イエス様は神の子か、人の子か?

キリスト教では「イエス・キリストはまことの神、まことの人」と宣言しています。  →  「まことの人」であるイエス様をしっかりと見つめましょう。


1.<イエス・キリスト>は
  名前ではない
    
  イエス・キリストという言葉を聞いて、姓はキリスト・名はイエスと思っている人がいるかもしれませんが、
  そうではないのです。
  これは<イエス = キリスト すなわち救い主>という「信仰宣言」なのです。
  イエスという人物が、2000年ほど前に、現在のイスラエルに生きていたことは、まず間違いない事実だったといえますが、
  それがどのような人物であったかはよく分かっていません。

  こう書くとクリスチャンたちから非難されると思いますが、私たちが教会(キリスト教)を通じて知ることができるのは
  救い主<イエス・キリスト>についての事柄であり、決して歴史上の人物であるイエス様についてではありません。
  つまりイエスという人物についての事実をどれだけ知っているかといえば、相当に疑問があると思います。

  ここではそういう視点から、イエスという人物の本当の姿を探る努力をしてみたいと思います。
2.「史的イエス探究」
  という立場

    
  イエス・キリストという表現が、イエスを救い主として受け入れるという信仰宣言であることは先ほど書いたとおりです。
  私たちがキリスト教という宗教を通じて知るイエスというお方は、あくまでも信仰の対象としてのイエス様です。
  もちろんイエスを神の子として崇め、自分の救い主として信仰することはキリスト教の立場からは当然です。
  私自身、60年ほどのカトリック信者としての日々を通じて、他のクリスチャンと同様に<イエス=キリスト>という
  信仰宣言を表明し続けています。

  しかし一方では、そういう信仰上のイエス、すなわちキリストとしてのイエスではなく、歴史上の人物としてのイエス
  明らかにしたいと考えた人々もいます。
  これが「史的イエス探究(研究)」という考えです。
  イエスを信仰の立場からではなく、歴史的な「存在」・「人物」として明らかにしてみようという熱意は、私にも理解できます。
  クリスチャンの中にも、そういう立場を支持する人がある一方、あくまでもそういう「探究」は信仰の補助的な手段ではあっても、
  それがそのまま信仰につながるとは言い難いという立場の人々もたくさんいます。
  昨年の秋、上智大学のキリスト教文化研究所が主催した「聖書講座」のテーマは史的イエス研究の射程と限界というものでした。
  テーマからは、「探究(研究)」の意味を認めつつも、信仰の立場からは限界があるという主張が読み取れるように思います。
3.「まことの人」である
  イエスを考える





  史的イエス探究が、必ずしも<信仰への道のり>を前提にしているとは言えないとしても、それがまったくの的外れなものとは
  私には思えません。
  というのは、「正統派キリスト教」の教義には「イエスは<まことの神>であり、<まことの人>である」というキリスト両性論と
  いう主張があるからです。
  これは、初期のキリスト教の中に、「イエスは神であり、人としての姿をとったのはあくまでも仮の姿でしかなかった」と主張する人や、
  逆に「イエスは人間でしかなかったが、その立派な生き方によって、神がご自分の子として認めるにいたった」と考える人もいたようです。

  そういういろいろな意見を整理するために、何度か大規模な教会会議(公会議)が開かれています。

325年ニカイア公会議 アレクサンドリアの司祭アリウスの立場(キリストの神性への疑問)を否定し、
イエスを「父と本質を一つにする神の子」と宣言。
451年カルケドン公会議 コンスタンティノポリス司教ネストリウスとアレクサンドリア司教キュリロスの
対立・論争の整理。
ここでは、イエスはどうやって神性と人性をひとつの人格の中で統合しえたか? がテーマ。
結論は、イエス・キリストは「真の神にして真の人」。

     *参考書籍 ジェラール・ベシエール「イエスの生涯」(創元社)


  このように、正統派キリスト教では

    「イエスは真の神=神の子」であるとともに「イエスは真の人=仮の姿ではなく、正真正銘の人間」

  と教えており、「イエスというペルソナ(人格という表現は不正確です、カトリックでは位格とよんでいる)の内に、神性と人性とを
  兼ね備えている」という立場です。

  私は、この「まことの人」という部分に注目したいと思っています。
  私にとってイエスは「神であり、同時に人である」ことから、両方の面からイエスというお方の姿を見据えたいと思うのです。
  「まことの神」としてのイエスの姿は、教会が一生懸命教えてくれました。しかし「まことの人」としてのイエスの姿を、
  教会は必ずしも十分には見せてくれていません。

