50数年の信仰体験を経て見つけ出した「イエスの生き方」:

それは「報いを求めず、誉れを欲しない」  →  最後は「野垂れ死」の生き方


教会が教える
人生の目的


私は戦後まもなくして、カトリック教会に出入りを始めました。
そこで教会の教えを学ぶ際に用いられたのが「公教要理」というなつかしい冊子です。
文庫本よりひとまわり小さいサイズで 228ページのこの書籍は、カトリックの教えを問答形式で説明したものです。

その第1番目では、こう教えています。
 人は何のために、この世に生まれて来ましたか。

 人がこの世に生まれて来たのは、天主を知り、天主を愛し、天主に仕えて、遂に天国の幸福を得るためであります。
ここで使われている「天主」という言葉は、現代では「神」と呼ぶようになっているカトリック用語です。

要するに、人生の最終目的は「天国の幸福」であり、それを得る手段として、神様のことをしっかりと知り、神様と隣人を愛し、 神様に仕えなければならない ・・・ ということです。

ここから分かるように、キリスト教は徹底して「報いを期待した教え」です。
いわゆる現世的な報いではないにしろ、最終的には「天国の幸福」という報いを前提に、神を愛し、神に仕えなさいという教えです。

私は、こういう教えがよくないなどとは決して言うつもりはありません。
人間は、報いを前提に努力を重ね、善行に励むものだと思っています。

ただ、それが「イエスの教え、イエスの生き方」であったか? と考えるなら、違うのではないかと思っているのです。
つまり、キリスト教 イコール イエスの教え・生き方 とはいえないということです。
私の「発見」は、この点にあります。
イエスの教え
では ・・・
イエスのたとえ話のひとつに、「善きサマリア人のたとえ」という有名なものがあります。(ルカ福音書)
 10:30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。
       追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
 10:31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
 10:32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
 10:33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
 10:34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
 10:35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。
       『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
 10:36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
 10:37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。
       「行って、あなたも同じようにしなさい。」
このサマリア人は、何かの報いを前提に このような振る舞いをしたと、あなたは思いますか?
むしろ、彼の行動の原点は「その人を見て憐れに思」ったという彼の心情にこそあるのではないでしょうか?

「憐れに思い」と訳されているこの言葉のもともとの意味は、「目の前の人の痛みを見て はらわたがゆさぶられる」ことだと、幸田神父(当時、 NHKこころをよむ「マルコによる福音書 (上)」 1995)は説明しています。

  あわせて、次の サイト を参照。

  http://tokyo.catholic.jp/cgi-bin/MT/archives/2004/07/102537_2004711.html

そもそも福音書本文にはない「善き」という修飾語を付加したのは、聖書を編集した(後世の)人たちです。
もともとの福音書には、「章」や「節」の区分がなく、また現在 私たちが目にする「小見出し:善きサマリア人のたとえ」などの記述もなかったのです。
聖書を編集した人たちが、自分たちの信仰をそこに反映させているのです。

つまり、イエス様ご自身は、たとえ話の中の主人公を「善い」とか「悪い」とか評価して提示してはおらず、「律法の専門家:律法学者」が自ら どう生きるかを見つけ出すように ・・・ と言い返している場面なのです。

同じ「提起」が私たちにも向けられているのではないでしょうか?
これこれをすることが「正しく(善)」、これこれをするのは「間違い(悪、罪)」だと形式的・画一的に決めつけるのではなく、「お前は、目の前の出来事をどう受けとめるのか?  どう振る舞おう(生きよう)としているのか?」というイエス様からの問いかけを、このたとえ話から読み取ることが大切だと考えます。

その振る舞いの結果が「どんな報いをもたらすか」ではなく、目の前の出来事を前にして、自分の「はらわた」がどう反応するかをしっかりと見定めなさい! というのが、 イエス様の言いたいことだったと 私は思うのです。
仏教では ・・・ 2007/7/24 の毎日新聞(大阪本社版)に、奈良・興福寺貫主の多川俊映さんの次のような話が紹介されていました。
    褒めることも大切かもしれないが、ここで知って欲しいのは背景に、常に評価という物差しがあることだ。
  しかし、仏教では評価は問題にするなと説いている。「維摩経」の布施について書かれた一文はそのことを
  説いている。

    「布施は、是、道場なり。報いを望まざるが故に」

  布施というのは本来相手が望むものをすべて与え、しかも報いを望まないものなのだ。
  舎利弗という仏弟子が前世で布施行をしていたとき、バラモンがやってきて何でもくれるなら
  お前の目玉が欲しいという。
  舎利弗が目玉をくりぬいて渡すと、バラモンは生臭いと捨ててしまう。
  それに舎利弗が怒りを覚えた瞬間、行は成就せず終わったというのである。
この文章を読んだとき、私は イエス様の生き方を直ぐに思い浮かべました。
イエス様の振る舞いのベースは、目の前のひとりひとりに向けられたご自身の「はらわたの痛み」です。
その振る舞いが「善い行い」として評価され、何らかの報いを期待してのことでは決してない。

イエス様の生き方の最大の魅力・特徴を、私は「報いを求めず」に見出しています。
称賛や栄誉? キリスト教では、神は「称賛や賛美」を欲する存在として語られ、そのための儀式や祈りを信者に勧めています。

