JIJI の「三一神」理解

第一、「三一神」という用語



1.一神教
    キリスト教が一神教であることは、多くの人の知るところですが、ユダヤ教やイスラム教
    とはいささか趣の異なる一神教であることも確かです。
    いわゆる三位一体の神がキリスト教の神だからです。
    なぜキリスト教は単純な一神教ではないのでしょうか。
    単純な一神教では困ること・都合の悪いところがあるのでしょうか。
    単純な一神教でないことが、信仰のありようにどのような影響を与えているのでしょうか。
    それを信徒の体験を通じて考えてみたというのが、この文章の目的です。

2.三位一体についての「陥りやすい」誤解
    二つの点で、しばしば三位一体は誤解されやすいと思われます。
    その第一は、三位の「位」を「ペルソナ」という言葉で説明するためにどうしても擬人化
    されたイメージを抱きやすいという点。
    具体的には、父なる神は「おじいさん」のイメージで信徒の脳に刷り込まれている・・と
    いった不具合(?)です。
    システィーナ礼拝堂の天井画、ミケランジェロが描く「アダムの創造」の場面では、白髪
    の父なる神が創造されたばかりのアダムと指と指を触れ合わせようとしている(?)様と
    して表現されています。これでは「父なる」とはすなわち「気難しい老人風の」と同じ意
    味になります。
    同様に、第二のペルソナは「金髪のイエス」という固定的なイメージで多くの信徒に記憶
    され、第三のペルソナは「鳩」や「炎のような舌」というきわめて捉えどころの無いイメ
    ージで受け入れられています。
    あなたは、このようなイメージで、三位一体の神が「キリスト教の根源的な真理」として、
    信仰の中心・信仰生活を導く原理だと考えることがおできになりますか。
    残念ながら、私はこのような中途半端なイメージの神の姿では、人生をかける信仰の中心
    に据えることに満足がいかないのです。だから、自分なりの神理解をここで模索してみた
    いのです。

    第二の陥りやすい誤解は、三つのペルソナがそれぞれ固有の役割分担をしていると思い込
    みがちな点です。
    父なる神は創造主、子なる神は救い主、聖霊は恵みの与え主。
    これは第一の誤解によるところが大きいのだと思いますが、決してそうではないはずなの
    です。
    ヨハネ福音書の冒頭には、

        初めにみことばがあった。
        みことばは神とともにあった。
        みことばは神であった。
        みことばは初めに神とともにあった。
        すべてのものはみことばによって造られた。
        造られたもので、みことばによらずに
        造られたものは何一つなかった。
                        (フランシスコ会訳)

    とあります。ここで「みことば」はキリストを指していると説明されますから、第二のペ
    ルソナは創造主でもあるのです。
    しかし天地創造の場面に「金髪のイエス」を登場させることが実際的でしょうか。私には
    とてもできない芸当です。
    また、旧約聖書の中にしばしば現れる「神の霊」という表現は、聖霊とは無関係なものだ
    といえるのでしょうか。
    天地創造の場面でも、

        初めに、神は天地を創造された。
        地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、
        神の霊が水の面を動いていた。

    と「神の霊」が記されています。
    天地創造は父のみに固有なみ業ではなく、三位一体の神ご自身のみ業であると理解する方が
    的を得ていると考えます。
    そういう意味でも、ニケア・コンスタンティノープル信条の

        われは信ず、唯一の主、神の御ひとり子イエス・キリストを。
        主は、よろずよのさきに、父より生まれ、
        神よりの神、光よりの光、まことの神よりのまことの神。
        つくられずして生まれ、父と一体なり、
        すべては主によりてつくられたり。

    という表現は、使徒信経の

        我は天地の創造主、全能の父なる神を信ず。
        また、その御ひとり子、我等の主イエス・キリスト。
        すなわち聖霊によりて宿り・・・

    という文言よりは、はるかに正しい神理解をもたらすものだと思います。

    このようにきちんと考えていけば、容易に避けることのできる誤解が、なぜか三位一体の
    お話には付きまとっているのです。
    私は、そういう誤解を避ける意味でも、擬人化をもたらしやすい「ペルソナ」という用語を
    避けたいと思います。
    むしろ、神の第一の「アイディア」、神の第二の「アイディア」などと呼びたい気がしてい
    ます。その意図はこれから徐々に明らかにできると思います。
    また、伝統的な表現と関連させる場面では、「ペルソナ」よりは「顔」という表現を用いた
    いと思います。