  ということで、以下の私のささやかな考察は、いわゆる「史的イエス探究」とは一線を画すものです。
  あくまでも「神の子イエス」が地上で見せた姿=「まことの人」としての姿を、自分なりに確かめてみたいという熱望です。
  それは信仰の面からも大事なことだと確信します。
  こういう立場をご理解いただければ幸いです。
4.イエスの誕生について

  「まことの人であるイエス」を、その誕生の時点で見るとき、少なくとも聖書(厳密には福音書)は、何も述べていないに
  等しいと思われます。
  イエス誕生の時期は、決して西暦1年ではありません。

  そのあたりのことを、中丸明「絵画で読む聖書」(新潮社) は、次のように記しています。

        西暦ADを考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニュシウス・エクシグウス
        (500年頃〜560年)である。
        西暦525年に彼は、日付をきめる基準としてAD、すなわち Anno Domini (「われらが主の年」の意味) を考案した。
        のちにローマ教皇グレゴリウスがこれを採用したのだが、エクシグウスにはちょっとした計算ミスがあった。
        彼は、イエスが誕生した年をローマ建国の753年後としたのだが、「福音書」などの記述などから聖書学者たちが
        検討したところ、イエスが生まれたのはヘロデ王が死ぬまえだったらしく、イエスはBC4年以前に生まれていたらしい。
        ということになっている。

  またマタイ福音書によるとイエス誕生の直後、ヘロデ王による<嬰児虐殺>があり、イエス一家はその難を避けてエジプトに逃避
  したということになっています。
  一家がイスラエルの地に戻ってくるのは、ヘロデ王が死んだ後ということです。
  ところがルカ福音書によるとそういう事柄には一切触れず、エルサレムの神殿で律法に定められたもろもろの儀式(割礼など)を
  無事に済ませて、両親ともども平穏に故郷ナザレに戻って行ったことになっています。

  ということで、イエスの誕生に関しては聖書が<事実>を記述しているとは言い難いのです。
5.イエスの死について

    
  では、イエスの死についてはどうでしょうか?
  4つの福音書には、詳細部分は別にしてひとつだけ確実に共通する要素があります。
  それはイエスが十字架刑によって死に至ったという点です。

  パウロは十字架刑を
     「キリストはわたしたちのためにのろわれた者となって、律法ののろいからわたしたちをあがない出してください
     ました。−−「木にかけられた者はすべてのろわれた者」と書き記されているからです。−−」(ガラテア3章13節)
  と説明しています。

  これは「まことの神」であるイエスに関する記述ではあっても、「まことの人」としてのイエスに関するものとはいえません。
  「まことの人」イエスの十字架刑の意味は、別の視点から探究されるべきでしょう。
6.十字架刑の意味を、
  「まことの人」の視点
  から考える


  当時のユダヤは、ローマ帝国の支配下にありました。
  紀元前4年ヘロデ王が死んだ後、国内のあちこちでユダヤ人による反ローマの反乱がおこり、最終的に帝国はそれらを平定し、
  ヘロデの王国を三分割して傀儡政権を置くとともに、ローマ総督の監視のもとに置いています。
  ローマによるユダヤ支配という<歴史的事実>を踏まえて、イエスの時代・イエスの死<十字架刑>を考えることは決して
  無意味ではないのです。

  十字架刑が、実はローマの処刑方法であり、決してユダヤの律法による処刑方法ではなかったという<事実>を知ったとき、
  私は「まことの人」であるイエスの生き方・生き様に目覚めた気がしました。  参考書籍:半田元夫「イエスの死」(潮新書)

  ローマ帝国はこの処刑方法を、重大な犯罪者、逃亡奴隷や叛徒などに用いたということです。
  福音書は、イエスと一緒に十字架にかけられたふたりを「盗賊」などと記していますが、歴史の現実を顧みるなら、
  そのような理由での十字架刑など考えられないというのが真相のようです。
  つまり福音書は、意識的に「ローマへの反逆者としての処刑」という事実に目をつぶってイエス伝を記述しているということになります。
  ここからは「まことの人」イエスの姿は見えてきません。
7.イエスはローマへの
  反逆者か?


