イエス様が教えてくださったこと :

それは「父である神は、人を差別なさらない」  →  「目の前のひとりとかかわる」生き方


差別なさらない神

  その1
マタイ福音書20章に次のようなイエス様のたとえ話があります。
     「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
      主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
      また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
       『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
      それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
      五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
      彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
      夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に
      賃金を払ってやりなさい』と言った。
      そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
      最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
      それで、受け取ると、主人に不平を言った。
       『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを
      同じ扱いにするとは。』
      主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
      自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
イエス様が教える父である神の姿は、このようなものです。
決して苦労した時間の長短によって、報酬を差別なさることはしていません。

この個所を説明する牧師さんたちはいろいろと工夫をなさっていますが、イエス様は実に単純明快に
父である神の姿・イメージを話してくださっていると受けとめています。

父である神は、人をその働きによって差別なさる方ではないというメッセージを、ここから読み取りたいと思います。
差別なさらない神

  その2


ルカ福音書15章の「放蕩息子のたとえ話し」は、非常に有名なものです。
      また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
      弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を
      二人に分けてやった。
      何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使い
      してしまった。
      何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
      それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
      彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
      そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしは
      ここで飢え死にしそうだ。
      ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
      もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
      そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、
      走り寄って首を抱き、接吻した。
      息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格は
      ありません。』
      しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を
      履かせなさい。
      それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
      この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

      ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
      そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
      僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
      兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
      しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度も
      ありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
      ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠って
      おやりになる。』
      すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
      だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは
      当たり前ではないか。』」
このたとえ話に関しても、牧師さんがたはいろいろと工夫をなさって説明しています。
そこではおおむね「放蕩息子の改心」と「父親の愛」とがセットで語られることが多いようです。

私はちょっと意地悪な質問をしてみたいと思います。
もしも、この出来事の数ヶ月・数年後に、再び弟が父親に前と同じような願いをしたとします。その時、父親はどう反応するでしょうか?

私は、父親はもう一度同じように弟が出て行くことを認めるだろうと思います。

イエス様はこういっています。
      そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。
      七回までですか。」
      イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
      (マタイ福音書18章21・22節)
イエス様の示す父なる神の姿は、裁く神・罰する神ではなく、どんな人であっても受け入れてくださる姿だと思います。
差別なさらない神

  その3
これまで見た2つのたとえ話を通じて、私はイエス様が示してくださる父なる神の姿をそのように受けとめましたが、
究極の「描写」はマタイ福音書5章45節だろうと思います。
      父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる(からである)。
これは「現世」のことを指しているのであり、死後の審判はそうではない ・・・ とおっしゃる方もいるかと思います。
イエス様はそのような使い分けをなさっているのでしょうか?
私は素直にこの言葉を読みたいと思います。
そして神仏に「自分の期待することの実現を願う・祈る」ことよりは、神が天地を創造なさった際にそこに組み込まれた「約束事・
ルール・アルゴリズム」に従って万物が時間を刻んでいくことを、神のご意思として受けとめたいと思います。

人を差別なさらない神に、「己の欲・利益」をひたすら祈ることは、決して神のお望みとは思えません。
目の前のひとり

  その1


イエス様は、父なる神との関係を以上のように教えてくださったと思っていますが、人間同士の関係についても端的な表現で私たちに
語って下さっています。
      イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。
      追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
      ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
      同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
      ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
      近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
      そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。
      費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
      さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
      律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」
      そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
      (ルカ福音書10章30〜37節)
別のところでも書きましたが、このサマリア人は決して誉められることを意図してでもなく、天国の幸福を願ってでもなく
ただ目の前の傷ついた人を見て「こころを揺さぶられ」て、このように振舞ったのだと思います。
この後、傷ついた人と二度と顔を合わせることもなかったかも知れません。

現世的に考えれば、縁もゆかりもない他人に身銭をきって親切にしたという話しです。
しかしイエス様は「あなたも同じようにしなさい」と話しておられます。

損得ぬきで目の前のひとりの人とかかわる ・・・ これがイエス様の生き方のポイントだろうと思うのですが、いかがでしょうか?
目の前のひとり

  その2


ヨハネ福音書8章の話も、イエス様の生き方をはっきりと伝えています。

    8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
  8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
  8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
  8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
  8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、
        まず、この女に石を投げなさい。」
  8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
  8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
  8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
  8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう
         罪を犯してはならない。」
現代人の私たちから見ると、姦淫の現場を抑えられた女が群衆によって石打の罰を受けるなどということは信じがたいことですが
当時のユダヤ社会では当たり前の話だったようです。
しかしイエス様は、その女を死の窮地から救い出しています。