これは旧約聖書以来のユダヤ・キリスト教の伝統です。
    主の慈しみに生きる人々よ
    主に賛美の歌をうたい
    聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。(詩編 30:5)

    だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。
    善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。
    (ヘブライ人への手紙 13:15, 16)
神に向かって、人間のできることといえば「賛美と感謝」しかないであろうことは、私にも納得できます。
しかし、それを「神がお喜びになる」とか「神が欲していらっしゃる」という言い方をされると ほんまに? と思うのです。

カトリックの神学では、神は「完全無欠」なお方として説明されているのですから、神が何かを必要とするとか、何かを欲するということはないはず。
被造物である人間の存在や振る舞いが、神の「完全無欠」さを損なったりできるはずもありません。

人は、ただ神に向かって、他の方法では何もできないことから、「賛美と感謝」をささげているということでしょう。

ところが神への賛美と感謝を信者に勧める教会は、同じことを「聖職者」や「信仰の模範である聖人たち」に対する姿勢としても求めています。

NHK で昨年放映された「毎日 モーツァルト」では、当時のザルツブルグの大司教が、王侯貴族のように振る舞い、モーツァルトを悩ませていました。
ミケランジェロと教皇ユリウス2世の相克を描いた映画でも、この芸術家は聖職者に頭が上がらない立場に置かれていました。
現代のバチカンでも、世界中から巡礼に来た信者は Viva Papa ! (教皇、万歳!)と称賛の声を上げています。
世界各地の司教様たちも、同様の姿勢を信者に求めます。 私が子供の頃、当時の福岡の司教様が私たちの教会に来臨なさった際には、信者の代表が 出迎えた駅のホームで、ひざまづいて司教様の指輪に接吻をしていた様を、私は今も鮮明に記憶しています。
それぞれの教会の司祭がたも、同じように信徒に聖職者への尊敬と服従を求めます。 あらゆる決め事は司祭の許可・承認なしではありえないのです。

信仰の模範である聖人・福者への尊崇もカトリックでは盛んです。
来年の11月には、長崎市で、新しい日本の殉教者の列福式が盛大に行われことになっています。
これが、教会にとってきわめて当たり前のこと・大切な行事であることは、私も承知しています。
ただ、それがイエス様ご自身の生き方から来るものかという点では、疑問を覚えるということです。

イエス様が、そのご生涯を通じて そのような称賛や栄誉を欲していたとは、とうてい思えないのです。
十字架の死は
野垂れ死
キリスト教では、イエスの十字架上の死は、悪と罪に対するイエスの勝利のシンボルです。
「イエスの受難によって、私たちは救われた」というのが、キリスト教信仰の中心です。

しかし、イエス様はあの受難をそのように語っていたのでしょうか?
十字架上の死の前夜、ゲッセマネの園で血の汗を流して苦しまれたイエスは、こう父である神に祈っています。
    「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
    しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」  (マタイ 26:39)
イエス様にとって、この受難は「当然のできごと」「予定された計画」とは言えなかったということでしょう。

しかし、イエス様はご自分の生き方の結果として、それを受けとめるしかなかった。
それが「野垂れ死」と見られようと、ご自分の生き方・生き様の行き着く先として、十字架上の死を受けとめられたのだと思います。

イエス様は「野垂れ死」が怖くて、目の前のひとりひとりの苦しみに「はらわたを痛める」ことをやめることなど 断じてなさらなかった。

私たちもまた、たとえ行き着く先が「野垂れ死」であっても、イエス様にならって「はらわたを痛める」生き方をするよう招かれているのだと思います。
「野垂れ死」を受けとめる生き方こそが、イエス様の生き方だと私は考えるようになりました。
教会は学校
みたいなもの
以上のような経緯を経て、キリスト教 イコール イエスの教え・生き方 ではないと私は考えるようになりました。
では、キリスト教は間違っているのか? そうではありません。

キリスト教は、イエス理解のひとつの形です。 長い歴史の中で、多くの人々の信仰体験と神学的な思考の積み重ねによって形作られたすばらしいものだと思います。

人々に「イエスを通して神に出会う」きっかけ・チャンスを提供し続けている 最高の「秘蹟、神様からの贈りもの」だと確信しています。
実際、私はカトリック教会を通じて、神様に出会い、イエス様の生き方にならうことを願うようになったのです。
教会は、そのような大切な役割を担っていると思います。

では、今の私にとって教会はどのようなものに見えているのでしょうか?
たとえていえば、それは「学校のようなもの」だと思っています。
私たちは学校で学び、いろいろな知識と生きる知恵を習得します。 人生においてなくてはならない存在・機能です。
しかし、学校は「卒業していく」ものでもあります。

教会で学んだキリスト教を、自分の実生活の中でどのように表し・己の生き方として実現していくか?
それはひとりひとりのキリスト信者が受けとっている「課題」だと思います。
答えはひとつではない。 それぞれのキリスト信者のおかれた環境・条件のなかで、それは育んでいくものでしょう。

私にとっては「報いをもとめず、誉れを欲しない イエスという生き方」こそが、キリスト教の向こうに見えてきた信仰の姿だったという訳です。
これはキリスト教信仰そのものとは やはり違うものだと思います。

今、私は同窓会に参加するような気持ちで毎日曜日のミサにあずかっています。
キリスト教は、私の信仰の母校だからです。