JIJI の「三一神」理解

第二、「第一の顔」(あるいは「第一のアイディア」)



1.最初の体験
    私は今年の夏、四十四日間の入院生活を余儀なくされました。
    椎間板ヘルニアによる激痛が入院後も続き、手術を受けるまでの十六日間は、連日拷問を受け
    るような日々でした。
    ひざ頭の下部を襲うまるでハンマーで殴られるような痛み。一方、大腿部に広がるじとじとと
    湿った不気味な痛み、多分、幽霊に触れられたらこんな感覚ではなかろうかと想像される気味
    の悪さです。
    それらが昼も夜も私を苦しめ、立つことも・座ることもできず、ただ横になったままその痛み
    に耐えるしかありません。ブロック注射も思うほどには痛みを和らげてくれず、拷問の日々は
    過ぎていきました。
    そういう中で気づいたことがあります。それはここには拷問の執行者が見えてこないという
    「事実」でした。
    これがドラマや映画の中なら、真っ赤に焼けた鉄の棒や、ひざの上に積み重ねる数多くの石板や、
    鉛をしこんだ鞭などを持った「牢役人」が登場するところですが、それらの姿がまったく見えて
    こないのです。
    これでは「何でも白状しますから、もう勘弁してください」と哀願することも叶いません。
    そこで悟ったのです。これは神の定めたアルゴリズムの一つでしかないのだ・・・ということを。
    コンピュータ・システムのプログラミングを仕事にしていた私にとって、
    「IF なになに THEN これこれ」というアルゴリズムは極めて馴染み深い概念であり論理です。
    神は世界創造の際に、作られたすべてのものの中に働く「永遠のアルゴリズム」を数多く組み込
    んでいらっしゃることに、こうして気づくことになりました。

    *	補足
        IF なになに  THEN これこれ    とは、例えば
 
             もしも「降水確率が20%以上」であれば、お出かけ時に折り畳み傘を持参する。
             (20%未満なら傘を持参しない)とか、

             もしも「為替レートが1ドル120円を割った」なら、手持ちのドルを売る、

        などのような「条件」と「処理や行動の内容」との「対応関係」を示す概念・論理です。
        文系の領域であれ、理系の領域であれ、論理的に物事を整理する場合にはこのような手法
        が適応可能です。
        もちろん「条件」は複合的かつ重層的に定義されますから、先に紹介したような単純な
        「条件」とは限りません。

2.創造のアイディア(あるいは「神の第一のアイディア」)
    世界創造とは、単に神が世界を造られたということではなく、その中に働き続ける「永遠の
    原理・ルール」(アルゴリズム)がそこに組み込まれたということです。

          ・ IF 椎間板ヘルニアが起これば、 THEN 激しい痛みに見舞われる。
          ・ IF 高速で走行する車同士が正面衝突すれば、 THEN 車は大破し、ある人は死亡し、
                ある人は怪我を負い、ある人はほとんど無傷という結果が生じる。
          ・ IF ○○プレートの下に潜り込んだ△△プレートの力がある閾値に達すると、
                THEN ひずみのエネルギーが解放されて地震を起こす。断層の状況などに応じて、
                 地上の建物が倒れたり、その下敷きになる人がいたり、火災が発生したりする。

    *	補足
        椎間板ヘルニアが起こればという「条件」が成立するまでの段階として例えば、

             IF 年齢を重ねると  THEN 椎間板の繊維輪がもろくなる、とか、
             IF もろくなった繊維輪に瞬間的に大きな圧力がかかれば  THEN 髄核が飛び出(して
                ヘルニアを起こ)す、

        といった数多くの「条件」とそれに対応した「事象発生」の積み重ねがあることは言うまで
        もありません。

    これらのルール(アルゴリズム)は、世界創造の時に神が予め組み込んだものであって、決して
    その場その場の思いつきで発生(処理)しているものではないのです。
    創造とは、すべての作られたものの中に組み込まれたルールが、世の終わりまで常に働き続ける
    という原理をも含んだものだと考えられます。私はそれを「神の第一のアイディア」と呼びたい
    と思います。
    マタイ福音書十章にある、

        二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。
        だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、
        地に落ちることはない。

