☆ 4月第1週 ☆    2015/03/26 ~ 04/01


 人生を山登りに譬える ・・・ 登山は、実は『登・下山』 

最近は、すっかり縁遠くなっていますが、若い頃はあまり高くはない山道を歩くのが
好きな私でした。 九州で勤務していた20代前半、同じ職場に山登りの好きな先輩がいて、
しょっちゅう有給休暇を使っては山登り(九州最高峰の宮之浦岳など)に行っていたこと
に影響されて、私も別府近郊の山々(由布岳、鶴見岳など)を日帰りで楽しんでいました。



考えてみると、登山は、よく人生に譬えられることがあるようです。
そして私の思うところ、登山は、実は『登・下山』であるということ。 元気いっぱい山頂を
目ざした友人たちが、下山の際に足を痛めるというケースをちょくちょく目にしたものです。

平均寿命(男)が 80.21歳であることを考えれば、40歳代前半に、人生はピークを迎え、
下り坂にさしかかる訳で、それ以降は、下り坂に相応しい『歩き方』をすることが必要だということを、
今、あらためて思い知るのでした。



   ●人生の登坂 : 16歳 ~ 43歳(会社に育ててもらった時期)

    私の場合、この時期は会社に育てられた時期でした。 世間知らずの新米社員を、コンピュータ
    プログラマー ⇒ システム開発のグループリーダにまで成長させてくれたのです。
    この時期の一番決定的な時期(27歳~29歳)の日記を、こちらに公開してあります。
    私の人生観を形成する上でも、この時期(とりわけコンピュータとの出会い)は、決定的な
    影響を与えてくれました。
    当時の社会情勢は、現在と違って、企業はその社員を一人前に育て上げる という役割を大事な
    ものとして熱心に取り組んでいたと思います。 私の場合、全国規模の会社だったこともあり、
    北海道から九州まで多くの社内の友人を得ることができたのも、大変有難い 《 宝物 》 となった
    のでした。


   ●人生のハイランド : 44歳 ~ 55歳(会社に生活を差し出した時期)

    自分を成長させる時期から、自分の生活を会社のために犠牲というと不適切かもしれませんが、
    おそらく家族の目から見れば、『会社の婿養子になった』状態にあった時期だろうと思います。
    日本の企業では社員が会社人間になるのは当たり前という風潮が(当時は)ありましたし、実際、
    家庭を顧みない年月であったと思います。 単身赴任も当然という雰囲気で、私もこの時期の
    スタートを、単身赴任で始めたのでした。


   ●人生の下り坂 : 56歳 ~ 現在(会社を離れ、「自分の道」探しの時期)

    退職して、多くの同期生は会社の関連企業などに再就職する中、私はあえてその話をお断りし、
    自分の道を自分で探すことにしました。
    退職の挨拶状のなかで、『これからは、宮大工・船大工を目指します』 と記したのは、今までとは
    まったく違った生活を始めたいという当時の私の率直な気持ちからでした。

    1) ソフトウェア会社の時期(56歳 ~ 58歳)
      神戸の小さなソフト会社に就職したのは、自分自身で直接コンピュータ関連の仕事をしたい
      という 20歳代の「あの感動」を、もう一度甦らせたかったからでした。 ハイランドの時期にも
      コンピュータセンターの仕事などはしましたが、実際のシステム開発など:実務そのものに
      携わることはなかったので、もう一度、それをやりたかったのです。
      この時期のことは、すでに このプログの 7月第5週 の中でふれているところです。

    2) 100% ボランティア活動の時期(59歳 ~ 67歳)
      第2の職場は、それなりに面白い日々だったのですが、神戸で開かれたコンピュータ業務の
      展示・商談会で、障害者団体の方に出会ったことが、私に新しい思いを抱かせることになり
      ます。 その方はパソコンを使って障害者団体の会計処理をしたいという希望を持っていた
      のですが、当時、それに応え得るパッケージソフトがなく、相談に見えたのです。
      もちろん開発は可能ですが、オーダーメイドとなると、それなりの費用が必要です。 相手が
      福祉団体だからという理由だけでは、会社の人間の立場では、その要望を受け止めることが
      できなかったのです。

      これがきっかけで、私は当時の仕事の継続に疑問を抱くようになり、結果的に新しいステップを    
      踏み出すことになりました。 そのあたりのことは、こちら をご覧いただければ・・・と思います。