3.三位一体論への不思議な思い
    子供の頃から感じている不思議な思いが二つあります。
    その第一は、三位一体は理解不可能なものだと思い込まされていることへの違和感です。
    「公教要理」の勉強で三位一体の個所に来ると、神父さんは必ずといってよいほど、アウグ
    スティヌスのエピソードを持出します。
    三位一体論を考察していたかの聖人が、思索に行き詰まって海岸を散歩します。すると子供
    が砂浜に穴を作り、貝殻で海の水をそこに注ぎ込み続けている様を見たという「あれ」です。

        聖人は子供に尋ねます。「坊や、何をしてるんだい」
        「海の水を全部、この穴に入れようと思ってるの」
        「坊や、それは無理だよ」と諭す聖人に向かって子供は言います。
        「おじちゃんが三位一体を極めるよりは、やさしいと思うけど・・」

    ここで神父さんはいうのです。「あの大聖人ですらこうでした。ましてやあなた達には三位
    一体など分かるはずもないのです。教会が三位一体について教えていることを、その通りに
    信じさえすれば良いのです。」
    「教会が教えていることは、その通りに信じさえすれば良い」というセリフは、いろいろな
    場面で実に便利な用語として、とりわけ外国人司祭によって用いられてきた気がします。
    甲子園の前任の主任司祭は、しばしばこの言葉を利用して私の質問を封じ込めておりました。
    司祭にとっては便利な手段でしょうが、本当にそれで良いのでしょうか。
    邦人司祭は必ずしもそうは言いません。現在の主任司祭は、教会報の中でこう書いています。

        聖書を最終的に解釈するのはカトリック教会の権利と義務です。(中略)信者は教会の
        解釈を、そのまま受け入れることが出来ますが、その根拠を自分の理性で考えることは
        意味のあることです。

    英知大学の岸神父も事あるごとに「信徒の神学」、すなわち信徒なりの理性を発揮して信仰
    理解を深めることを大いに勧めています。
    キリスト教国から来日した宣教師と邦人司祭のこうしたスタンスの違いは、どこから生まれる
    のでしょうか。
    私の印象では、キリスト教国では聖書や教理の学習は「子供たち」を対象とすることが多いの
    ではないか。
    それに対して、日本では成人男女が勉強の場に数多くいる。
    子供たちを対象にするお話と、成人男女を相手にした説明とでは違いがあって当然です。キリ
    スト教国出身の宣教師は、そのことをあらためて認識なさることが望ましいと思います。

    第二の不思議・違和感は、聖霊に関することです。
    三位一体といいながら、父と子にくらべて聖霊はどうも捉えどころのない、抽象的な存在として
    しか受け止められていないのではないでしょうか。
    三位一体がキリスト教の中心的真理であるのならば、聖霊は父と子と同じように信者の意識と
    生活の中でしっかりとした存在感をもち、生き生きとした働きを実感できるものでなくてはなら
    ないのではありませんか。
    多くの信徒は、その点で不十分な状況下に置かれているといったら間違いでしょうか。
    私は聖霊をもっとよく知りたいと願っています。それも自分の理性と体験を通して・・・
    教会が「しょせん理解することのできないもの。教えられたとおりに信じればそれで十分」と
    言っても納得がいかないからです。

4.三一神という言葉
    以上のようなことで、三位一体という用語はとかく誤解や不思議な思いを私に抱かせますので、
    ここではそれに代えて「三一神」という言葉を用いたいと思います。
    この言葉を私は英知大学の竹田助教授の講座(大阪・北野教会で催されているカトリック研究
    講座)で知りました。
    手垢のついたイメージではなく、もっと生き生きとした神の姿を自分のものとして把握していく
    ためには、その方が望ましいと考えたからです。
 

第二、「第一の顔」(あるいは「第一のアイディア」)

第三、「第二の顔」(あるいは「第二のアイディア」)

第四、ふたつのアイディアの拮抗

第五、「第三の顔」(あるいは「第三のアイディア」)

むすび