・ 人生の幕引きくらいは、自分で決めさせて! '15/7 第1週 で書いたことですが、自分の寿命をいつ終わらせるかの判断は それぞれの人に、委ねてよいのではありませんか? とりわけ、ある年齢になれば、自分のなすべきことに対する意識や判断は おおむね整理できる訳ですから、それを社会が認めてあげるというのも 決して悪くはないのでは ・・・ ということです。 そうであれば、自分の死に関連するもろもろの手続きなども人様を煩わせる ことなく、自分で済ませておくことができる訳です。 ・ 終末事前準備システム 私案 '15/7 第2週 で書いたように、自分の人生の幕引き時期を自分で決めることが できるような「法整備」ができたならば、家族や周囲の人々に余計な手数を かけることなく、終末期と死後の諸々の公的手続きや、私的な片付けを事前に 済ませておくことが可能になります。 人の誕生は、己の与り知らぬところで決まるのは当然としても、せめて最期 くらいは、己の意思・己の手で準備し、実現できるような社会にしてほしい。 これが、平均寿命に到達しそうな時期に近づいた私の、こころからの願いです。 ここまで生きて来たら、もうそれでいいのではありませんか? もちろんまだまだ生き続けるという思いの方は、それはそれでいい訳です。 生きたくても、その希望を叶えることができなかった多くの友がいました。 同期生には、「次のオリンピックを、もう一度、この目で見るぞ!」と張り切って いる頑張り屋さんもいます。 もちろんそれでいいのです。 が一方で、私のような思いの老人がいることも、知っておいて欲しいのです。 これは侘しい話ではなく、「もう十分に生きさせていただきました。 ありがとう! 本当に本当にありがとう!!」 という、いわば人生という食事・宴の後の、 心からの「感謝のことば」であり「最後の願い」なのです。 こういう気持ちの方が、ほかにもいらっしゃることを新聞の投稿欄で見つけました。
毎日新聞 '15/10/24 朝刊に掲載のものです。 この投書に対して 10/31 の同欄に、大阪の主婦の方が、『現実から目を そむけることなく、「人生の終焉」を真っ正面から議論する時が来ていると 思う 』 と賛同なさっていました。 同じようなことを考えていらっしゃる方がいて、嬉しくなりました。 |
今週の | ![]() | memento | 11/10 は父の、11/16 は母の命日です。 父は55歳、母は49歳で亡くなっています。 仲の良い夫婦だったとはいえないふたりでしたが、 別府の教会墓地に一緒に眠っています。 ![]() この写真は、左の弟(享年60歳)の納骨の際のものですが、 右が両親の墓石で、母はここに「埋葬」されています。 私はすでに地元西宮の教会墓地に名前が赤く刻印されて います。 別府には戻りません。 11月はカトリックでは「死者の月」として、一年間の締め括り 人生の末期を黙想する習慣があります。 ラテン語の memento mori. という有名な言葉が想起されます。 |