この場は、機知によって女を救ったイエス様ですが、こういう振る舞いは当時のユダヤ社会の上層部にとって好ましからざるもので
あったと考えられます。
彼らは次第にイエス様に対する敵愾心を高めていき、社会の平穏を乱す男・当時の統治者であるローマ帝国に反抗する人物として
最終的に十字架の死をイエス様に与えるよう動き始めます。
イエス様が、当時のユダヤ社会の律法・習慣に縛られた生き方をしていたら、決して十字架の死を迎えることなどなかったでしょう。

しかしイエス様はそうはなさらなかった。最後は十字架の死を迎えることを予想しつつ、それでもなお、今、目の前で人々に
石打ちされそうになっている「罪深い女」にかかわっていくのです。

こういう命がけの人とのかかわり方こそが、イエス様の教えであったと私は受けとめています。
          ここで「罪深い女」とか「姦淫の女」と記されていることについて

          これはあくまでも当時の社会および初期のキリスト教の人々が使っている言葉つかいです。
          イエス様が彼女をそう呼んでいたわけではありません。

          実はこの個所は、聖書のある写本には記載されておりません。
          おそらく当時の教会の人々は、このような行為を極めて罪深いものと考えていたことでしょう。
          それが「改心の言葉」もないままに、イエス様の許しに与ったというのですから、彼らの心情として
          受け入れ難かったとしても不思議ではありません。
          「これからは、もう罪を犯してはならない」という文言も、イエス様の言葉というよりは、当時の教会の
          人々の思いの反映のように思えてなりません。
呪縛からの解放



人とのかかわりこそ
イエス様の教えを以上のように受けとめると、私たちは神様の前で「裁かれる身分」「行いによって罰を受ける身分」であると
怯えることはないという認識に到ります。

神は万物を罰するために・裁くために創造なさったのではない!!
イエス様が教えてくださったように、決して神は人を裁く方、差別なさる方ではない!!

このことを知れば、私たちはいわゆる宗教的呪縛から解放されることになります。

イエス様は、私たちに「宗教からの解放」を教えて下さっているということです。


神の裁き・罰という呪縛・恐れから解放された私たちは、周囲のひとびとに本気で目をむけることができるようになるのです。

イエス様がすでにその見本を見せてくださったように、目の前のひとり・ひとりに目を向け・かかわっていくこと。
それこそがイエス様に倣った生き方・父である神が私たちを創造なさった目的・意図だと考えることができます。


こうして私たちは神の裁き・罰の方を怯えながら見つめるのではなく、隣の人に目を向けることを当たり前のこととして
認識することができるようになりました。


イエス様の教えを学べば学ぶほど、私たちは宗教から解放され、人々とのかかわり・交わりの中に「イエス様に倣う生き方」が
あることを発見するのだと思います。
付記:僧侶からのメッセージ

宗教の果たす役割は



縁の尊さ伝える
2009年10月29日毎日新聞の「心のページ」に、浄土真宗僧侶でもある大村英昭さん(大阪大学名誉教授、
関西学院大学院教授)の話が掲載されています。

          最先端の生命科学で命の流れがほぼ解明されています。
          地球上に命が誕生してからぼくに到達するまでに40億年近い年月が流れている。
          あらゆる命と命の出会いが40億年にただ一度の一期一会ともいえます。
          40億年を分母に置きますと、親子であれ、夫婦であれ、いかに濃密な縁(えにし)といえども、
          ほんの一瞬の、はかない縁ではありませんか。
          で、このあたりを感じ取られますと、どんな命との出会いも、必ずやいとおしくなるはずです。
          絶対に説明できない存在の不思議さ、有り難さ、この感覚を宗教宗派を超えて大切に磨き養って
          いくことが宗教者の役割だと思います。
私なりに解釈しますと・・・

世界(宇宙)は、天地創造の際に神がそこに組み込まれたアルゴリズムに従って時を刻んでいる。
私たちが生まれ・生きているのも、そういう営みの中のひとつ。
それ以上でも、それ以下でもない。  すべては神の予め設定されたアルゴリズムの枠の中で起こっている。
そのアルゴリズムから外れたことを、いかに神に祈ったとしても、それは実現するはずもないこと。
世界(宇宙)は、そのような恣意的なことによっては動きを狂わせたりすることはない。

逆に、神が存在を望んだ私たちひとりひとりを、その行動の故に罰したり・裁いたりもなさることはない。
不幸も・幸福も、神の定めたアルゴリズムに従って生じる出来事。

私たちは、神と人との関係をこのように認識することで、「神を雑事・私たちの欲望に巻き込む」という迷信から
解放される訳です。

そうなれば、私たちは同じ時間を共有するまわりの人々に、もっぱら目を向けることができる。 専念できる。

神仏を熱心に求めれば求めるほど、神と人との関係を天罰・裁き(審判)というキーワードで受け止める
ことから解放される。

こういう理解は宗教宗派を問わずに、誰でもが到達できるものではないでしょうか。