遠藤作品をヒントに考える「イエス」 : 《9》

第8:「深い河」を読む(1)
* 磯辺の場合

   長年の間、仕事や人間関係で当惑したり、途方にくれたことも多い磯辺だったが、
   今、この瞬間、彼がおかれている状況はそんな生活上の挫折とはまったく違って
   次元を異にしていた。眼前でねむっている妻が三、四カ月後、確実に死ぬのだ。
   それは磯辺のような男が今まで一度も考えたことのない出来事だった。重かった。
   彼はどんな宗教も信じていなかったが、もし神仏というものがあるならば、こう叫び
   たかった。(どうして、こいつに不幸を与えるんです。女房は善良で、やさしい、
   並みの女です。助けてやって下さい。お願いです)

   その夜から彼女は昏睡状態に入った。時々、何か譫言を言う。磯辺はそばに坐り、
   病人の手を握ってやるほか、何もできない。

   「俺だ、俺。わかるか」
   磯辺は妻の口に耳を近かづけた。息たえだえの声が必死に、途切れ途切れに何か
   言っている。
   「わたくし・・・必ず・・・生まれかわるから、この世界の何処かに。探して・・・
   わたしを見つけて・・・約束よ、約束よ」

         磯辺は、妻の最後の言葉を忘れることができず、ヴァージニア大学に死後生存シータの調査を依頼します。
         後日、ヴァージニア大学からインドのカムロージ村に住むラジニ・プニラルという少女が該当するようだとの連絡を受け、
         インドツアーに参加したのでした。


     インドにきてから磯辺は日本にいる時よりもっと妻を思い出すようになった。それも二人の日常生活の、
     何でもない光景を。

     妻が生きている間は思い出しもしなかったありきたりな夫婦の会話、幸福でもなければ不幸でもなかった場面。
     そんな場面が遠い国に来て、午後のホテルの一室で、なぜ急に痛いほど胸をしめるけ甦るのだろう。
     妻はごく普通の主婦で、磯辺もありきたりの夫だった。生きている間は、感情を抑える性格の妻が、
     死ぬ直前にはじめて意外な面をみせた。

     彼は妻が生きている間、死後の転生など一度も考えたことはない。そして妻のあの叫びによって、
     ・・・再生とか転生という二文字が出現したのだ。

     彼が妻の死後、やっとわかったのは夫婦の縁というものである。数えきれぬほどの男女があるのに、
     そのなかから人生の同伴者となった縁。たしかにそれは偶然の出会いにちがいないのに、今の
     磯辺はその縁が生まれる前からあったような気がする。


         結果的に、磯辺は目的の少女にあうことができなかった。
         しかし、彼はこの旅を通じて知ることになるのです・・・・


     一人ぼっちになった今、磯辺は生活と人生とが根本的に違うことがやっとわかってきた。そして自分には生活の
     ために交わった他人は多かったが、人生のなかで本当にふれあった人間はたった二人、母親と妻しかいなかった
     ことを認めざるをえなかった。
     「お前」
     と彼はふたたび河に呼びかけた。
     「どこに行った」
     河は彼の叫びを受けとめたまま黙々と流れていく。だがその銀色の沈黙には、ある力があった。
     河は今日までのあまたの人間の死を包みながら、それを次の世に運んだように、川原の岩に腰かけた男の人生の
     声も運んでいった。




     磯辺は遠藤氏の分身として描かれているように思えます。
     生涯の終り近くになって、自分にとって一番大事なものは何だったかに「はっ!」と気付かされ、
     はじめて素直になれる。これは遠藤氏だけでなく、多くの「男たち」が体験することになる事柄の
     ように思えてなりません。

     彼の妻が望んだ 「私を探して」 という最後の言葉。 個人的には、受け入れることができません。
     もし転生ということがあるとすれば、わたしは私であって私ではないというおかしなことになります。
     今、この文章を書いている私。 実は以前どこかの国で死んでしまった誰かさんがそうしていることで、
     平成の日本に生きるこの私ではないということになってしまいます。
     私はそういう人生には、がまんができません。

     わたしが私であるとは、他の誰でもない自分がまちがいなくここに存在しているということでしょう。

     それはさておき、磯辺が気づいたこと、それは・・・

     1)大切なことは、目の前にいる ひとりと本気で、真剣に関わること。
       これはいわゆる一期一会の心です。 今、目の前にいるあなた。 私はあなたを大切にもてなしたい。
       真心を込めて一服の茶を差し上げたい。

       また、すでに書いたとおり私が受けとめた『イエスの教え』でもありました。

       磯辺は、インドに来て、転生した妻には出会えなかったが、妻が自分の生涯でかけがえのない
       存在であったことをあらためて・はっきりと知ることができたのだと思います。

     2)命は、その死を飲み込む「河」のながれにとり込まれ、他の諸々の命と共に「人知の及ばぬ
       大きなものに包み込まれ、行方もしれず流れて行く」ということ。
       神が創造なさったこのアルゴリズムは、私たちにとっては知り尽くせぬもの。
       私たちはこの流れに、他のすべての命を終えたものと共に合流し、行くべきところに行くのだ!
       己の意志とは関わりなく、誕生したあのときと同じように・・・

       What is to be will be.   これは私の大好きな言葉です。 人生は、そして世界は、宇宙
       万物は神のアルゴリズムに従って、起こるべきことが起きている(だけな)のだ!。

     磯部はそのことに気づき、自分もその流れに身を任せることを了解したのだと、私は得心しました。


第9:「深い河」を読む(2)