  「では、イエスは反ローマ運動の革命家であったのか?」と問われれば、私はそうは考えていません。

  というのもイエスの行動のすべて(あるいは主たる狙い)が、反ローマ帝国という政治的な意図のもとに展開されていたとすれば、
  その進め方はあまりにも荒唐無稽であり、計画性のない夢物語でしかないと思えるからです。
  帝国からのユダヤ民族の解放を本気で考える「革命家イエス」であれば、福音書から垣間見えるような<ユダヤの伝統・律法主義
  批判>をあれほど熱心にとりあげることはなかったでしょう。
  「革命家イエス」の真の敵は、ユダヤの支配者ではなく、ローマ帝国だったはずです。
  ところが、福音書の記述にはそういう傾向は皆無です。

  前述の半田氏の最後の文章に次のようにあります。

     しかし、イエスが政治犯としてピラトゥスによって十字架刑に処せられたことは、動かしがたい事実として残る。
     イエス自身革命的意図をもっていたかどうかは別問題として。

  私は、イエスが反ローマの叛徒だとは考えませんが、イエスの「律法主義批判・ユダヤの伝統批判」が、ユダヤ社会上層部の
  反感を買い、彼らの策謀のもとでローマ兵による逮捕・処刑につながっていったと理解するようになりました。

8.イエスはユダヤの
  伝統・律法を
  どのように批判
  したか?


    
  これは福音書から拾い出しても枚挙のない多さでしょう。
  いわく、
    イエスは彼らの考えを自分の霊の力によってすぐに見ぬき、こう言われた。
    「どうしてそんな考えを抱くのか。中風の人に向かって『あなたの罪は今ゆるされ
    た』と言うのと、『起きて、寝床を持って歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。」
      (マルコ2章8・9節)
    そして彼らに、「安息日に善を行うことと、悪を行うことと、また命を救うことと、
    殺すことと、どちらが律法にかなっているか」とお尋ねになった。
    ファリサイ派の人々は黙っていた。 イエスは怒って見まわし、その心のかたくなさ
    を悲しく思い、患っている人に向かって、「手を伸ばしなさい」と仰せになった。
    その人は手を伸ばした。 すると、彼の手はもとどおりになった。
    ファリサイ派の人人は出て行き、イエスのことについて、どのようにしてなきものに
    しようかと、ただちにヘロデ党の人たちと協議を始めた。
      (マルコ3章4〜6節)
    そしてイエスは、女に、「あなたの罪はゆるされている」と仰せになった。
    そこで、席を同じくしていた人々は、「罪をゆるすこの人は、いったい何者だろう」
    と心の中で言い始めた。
      (ルカ7章48〜50節)
    『妻を離縁する者は、妻に離縁状を渡せ』と命じられている。
    しかし、わたしはあなたがたに言う。 ・・・ 妻を離縁する者は皆、姦通の罪を
    犯す機会を妻に与えることになる。 また離縁された女をめとる者も、姦通の罪を
    犯すことになる。 ・・・ あなたがたは『はい』は『はい』、『いいえ』は
    『いいえ』とだけ言いなさい。
      (マタイ5章31〜37節)
    そこでファリサイ派の人々と律法学者たちはイエスに尋ねた。「どうしてあなたの
    弟子は昔の人の言い伝えどおりにふるまわず、清められていない手で食事をする
    のですか」。 イエスは仰せになった。「 ・・・ あなたがたは神のおきてを
    なおざりにし、人間の言い伝えを固く守っている」。
      (マルコ7章5〜8節)

  当時のユダヤ社会が、ユダヤ教と言う宗教的権威にがんじがらめであったことは明らかです。
  イエスはそういう「宗教的権威・宗教的呪縛」を徹底的に批判しています。
  それは「ユダヤ教のこういう部分を刷新したい」とか「あたらしい宗教を始めよう」という類のものではなく、
  むしろ反ユダヤ教といってもいいような過激なものだったと思われます。だからこそ上記(マルコ3章)のような
  イエス殺害の協議につながっていったのではないでしょうか?