    という記述は、そういうアルゴリズムのひとつだと考えることができます。
    「父のお許しがなければ」という個所を、雀一羽の個別の状況ごとに、天使だかが「父なる神よ、
    この雀をどういたしましょうか」と神にお伺いをたてるとあなたは解釈なさいますか。
    神がその都度、「まだ生かしておけ」とか、「落ちて死なせるがよい」と指示なさるのでしょう
    か。
    むしろ創造の際に神が定めたルール(原理)に従って、すべての雀は生まれ・生き・死んでいく
    のだと考えることができると思います。
    神の定めたルール(原理)の中ですべてが取り運ばれていることを、「父のお許しがなければ」
    という言葉のうちに読み取ることができます。
    阪神大震災の後で、ある司祭が「これは悪に染まった現代に対する天罰だ」と評して顰蹙を買っ
    たものですが、天罰と受け取るのではなく、神のご計画すなわち「創造の際に定められたルール
    に従って起こったこと」と理解するのであれば、それはごく当然の意見だと考えられます。
    起こった事柄を天罰と考えるのではなく、神が創造の際に定めたアルゴリズムに従って発生した
    事象であると受け止めてはいかがでしょうか。
    ところで人は神の似姿として創造されたといわれますが、しばしば見られる「規則ずくめのお役
    所仕事」などは、見方によっては「神の第一のアイディア」を忠実に(?)引き継いだ現象の
    ひとつかも知れません。
    同じ事がユダヤ教の律法中心の世界観や、カトリック教会の膨大な規則ずくめの教会運営にも
    いえるのだろうと思います。
    やはり人(と、人が構成する社会)は神の似姿に相応しく、いろいろな場面で「神の第一のアイ
    ディア」を受け継いでいるようです。

3.裁く神・罰する神のイメージ
    人は昔から、何か悪いこと・不幸な出来事に出会うと、とかくそれを天罰と考える傾向があり
    ます。これは洋の東西を問わずに見られる傾向の様です。
    こうして神の第一の顔(第一のアイディア)は、人間に裁きの神・天罰を下す神として認識され
    るようになっていったのです。
    旧約聖書には数多くの神の怒り・神が人を罰する話が見られます。
    人間は神の怒りをなだめるために、いろいろな捧げ物や祭りを行い、その罰から逃れようともが
    き続けてきました。
    幼児期に親などから虐待を受けると、子供は「ぼくがよい子でないからだ」と考える傾向がある
    ようですし、また親などの顔色を絶えず伺うようになるということもよく聞かされる話です。
    しかしそれが不幸な状態であることを私たちは認識しておきたいと思います。

4.癇癪持ちの神
    旧約聖書に数多くの神の怒りが記されていることはいまさら言うまでもないことですが、それ
    以上に私が気になるのは、神はあまりにも癇癪持ちのようではないかと思わせるエピソードの
    あることです。
    例えば創世記四章のカインとアベルの物語です。
    カインは農作物を神に捧げ、アベルは羊を捧げます。神はアベルを誉め、カインを冷たくあし
    らいます。神は野菜嫌いだったのでしょうか。
    二人に対して予め羊を供えるようにと命じられていたのであれば別ですが、それぞれの人がその
    労働の実りから最上のものを神に捧げたのであれば、それが農作物であれ羊であれ、神への感謝
    の捧げ物として相応しいのではないでしょうか。
    この話を読むたびに、私はカインに同情してしまうのです。
    話はちょっと横道にそれますが、大阪教区の生涯養成講座でたまたまこの個所をもとに「分かち
    合い」が行われたことがあります。
    私がカインへの同情を口にしたところ、講座のリーダーは「あなたは本当に神を信じているのか」
    と私を非難しました。どうも大阪教区ではすべての信徒が「神様が不正をなさることなどあり得
    ない。アベルに嫉妬したカインはとにかく悪い奴なのだ。私たちはいつでも神様の差配・計らい
    に無条件に忠実に従いましょう。それがいかにむごい内容であっても」という模範解答をする
    よう求めているらしいのです。大阪教区が目指す信徒の生涯養成とは、このようなものだったの
    ですね。

