![]() |
* 磯辺の場合 長年の間、仕事や人間関係で当惑したり、途方にくれたことも多い磯辺だったが、 今、この瞬間、彼がおかれている状況はそんな生活上の挫折とはまったく違って 次元を異にしていた。眼前でねむっている妻が三、四カ月後、確実に死ぬのだ。 それは磯辺のような男が今まで一度も考えたことのない出来事だった。重かった。 彼はどんな宗教も信じていなかったが、もし神仏というものがあるならば、こう叫び たかった。(どうして、こいつに不幸を与えるんです。女房は善良で、やさしい、 並みの女です。助けてやって下さい。お願いです) その夜から彼女は昏睡状態に入った。時々、何か譫言を言う。磯辺はそばに坐り、 病人の手を握ってやるほか、何もできない。 「俺だ、俺。わかるか」 磯辺は妻の口に耳を近かづけた。息たえだえの声が必死に、途切れ途切れに何か 言っている。 「わたくし・・・必ず・・・生まれかわるから、この世界の何処かに。探して・・・ わたしを見つけて・・・約束よ、約束よ」 |