前回記したような私の信仰遍歴は、結果として≪脱≫キリスト教という信仰宣言に到達しました。 ≪脱≫キリスト教というと、私がキリスト者をやめたように響くかもしれませんが、今も私は毎週 日曜日にミサに与り、聖体拝領をするという普通のカトリック信者の生活をしています。 キリスト教をある意味では評価し続けており、棄教したという誤解を招きたくないのです。 前回紹介した書籍 G.ベシエール「イエスの生涯」の中に、こういう話が記載されています。
この言葉にならって表現すれば、私の到達点は「イエスは神の国を告げ知らせたが、やってきたのは 教会の教え・すなわち キリスト教 であった。」・・・という感じです。 1)イエスの教え ⇒ 宗教からの解放 私は聖書を何度も何度も読み返すことを通じて、イエスの教えのポイントは、 「神は人を差別なさらない」 と 「目の前のひとり・ひとりに本気でかかわる」 という2点だと考えるようになりました。 イエスの神の国のメッセージは、これにつきるというのが私の信仰遍歴の到達点です。 ではそれが「教会の教え・キリスト教」とどう違うかといえば、 ・ 教会は最終的に神を審判者として人々に提示しますが、私はイエスの教えには審判の 要素はなかったと受け止めています。すなわち宗教からの解放です。 このシリーズの冒頭に引用したマタイ25章31節以下は、イエスご自身の言葉ではないか! という反論があるでしょうが、福音書が書かれたのは最も早い時期とされるマルコですら、 イエスの死後30年も経った時点であり、その間に数多くの人々による「口伝」の時期があり ました。この間の「伝言ゲーム」が、オリジナルのメッセージに対して「変更や付加や脱落」 をもたらすことが皆無であったとは言えないでしょう。 私の Web Page で、すでにそういう点を取り上げていますので、参考までに記載します。
遠藤氏は生涯、キリスト教という宗教に拘り通しました。ですから「裁き・審判・断罪」と いったものからの解放を味わっていません。それが「強者の宗教ではなく、弱者の宗教」と いう発想を生み出したのだと思います。 私は、イエス様のメッセージの本質を「宗教からの解放」すなわち神は裁いたり・罰を与え たりなさるお方ではないと理解するにいたりました。 ユダヤの人々が「旧約聖書」を通じて受け継いできた「怒りの神」からの解放です。 そうであれば、遠藤氏のような(強者の宗教・弱者の宗教という)視点は無用となります。 私たちはあるがままに、すなわち神によってつくられたままに生きることで十分なのです。 ・ では、何をしてもいいのか? イエス様のもうひとつのメッセージは、私たちに新しい生き方を 提示なさったと受け止めています。 それは目の前のひとり、とりわけ困っている人・助けを必要としている人々と本気で関わり なさい・・・という教えです。 これは、遠藤氏が「同伴者イエス」という概念で提示し、「弟子たちの≪復活≫意識」がもたら した行動・・・と通じるものではないかと思います。 この辺りの詳細は、上に紹介している私のサイトの当該ページでご覧ください。 2)なぜ≪脱キリスト教≫なのか ⇒ イエスという生き方 キリスト教もまた、「目の前のひとり・ひとりに本気で関わる」ことを勧めています。イエスの教えの 一番大事なものだから当然です。 ただ、なぜそうするのか? という点に関しては全く別の理解をしていると思います。 キリスト教(おそらくほとんどの宗教)においては「なぜ≪善行≫を行うか」と問えば、それは神の 祝福や死後の天国行きという「栄光に満ちた報い・ご褒美」があるからです。 上目遣いに「恐ろしい神の顔色を絶えずうかがう」信仰心からです。 厳しく言えば、報酬を期待しての≪善行≫ ないし、神仏との取引。 これが多くの宗教に共通する特徴です。 イエスは、「報いを求めず、誉れを欲しない」生き方をなさいました。・・・私は「イエスの生き方」を そのように受け止めました。 しかも、その生き方は「最後は≪野垂れ死≫をも甘受する」生き方です。 すでに、私のサイトでそういうまとめをしていますので、詳細はそちらに譲ります。 3)「まことの人」であったイエス ⇒ 十字架刑の意味 キリスト教のイエス理解の特徴のひとつに「まことの神、まことの人」という教義があります。 私にとっても「まことの人であったイエス」は、特別な意味を持つものです。 キリスト教では、イエスの十字架上の死を「全人類の罪のあがないのための死:贖罪死」と 教えています。 とりわけ聖パウロの説明にその傾向が強く見られます。