  イエスは決して「キリスト教の創立者」ではありません。むしろ「脱宗教」の理念をもった改革者だった
  のではないでしょうか。
9.イエスを旧約の延長
  線上で見ることを
  やめませんか?


  キリスト教は「ユダヤ教」という根っ子に接ぎ木して誕生した宗教だと考えることができます。

     1) マタイ福音書で顕著な傾向ですが、イエスにかかわる話題を紹介したのちに、
        「これは旧約の預言が実現するためであった」という文言がしばしば使われています。
     1:20  このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。
         「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって
         宿ったのである。
     1:21  マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救う
         からである。」
     1:22  このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためで
         あった。
     1:23  「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、
         「神は我々と共におられる」という意味である。
     1:24  ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ(た。)
     2:16  さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、
         学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の
         男の子を、一人残らず殺させた。
     2:17  こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
     2:18  「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、
         慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」
     5:17  「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。
         廃止するためではなく、完成するためである。
     5:18  はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から
         一点一画も消え去ることはない。
     5:19  だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で
         最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる
         者と呼ばれる。
       など。

     2) パウロ書簡でもイエス様を旧約時代のユダヤ教の伝統を刷新し完成させるお方だという意味の記述が見られます。
     ・ ロマ書
       5:14 ・・・ 実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
       5:15 しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになった
          とすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに
          注がれるのです。
     ・ Tコリント書
      15:21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
       15:22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が
          生かされることになるのです。
      15:23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、
          キリストに属している人たち、
      15:24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、
          父である神に国を引き渡されます。
      15:25 キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
     ・ ガラテア書
      3:19 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、
         違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定された
         ものです。
      3:20 仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれた
         のです。
      3:21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かす
         ことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。
      3:22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、
         イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。
      3:23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで
         閉じ込められていました。
      3:24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰に
         よって義とされるためです。

     3) 教皇ヨハネ・パウロ2世は、次のように発言なさっています。        
     キリスト教は、自らの秘義を追い求めていくと、ユダヤ教との絆に気づくこと、キリスト教にとってユダヤ教は、
      "外なるもの" ではなく"内なるもの"であり、ユダヤ教は優先すべき兄弟であり、「ある意味で兄とさえ言える」ということ。
     イエスの受難のときに起こったことのいかなる責任も民族としてのユダヤ人に負わせることはできないということ、
     ユダヤ人差別と迫害を神学的に正当化する根拠はないこと、そこから帰結されることだが、ユダヤ人が神から排斥された者、
     呪われた者とかいうことは新約聖書からも旧約聖書からも結論されないこと、ユダヤ人はむしろ神にとってきわめて貴いもの
     であり(ロマ11・28)、その使命は消されるものではない。

  以上のようなことから分かることは、ユダヤ教とキリスト教とは連続性を有しているという認識です。
  ユダヤ教の伝統(旧約聖書の世界)は尊いものだが不完全なもの、イエスの登場によってそれは刷新(完成)され・新しい
  展開をしたのがキリスト教であるという主張でしょう。

  はたしてそうなのでしょうか? 私にはそうとは思えないのです。

  イエス様が、ユダヤ教の伝統(旧約)の完成者であるなどというのは妄想であり、そういう思い込みから抜け出ることが
  イエス様の真意をただしく受け止めることだと私は思うようになりました。

  イエス様の言いたかったことは、ユダヤ教をはじめとする諸宗教が神を誤解しているという点を明らかにすること
  だったと思います。

  宗教は、神と人間の関係を「裁く神:審判者、罰を下す権力者」と理解するところから出発していますが、イエス様は
  それを否定なさっていると理解します。

  神は人をその行いの善悪で差別することなど絶対になさらない。
  それは「ぶどう園の労働者のたとえ」や「放蕩息子のたとえ」で明らかだと私はすでに指摘 しました。

  私たちは、神を「審判者:罰を下す権力者」として仰ぎ見るのではなく、ご自分が創造なさったすべての存在(私たちと
  全宇宙)を完璧に包み込んでいらっしゃる方だと信じなさい ・・・ イエス様はそう教えて下さっているというのが
  私の イエス信仰 の原点であり、核心なのです。   

2010. 9. 5   一部改訂: 9. 7