JIJI の「三一神」理解

第四、ふたつのアイディアの拮抗



1.イエスの祈り
    福音書の中のちょっと不可解な個所として、イエスがひとりで祈る場面を上げることができる
    と思います。
    ルカ福音書でいえば、

        イエズスは時折、人里離れた所に退いて祈っておられた。
            (五章十六節、フランシスコ会訳)

        イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。
            (六章十二節、特段の断りがないものは新共同訳 )

        イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。
            (九章十八節)

    などの場面です。五章では「時折」という言葉が使われていますから、ここにピックアップした
    回数だけではなく、かなりしばしばだったろうと推測することもできそうです。
    九章では弟子たちが一緒にいたにも関わらず、イエスはひとりで祈っていたと記されています。
    一般的に教祖と呼ばれるような人物は、自ら弟子たちに祈りの見本を見せるのが常ではなかった
    でしょうか。
    ところがイエスはそうはしていらっしゃいません。それで弟子たちは不安になったのでしょうか、
    イエスにこう願います。

        主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください
            (ルカ十一章一節)

    イエスはいわばやむなく「主の祈り」なるものを弟子たちに示します。
    今ではキリスト教で一番大事な祈りとされていますが、果たしてそうだったのでしょうか。
    「主の祈り」がイエスと弟子たちの日常的な祈りであったとは、とても思えないのです。
    理由の第一は、もし皆の日常的な祈り(今風にいえば、共同体の祈り)であったのなら、祈りの
    言葉が定型化していたと思われます。ところがマタイとルカが記す「主の祈り」の文言はあまり
    にも違いすぎます。
    理由の第二は、日常的な祈りとして弟子たちから初期の信者に脈々と受け継がれていたのであれ
    ば、そんな大事な祈りをマルコやヨハネやパウロが一言も書き記していないのは不自然です。

    という訳で、私はイエスが「主の祈り」を弟子たちとともに日常的に祈っていたとは考えにくい
    と判断しています。
    イエスはむしろひとりで祈っていたようです。何故でしょうか。
    父なる神とどんな会話を交わしていたのでしょうか。父と子とが一体・「ツーカーの仲」である
    のなら、なぜしばしば皆と離れて密かな祈りの時を持つ必要があったのでしょうか。

        父「我が子よ、お前の今日のふるまいは一体何なのだ。ナインのやもめの息子は、徒に死
            んだのではない。あれはあれで、わしらが定めたアルゴリズムにしたがって起こった
            ことではないか。それはお前も知っているだろう。」
        子「はい、おとうちゃん。それは重々承知しています。」
        父「ならば、なぜ息子を生き返らせたりするのだ。これは創造のアルゴリズムに対する謀
            反ではないか。」
        子「おとうちゃん、そう言われれば返す言葉もありません。ただ、あのやもめの悲しむ姿
            を目の当たりにすると、俺ははらわたが引きちぎられる思いがしたのです。それで
            いてもたってもおられず、あのようにふるまってしまったのです。」
        父「それだけではない。中風の者をいやしたり、出血病の女を回復させるなど、好き放題
            のことを続けているではないか.」
        子「おとうちゃん、本当に申し訳ないと思います。しかし人間を体験した俺には、彼らの
            苦しむ姿を見過ごすことができなくなっているのです。この気持ちを、おとうちゃん、
            どうぞ分かってください。」
        父「ほかにもいろいろとお前は奇跡とやらをやって見せている。パンを増やしたり、嵐を
            静めたりと・・・そんなことをするために人間になったのではないだろうに。とにか
            くこれは放置しておくわけにはいかんことだ。
            きちんとしたけじめをつけてもらわなくてはなるまい。」

    私はこのようなシリアスな会話が交わされたのではと推測します。
    ここには弟子たちが入り込む余地はありません。イエスはひとりで父と向き合う必要があったの
    だと私は思っています。
    こうして人間を体験した第二のアイディアは、その「業によるメッセージ」をめぐって、第一の
    アイディアと拮抗することになったのだと私は考えるようになったのです。
    これは私が体験した前記のふたつの体験が気付かせてくれたことです。

2.ゲッセマネでの祈りと受難
    イエスの祈りはゲッセマネで頂点に達します。

        子「おとうちゃん、できればこの杯を取りのけて下さい。」
        父「子よ、わしはお前のわがままを認めて、お前が人間に直接救いのメッセージを伝える
            ことを許してきた。しかしそれは創造のアルゴリズムを無視してよいということでは
            ない。あのルールはルールで天地の終わる日まできちんと守られるべきものなのだ。」
        子「おとうちゃん、それはよく分かります。おっしゃる通りです。私のふるまいがそれに
            違反するものであったことも。」
        父「お前は、人間を体験して約束外のことに手を出した。その責任はきちんとさせねば
            ならんのだ。」
        子「おとうちゃん、あなたのおっしゃることはごもっともです。どうぞあなたのおぼしめ
            しのままになさってください。」

    こうしてイエスの受難と死のドラマは始まります。
    バッハのマタイ受難曲は人々を感動させる偉大な作品ですが、私はあの「詞」を好きになること
    ができずにいます。

        私です、この私が罪を贖うべきなのです。
        両手と両足を地獄の底に縛りつけられて。
        鞭と縄、
        また、あなたが忍び給うたもの、
        それが私の心にふさわしいのです。(第十曲)