この説明では、イエスの死の意味を「宗教的すなわち<神>の方角から」のみ行っており、 本当の意味で「<まことの人>の死」として扱っていないと不満に思っています。 この点をまとめたものを、私のサイトの該当ページでご覧いただければ幸いです。 4)私の三一神理解 キリスト教の神は、他の一神教と違って「三位一体の神・父と子と聖霊」です。 キリスト教を考えるとき、この点は簡単には通過できないテーマです。 この問題をとりあげた「私の三一神理解」というページがありますのでご参考までに。 その要点は、次のような点です。 ・ 神は天地万物を創造なさった。その際、すべてのものの中に働き続ける「永遠の原理・ ルール」(アルゴリズム)を組み込まれた。 このアルゴリズムは、決してその場その場の思いつきで発生する事象ではなく、世の 終りまで常に働き続ける原理です。 したがって、祈りによって「明日は運動会なので晴れにして下さい」と期待しても、どう にもならないもの。 逆に、そのアルゴリズムに気づきさえすれば、それまで偶然としか思えなかった事象が 予見可能(たとえば、日食・月食の予知)であり、そのルールと、発生の条件をコント ロールできれば、期待した結果を得ることができるということになります。 医学をはじめとするもろもろの科学は、神の設定されたアルゴリズムを発見し、それを 生活の中に活かしている「知恵」だということになります。 私のこういう考え方は、「理神論」だと一笑に付されているのですが、「明日の天気」や 「宝くじの当選」や「入学試験の合格」を祈願することの無意味さよりは、まだまともな ものではないでしょうか。 ・ 旧約聖書が示すように、人祖は「神に罰されて楽園を追われ」ました・・・そう理解する しかないような苦労の連続に彼等は遭遇することになりました。 人生の苦難を、神罰・神からの戒めと受け取る人間の意識。これが宗教を生み出したと 私は想像します。しかも、それが神によってあらかじめ組み込まれた「アルゴリズム」の 結果である(あるいは、結果でしかない)ことに気づくこともなかった。 人々のそのような「神認識」の間違いを、神の第二のペルソナである「イエス・キリスト」 は人間にしっかりと知って欲しいと願われたと私は推測します。 それが「人となった神:イエス」の誕生となったのです。 イエスが人になったのは、正しい神認識を人々に持ってほしかったからです。 決して、 人々の罪を贖うための「十字架上の死」のためではなかったと、私は信じます。 そういう意味で、クリスマス(人となった神)は最も豊かな神からの贈り物です。 これは教会の教義とは全く異なるもので、とても容認していただけないものですが、 まぎれもなく≪脱キリスト教・脱宗教≫という私の信仰の到達点なのです。 このようにして、私は宗教ではない「神信仰、イエスへの信仰」に辿りつきました。 5)私にとっての教会(キリスト教) 以上のように私は独自の「イエス理解」によって、≪脱キリスト教≫の信仰に到達しました。 では、キリスト教否定かといえば、それは違います。 私がこのような信仰に到達できたのは、子どもの頃からの「公教要理」によるキリスト教学習 のおかげであり、第二バチカン公会議文書から発見した≪母なる教会の子離れ宣言≫が あったればこそです。 もし、キリスト教という宗教(その担い手としての教会)がなければ、世界中の・2000年の歴史 の中で、人々はどうして神のメッセージ・イエスのメッセージを受け取ることができたでしょうか? 教会は、まことに「神が定められた最高の秘跡」です。 私たちは、教会を通して神の みことばに接し、イエスの生き方に気づき、自分自身の目をしっかりと神に向けることができる ようになるのだと思います。 そういう意味で、教会は 信仰の学校として、なくてはならぬものです。 と同時に、学校は卒業していくものでもあります。 私は毎日曜日、同窓会に行く気分でミサにあずかっています。 最後に、こういう私の視点から、遠藤氏の柩に入れられたもう一冊の著書「深い河」を読んで みようと思います。 |