遠藤作品をヒントに考える「イエス」 : 《8》

第7:私の≪脱≫キリスト教
前回記したような私の信仰遍歴は、結果として≪脱≫キリスト教という信仰宣言に到達しました。
≪脱≫キリスト教というと、私がキリスト者をやめたように響くかもしれませんが、今も私は毎週
日曜日にミサに与り、聖体拝領をするという普通のカトリック信者の生活をしています。
キリスト教をある意味では評価し続けており、棄教したという誤解を招きたくないのです。

前回紹介した書籍 G.ベシエール「イエスの生涯」の中に、こういう話が記載されています。


   「イエスは神の国を告げ知らせたが、やって来たのは教会である。」

   1902年、アレフレッド・ロアジー(1857〜1940年)は、「福音と教会」の中で、この有名な
   一節を記した。司祭にして、優秀な教授であった彼は、歴史学的批評の新しい道に入った。   
   彼は1908年3月7日、破門されている。


この言葉にならって表現すれば、私の到達点は「イエスは神の国を告げ知らせたが、やってきたのは
教会の教え・すなわち キリスト教 であった。」・・・という感じです。

1)イエスの教え ⇒ 宗教からの解放

  私は聖書を何度も何度も読み返すことを通じて、イエスの教えのポイントは、

    「神は人を差別なさらない」 と 「目の前のひとり・ひとりに本気でかかわる

  という2点だと考えるようになりました。
  イエスの神の国のメッセージは、これにつきるというのが私の信仰遍歴の到達点です。

  ではそれが「教会の教え・キリスト教」とどう違うかといえば、

    ・ 教会は最終的に神を審判者として人々に提示しますが、私はイエスの教えには審判
      要素はなかったと受け止めています。すなわち宗教からの解放です。

      このシリーズの冒頭に引用したマタイ25章31節以下は、イエスご自身の言葉ではないか!
      という反論があるでしょうが、福音書が書かれたのは最も早い時期とされるマルコですら、
      イエスの死後30年も経った時点であり、その間に数多くの人々による「口伝」の時期があり
      ました。この間の「伝言ゲーム」が、オリジナルのメッセージに対して「変更や付加や脱落」
      をもたらすことが皆無であったとは言えないでしょう。
      私の Web Page で、すでにそういう点を取り上げていますので、参考までに記載します。
     
宗教からの解放イエス様が教えてくださったこと
壮大な伝言ゲームの果てに・・  ・・・ではないでしょうか?

      遠藤氏は生涯、キリスト教という宗教に拘り通しました。ですから「裁き・審判・断罪」と
      いったものからの解放を味わっていません。それが「強者の宗教ではなく、弱者の宗教」と
      いう発想を生み出したのだと思います。
      私は、イエス様のメッセージの本質を「宗教からの解放」すなわち神は裁いたり・罰を与え
      たりなさるお方ではないと理解するにいたりました。

      ユダヤの人々が「旧約聖書」を通じて受け継いできた「怒りの神」からの解放です。
      そうであれば、遠藤氏のような(強者の宗教・弱者の宗教という)視点は無用となります。
      私たちはあるがままに、すなわち神によってつくられたままに生きることで十分なのです。

    ・ では、何をしてもいいのか? イエス様のもうひとつのメッセージは、私たちに新しい生き方を
      提示なさったと受け止めています。

      それは目の前のひとり、とりわけ困っている人・助けを必要としている人々と本気で関わり
      なさい・・・という教えです。

      これは、遠藤氏が「同伴者イエス」という概念で提示し、「弟子たちの≪復活≫意識」がもたら
      した行動・・・と通じるものではないかと思います。

  この辺りの詳細は、上に紹介している私のサイトの当該ページでご覧ください。

2)なぜ≪脱キリスト教≫なのか ⇒ イエスという生き方

  キリスト教もまた、「目の前のひとり・ひとりに本気で関わる」ことを勧めています。イエスの教えの
  一番大事なものだから当然です。
  ただ、なぜそうするのか? という点に関しては全く別の理解をしていると思います。

  キリスト教(おそらくほとんどの宗教)においては「なぜ≪善行≫を行うか」と問えば、それは神の
  祝福や死後の天国行きという「栄光に満ちた報い・ご褒美」があるからです。
  上目遣いに「恐ろしい神の顔色を絶えずうかがう」信仰心からです。

  厳しく言えば、報酬を期待しての≪善行≫ ないし、神仏との取引。

  これが多くの宗教に共通する特徴です。

  イエスは、「報いを求めず、誉れを欲しない」生き方をなさいました。・・・私は「イエスの生き方」を
  そのように受け止めました。
  しかも、その生き方は「最後は≪野垂れ死≫をも甘受する」生き方です。