5.神との駆け引き
    癇癪持ちの神が描かれている一方で、旧約聖書には神のユーモラスな面に出会うところもあり、
    これは本当に不思議なことです。
    創世記十八章のアブラハムと神との駆け引きの場面です。

        アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされる
        のですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい
        者のために、町をお赦しにはならないのですか。」
        主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、
        町全部を赦そう。」
        アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。
        もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人
        足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」
        主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」
        アブラハムは重ねて言った。「もしかすると、四十人しかいないかもしれません。」主は言
        われた。「その四十人のためにわたしはそれをしない。」
        アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう少し言わせてください。もし
        かすると、そこには三十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「もし三十人いる
        ならわたしはそれをしない。」
        アブラハムは言った。「あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、二十人しかいない
        かもしれません。」主は言われた。「その二十人のためにわたしは滅ぼさない。」
        アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。
        もしかすると、十人しかいないかもしれません。」
        主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」

    このエピソードはまことに含蓄に富んだものだと思います。
    神の第一の顔は、単に人を裁き罰する姿を示すだけではなく、他者との対話・駆け引きに応じる
    姿を示す方でもあったのです。
    私はこの点に大いに注目したいと思います。

6.子が仕掛けた対話
    天地創造の後、聖書には直接記述されていませんが、ある天使(たち)が神に逆らって「サタ
    ン・悪魔」になったと言われています。
    そのサタンがエバを誘惑したことは周知のことです。
    父なる神(第一の顔)が楽園からの人祖の追放を決めたときの模様を、私は次のように想像しま
    す。

        子「おとうちゃん、彼らをサタンの時と同じように扱うのですか。」
        父「これはちゃんと約束していたことの実行だ。禁じていたことを犯した以上、こうするの
            は当然のことだ。」
        子「あなたの怒りはもっともです。しかし、おとうちゃん、サタンと同じ扱いをして彼らと
            俺たちの関係を切り離すことが、天地万物を造った狙いだったのでしょうか。他の方法
            は考えられないのでしょうか。」
        父「お前にどんなアイディアがあるというのだ。言ってみるがよい。」
        子「それを今考えているのです。とにかくおとうちゃん、彼らと俺たちの関係を最初のよう
            に回復する余地を残しておいて下さい。俺はきっとその方法を考え出し、おとうちゃん
            に相談しますから。」

    人祖が楽園から追放されるとき、神は次のように不思議な言葉を発しました。

        主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆ
        る野の獣の中で呪われるものとなった。
        お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
        お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は
        彼のかかとを砕く。」

    旧約の長い時代を通じて、この言葉の本当の意味を知る者は誰一人いませんでした。私たちは
    これがイエスを予告するものだと教わっていますが、その背景はどんなものだったのでしょうか。
    大いに想像力を掻き立てられます。それが次のテーマです。
    しかしその前に整理しておかなければならない事柄があります。

7.「永遠のとき」と「歴史の時」
    これからの記述には、先ほど見たような父と子の対話がしばしば出てきます。
    この神ご自身の内なる対話は、どのような時点で行われたかについてあらかじめきちんと認識
    しておきたいのです。
    神は永遠の存在ですから、はじめなく・終りなく、またそのことから、比ゆ的に言えば「過去
    も現在も未来をも同時に体験(?)できる」お方だと考えてよろしいでしょう。
    神にとってすべての事は「永遠のとき」とでもいうべき歴史を超えた「とき」のうちでの出来事
    です。
    一方、私たち被造物は、太陽の動きによって朝と夕を知り、季節の変化によって年月の流れを
    知るという、いわば歴史上の時間(歴史の時)の中に置かれており、歴史の中でしか物事を認識
    することができません。
    ということで、以下に出てくる父と子の対話は、決してイエスの時代に交わされたものだとは
    考えないで欲しいのです。
    ある意味では、天地創造の前(!)にすでに交わされていた内容なのです。私たちがそれをイエ
    スの時代の出来事としてしか認識できないとしても・・・
    なお、ここで記した「時の理解」については、大阪教区の小田神父の講話に負うところが多い
    ことを付記して感謝します。


第三、「第二の顔」(あるいは「第二のアイディア」)

第四、ふたつのアイディアの拮抗

第五、「第三の顔」(あるいは「第三のアイディア」)

むすび