・・・ではないでしょうか?


今日(2011/11/6)の毎日新聞の書評欄に、張競という方が、植木雅俊著「仏教、本当の教え」
(中公新書)という一冊を紹介していました。

   キリスト教にはバイブルという聖典があるのに対し、仏教は経典が多い。
   おまけに文章が回りくどくてわかりにくい。こと漢訳の仏典はまるで謎の
   記号で書かれている呪文のようだ。

   (本書では)仏教の原点に立ち戻って、原初の宗教精神から説き起こして
   いる。
   さらに、中国と日本における受容を振り返り、最後に、日本、インドと中国の
   文化と関連しながら、3つの文化における仏教の特徴について分析を行う。
   原始仏典の教えを読むと、これまで知られている仏教とかなり違う世界が
   見えてくる。
   万人の平等を唱え、迷信を否定する。女性差別をせず、呪術的な儀式を批判する。

   本書の帯に「壮大な伝言ゲームの果てに」という名コピーがある。
   振り返ると、仏教の解釈史は確かに壮大な誤解の歴史といえるかもしれない。
   そうした誤訳、誤読、誤解のすべてを解くには多くの人たちの、たゆまぬ努力が
   必要である。
   著者による一連の仕事はそうした誤解を解くための、意味深い第一歩となるで
   あろう。

私が興味を覚えたのは、「壮大な伝言ゲーム」「壮大な誤解の歴史」という部分です。
これは仏教だけでなく、キリスト教にも言えることです。

イエスが教えたことがらと、聖書に書かれた内容とがはたして一致しているのか?
なにしろイエスは何一つ文書を書き残してはいません。また新約聖書の中のイエス伝に
あたる4つの福音書は、一番はやい時期に書かれた「マルコ福音書」ですら、イエスの死の
30年ほど後に書き記されたと考えられています。

イエスの教え → 聖書(とりわけ福音書) → 地中海世界に広がったキリスト教・・・
これが、前出の「壮大な伝言ゲーム」と無縁のものだという根拠はあるのか?

ところが教会には、そういう疑問に答えるとき重宝される言葉がちゃんとあるのです。

   Q:なぜ、カトリック教会は誤りなく教えを説くことができますか。

   A:カトリック教会は、イエズス・キリストが常にこれを離れ給わず、
     聖霊が絶えずこれを導き給うのでありますから、誤りなく教えを
     説くことができます。
   (カトリック要理 第146番)

つまりカトリック教会においては、聖霊の導きによって、伝言ゲームは忠実に受け継がれて
いるという主張です。
「聖霊」という神の力を持ちだしてその正当性を主張するのですから、普遍的な妥当性を
ここに見出す非キリスト者はいないでしょうが・・・

それでも、教会内部ではここに引用した「聖霊の導き」「イエスの直系」という論理が
連綿として受け継がれてきました。

ところが、最近では教会内部でもその伝統?は失われつつあります。

大阪カトリック時報 2011.11 号に、大司教区の「祈り推進チーム」による文章があります。

   神様の前に出るには、「よそいき」になってしまう人は少なくないように思います。
   こんな自分では神様は応えてくださらないと考え、神様の前に出るには、「よい
   自分」でなければならないと思いこむ、こんなことはなかったでしょうか。

   私たち一人ひとりを愛して造られた神様は、幼い子どもがお母さんの胸の中に
   何も考えずにただ飛び込んでいくように待っていらっしゃるのではと思うのです。

   怒っている時は怒っているままに、悲しい時は悲しいままに、うれしい時は
   うれしいままに、幼子ののように飛び込んでみたら神様との親しさも増すように
   思うのです。

これはこれでひとつのキリスト教理解・神理解であろうと思います。
しかし、それが「壮大な伝言ゲーム」の中のひとつのフェーズに該当しないか?といえば
疑問も残ります。

神の前に出る場面の典型として、カトリックには日曜日のミサへの出席と聖体拝領があります。
それに関して、先に引用したカトリック要理には次のような記述があります。

   Q:信者は、どのような心構えで、ミサ聖祭に与らねばなりませんか。
   A:ミサ聖祭に与る時には、キリストの御受難、御死去を思い出し、司祭と心を
     合わせてこれを献げ、なるべく聖体を拝領するよう心がけねばなりません。

   Q:聖体拝領には、どのような準備が必要でありますか。
   A:聖体拝領には、霊魂及び肉身の準備が必要であります。

   Q:聖体拝領に必要な霊魂の準備とは何でありますか。
   A:それは、聖寵と善意とをもつことであります。

   Q:聖寵をもつとはどういうことでありますか。
   A:聖寵をもつとは大罪のないことをいうのであります。

   Q:大罪のある者は、聖体を拝領する前に何をしなければなりませんか。
   A:大罪のある者は、聖体を拝領する前に、必ず悔悛の秘跡を以て霊魂を
     清めねばなりません。

   Q:大罪がありながら、聖体を拝領すれば、どういうことになりますか。
   A:大罪がありながら聖体を拝領すれば、涜聖の甚だしい罪を犯すことになります。

カトリック要理では、まだまだ Q&A が続きます。

先に紹介した「祈り推進チーム」の内容と比べて、ここに「壮大な伝言ゲーム」「壮大な誤解」の
要素はないといいきれるのか? 私は疑問に思います。

さらに福音書の一節を思い出しました。

  マタイ福音書22章
     1 イエスは、また、たとえを用いて語られた。
     2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。
     3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
     4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。
     『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた
      家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
     5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、
     6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
     7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。
     8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、
      ふさわしくなかった。
     9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
    10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、
      婚宴は客でいっぱいになった。
    11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。
    12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。
      この者が黙っていると、
    13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。
      そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』
    14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」
所属教会の主任神父も説教の中で「・・・ではないでしょうか」という言葉を使う癖があります。
もちろん普段の会話では当たり前のものです。

ただ、教会の立場から(説教台から、教区時報の記事で)、「・・・ではないでしょうか」とか
「・・・と思います」という表現を聞かされると、ついつい「壮大な伝言ゲーム」の一場面を
連想してしまうのです。

乱暴にいえば、どんな宗教でも長年にわたって「壮大な伝言ゲーム」と「壮大な誤解」を
連綿と続けているにすぎない・・・というのが、私の実感です。

2011/11/07

トップ・ページへ