  すでに、私のサイトでそういうまとめをしていますので、詳細はそちらに譲ります。

3)「まことの人」であったイエス ⇒ 十字架刑の意味

  キリスト教のイエス理解の特徴のひとつに「まことの神、まことの人」という教義があります。
  私にとっても「まことの人であったイエス」は、特別な意味を持つものです。

  キリスト教では、イエスの十字架上の死を「全人類の罪のあがないのための死:贖罪死」と
  教えています。 とりわけ聖パウロの説明にその傾向が強く見られます。
  

  ヘブル 9:15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。
          それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、   
          召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。


  この説明では、イエスの死の意味を「宗教的すなわち<神>の方角から」のみ行っており、
  本当の意味で「<まことの人>の死」として扱っていないと不満に思っています。

  この点をまとめたものを、私のサイトの該当ページでご覧いただければ幸いです。

4)私の三一神理解

  キリスト教の神は、他の一神教と違って「三位一体の神・父と子と聖霊」です。
  キリスト教を考えるとき、この点は簡単には通過できないテーマです。

  この問題をとりあげた「私の三一神理解」というページがありますのでご参考までに。

  その要点は、次のような点です。

   ・ 神は天地万物を創造なさった。その際、すべてのものの中に働き続ける「永遠の原理・
     ルール」(アルゴリズム)を組み込まれた。

     このアルゴリズムは、決してその場その場の思いつきで発生する事象ではなく、世の
     終りまで常に働き続ける原理です。
     したがって、祈りによって「明日は運動会なので晴れにして下さい」と期待しても、どう
     にもならないもの。

     逆に、そのアルゴリズムに気づきさえすれば、それまで偶然としか思えなかった事象が
     予見可能(たとえば、日食・月食の予知)であり、そのルールと、発生の条件をコント
     ロールできれば、期待した結果を得ることができるということになります。
     医学をはじめとするもろもろの科学は、神の設定されたアルゴリズムを発見し、それを
     生活の中に活かしている「知恵」だということになります。

     私のこういう考え方は、「理神論」だと一笑に付されているのですが、「明日の天気」や
     「宝くじの当選」や「入学試験の合格」を祈願することの無意味さよりは、まだまともな
     ものではないでしょうか。

   ・ 旧約聖書が示すように、人祖は「神に罰されて楽園を追われ」ました・・・そう理解する
     しかないような苦労の連続に彼等は遭遇することになりました。

     人生の苦難を、神罰・神からの戒めと受け取る人間の意識。これが宗教を生み出したと
     私は想像します。しかも、それが神によってあらかじめ組み込まれた「アルゴリズム」の
     結果である(あるいは、結果でしかない)ことに気づくこともなかった。

     人々のそのような「神認識」の間違いを、神の第二のペルソナである「イエス・キリスト」
     は人間にしっかりと知って欲しいと願われたと私は推測します。
     それが「人となった神:イエス」の誕生となったのです。
     イエスが人になったのは、正しい神認識を人々に持ってほしかったからです。 決して、
     人々の罪を贖うための「十字架上の死」のためではなかったと、私は信じます。
     そういう意味で、クリスマス(人となった神)は最も豊かな神からの贈り物です。

     これは教会の教義とは全く異なるもので、とても容認していただけないものですが、
     まぎれもなく≪脱キリスト教・脱宗教≫という私の信仰の到達点なのです。

  このようにして、私は宗教ではない「神信仰、イエスへの信仰」に辿りつきました。

5)私にとっての教会(キリスト教)

  以上のように私は独自の「イエス理解」によって、≪脱キリスト教≫の信仰に到達しました。
  では、キリスト教否定かといえば、それは違います。

  私がこのような信仰に到達できたのは、子どもの頃からの「公教要理」によるキリスト教学習
  のおかげであり、第二バチカン公会議文書から発見した≪母なる教会の子離れ宣言≫が
  あったればこそです。

  もし、キリスト教という宗教(その担い手としての教会)がなければ、世界中の・2000年の歴史
  の中で、人々はどうして神のメッセージ・イエスのメッセージを受け取ることができたでしょうか?

  教会は、まことに「神が定められた最高の秘跡」です。 私たちは、教会を通して神の
  みことばに接し、イエスの生き方に気づき、自分自身の目をしっかりと神に向けることができる
  ようになるのだと思います。

  そういう意味で、教会は 信仰の学校として、なくてはならぬものです。
  と同時に、学校は卒業していくものでもあります。
  私は毎日曜日、同窓会に行く気分でミサにあずかっています。

最後に、こういう私の視点から、遠藤氏の柩に入れられたもう一冊の著書「深い河」を読んで
みようと思います。
第8:「深い河」を読む(1)