒に眠っています。


  この写真は、左の弟(享年60歳)の納骨の際のものですが、
  右が両親の墓石で、母はここに「埋葬」されています。
  私はすでに地元西宮の教会墓地に名前が赤く刻印されて
  います。 別府には戻りません。

  11月はカトリックでは「死者の月」として、一年間の締め括り
  人生の末期を黙想する習慣があります。
  ラテン語の memento mori. という有名な言葉が想起されます。



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