      100% の時間をボランティア活動に充てる時期がこうして始まりました。

      見方によっては、この時期こそが私の最も幸いな時期でした。
      人生の下り坂であったからこそ選び得た・・・ 生き方ができたのでした。
      神様への感謝 ・ お礼の時期だったとも思えるのです。

    3) そこそこ ボランティア活動の時期(68 歳 ~ 現在)
      先日も書いたように、マレーシアでのロングステイ下見旅行から戻った私は、椎間板ヘルニア
      の手術を受ける等、仕事に耐えられる体調に不安が生じ、それまでの 100% 自分の時間を
      差し出す生活から、離脱せざるを得ないこととなりました。

      偶然、市の公民館で「パソコンおたすけ隊」というボランティア・スタッフを募集していることを
      知り、それに応募。 月に2~4回程度、パソコン初心者の個別相談にあたるという活動が
      始まり、20数名のメンバーとその結成に参加することになりました。 これであれば、自宅
      からそんなに遠くはない公民館数か所で、初心者の方の相談にのるという手ごろな業務内容
      ですから、継続して携われるということです。 今、13年目に入ろうとしています。


   こういった経緯で、今を迎えているのですが、今年の後半には平均寿命に到達しそうな状態で、
   これ以上、どう もがいても・あがいても、どうなるものでもありません。

   いろいろなご意見があるところでしょうが、私は、下山の歩みは、登坂の歩みとは違って当然だと
   考えています。 頂上をひたすら目指す歩みではなく、むしろ、周囲の風景をよくよく味わい
   ながらの、登りとは一味も・二味も違うものを大切にしたいと思ったのでした。

   天が決めるその日まで、自分のことは自分でするように心がけ、願わくば、『ぴんぴん・ころり』 と
   おさらばできることを切に願っている今日この頃 ・・・ というところです。



このように振り返ると、私の人生は『選択の幅』が極めて狭いものでした。
家庭の事情から中学卒業後の就職が決まり、生活のためには脇目もふらず定年まで仕事を続け、
それまで封印していた願望を解放するために再就職先を選び、同じようにして 100% ボランティアの
日々へと進み、体力的な理由で今日を迎える ・・・ そこにはほとんど迷いはなく、そう生きるしか
なかったと思えるのです。 私の好きなことばで表せば What is to be will be. の歩みでした。




プログラムで振り返るオペラ Part.2 ⑥ : ヴェルディ 「 リゴレット 」



   ♪ 風の中の羽根のように・・・ ♪ でおなじみの<女心の歌>が歌われるこのオペラ、 ヴェルディらしい魅力に    
   富んだ いいオペラです。 もっとも舞台は暗い場面ばかりで、絢爛さは見られませんが。


 1991/ 9/27 * カヴァッラロ指揮 大阪センチュリー交響楽団: ザ・シンフォニーホール
 M.グラツィアーニ、B.ダル・モンテ、F.コスタ ほか  
 1994/11/20 パルンボ指揮 ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団: 尼崎アルカイックホール
 J.センペレ、南川良治、高岡充子 ほか 関西歌劇団創立45周年記念公演

              * は、演奏会形式によるもの


   '91 のものについて、「テナー、高音はいいが、中音は腑抜け。 バリトンは最高。 歌いこんだベテランの声、
   よく響いてゾクゾクする。 ジルダのヴィヴラートとトレモロの区別のすばらしさ! Brava! 」 と記してあります。

   '94 のものは、「よく声が出ているとは思うが、聴かせどころでの「間」が楽しめない。」 と。
   このオペラには、娘のご亭主のご両親をお誘いし、夕食を共にしたのでした。




   CDでは、シノーポリ指揮、ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団のものを持っていました。
   ソプラノのグルベローヴァ、バリトンのブルゾーンのほか、テナーのシコフが加わった豪華なものでした。





今週のミステリー     ドイツの航空機がフランスの山中に墜落した事故。
  副操縦士の精神状態に疑問があるとか?
  こういうミステリアスな事態に出会うと、人生の不条理と
  蓋然性の牙に、気持ちが塞ぎこんでしまいます。

  亡くなられた乗客とご家族の悲嘆を思う時、発する言葉が
  見つかりません。
  



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