        おお、私の罪があなたを打ったのだ。
        彼はあらゆる地獄の責め苦をうけ、他人の盗みのつぐないをする。
        私は、おお主イエスよ、あなたが耐え給うた、この罪を犯してしまったのだ!(第十九曲)

    このような調子の「詞」は、当時のキリスト教界においては一般的な雰囲気だったのでしょうか。
    私が若い頃に使っていた「主の御受難の黙想」という書物にも「主は鞭打たれ給うた。それは私の
    あの罪のせいだ。主よ、どうぞ私の罪深さを憐れんでください。」とか、「十字架の重みに主は
    倒れ給うた。ああ、それは私のあの罪のせいです・・・」と自分を責め続ける文章が書籍の最初
    から最後まで延々と続いていました。
    イエスの受難と死が私たちの罪のせいであることは教会の教えるところですが、それならば生ま
    れてまもなく亡くなった赤ん坊にとって受難と死はどういう意味を持つと考えればよいのでしょ
    うか。

    私はイエスの救いのメッセージは、原罪からの解放・神と人との基本的な関係の回復であると理
    解します。
    人祖を裁き・罰したのは神です。であればそれを赦すのも神の権限であるはずです。人間がこれ
    これの償いをしますから勘弁してくださいと申し出て済むことではないでしょう。
    神と人との関係の修復あるいは新しい関係の創出は、神の一方的な宣言によってのみ実現するもの
    だと考えます。  そしてそれは第二のアイディアが私たち人間の世界に生まれて来て(すなわち
    「受肉」によって)、はっきりと話し・示して下さった喜ばしい福音そのものです。
    このことは、イエスのメッセージで十分に開示されたと受け止めることが出来るのではないで
    しょか。

    父は、イエスが十字架上で死んだから人を赦す気になったのでしょうか。
    パウロはイエスの贖罪死を強調しますが、その割にはその赦しの力は弱々しいもののように私には
    思えます。
    イエスはすべての人の罪を負い、私たちを父のもとに連れ戻したと説明する一方で、個人のひとつ
    ひとつの罪が天の国に入る障害となると脅しているからです。
    すでに引用した一コリント六章の言葉でも不道徳な者は神との新しい関係に招かれていないと断罪
    しているようです。
    二十世紀のカトリック教会も、ミサの大事な個所に遅刻したら「大罪」、小斎日に肉を六十グラム
    以上食べたら「大罪」、そのまま死んだら地獄行きだなどと教えていました。
    イエスの十字架の死による贖いは、六十グラムの肉によってその効力を失うほどに弱々しいもの
    だったということらしいのです。

    第二のアイディアがもたらして下さった救いのご計画を、このように矮小化して説明してはなら
    ないと思います。
    その救いの業は、イエスの受肉においてすでに十全になっていたと考えます。

3.イエスの死
    イエスの十字架上の死は、人の目にはむごい出来事です。
    パウロはそれを神の目からは「贖罪死」だと説明します。そこに神の人類への愛が凝縮して示さ
    れていると。
    神のご計画が人の知恵を超えたものであることは確かだと思いますが、だからといって「贖罪死」
    だと決めつけるのも、しょせんは一つの解釈でしかない・・・と考えられます。
    そういう意味では、私が十字架上の死を「第一のアイディアと第二のアイディアの拮抗の結果」
    だと解釈することは、すくなくともひとりの信徒の理解としては許されるものでしょう。それを
    声高に語るのでなければ。

    梅原猛は「仏教の思想」第一章の中で、ソクラテスとイエスと釈迦と孔子の「死に方」を比べて
    います。(もっとも孔子に関してはその情報は欠けている様子)
    そこでは十字架上でもがき苦しみ、絶望のうち(?)に死に絶えたイエスの姿と、弟子たちが見
    守る中で静かに死んでゆく(涅槃に入る)釈迦の姿とが対照的なものとして示され、その「死に
    方の違い」がふたつの宗教の特徴にも反映していると言っているようです。
    たしかにふたつの「死に方」は、あまりにも対照的です。しかしイエスの死はあのようにむごい
    ものであったからこそ神々しく偉大であり、釈迦の死はその静かさのゆえに救いをもたらすもの
    とはなりえないと説明する人がいるとすれば、それは自虐趣味だと思われても仕方のないことで
    はないでしょうか。
    私も、むごい死に方だったから「これこそが神の愛だ」と説明されることには抵抗があります。
    神の第二のアイディアすなわち救いの計画は、受肉においてすでに十分に完成していたと考える
    からです。

    イエスの受難と死とは、まさに神の内なる領域での拮抗によるものだと考えます。そしてそれで
    あるからこそ人の目には不思議なこととしか受けとることが出来ないのだと思います。
    とにかくイエスは十字架上で無残な死を遂げました。それはイエスが肉体をまとったが故に体験
    することとなったこと・・・周囲の人々の苦しみと悲しみにはらわたのちぎれる思いを抱き、
    その人のそばに駆けよったというあの「ふるまい」がもたらした最期であったと思います。

4.古聖所にて
    古聖所とは、カトリック教会の教えるところでは、

          世の始めからの善人の霊魂が留まっていた所であります。
          イエズス・キリストのご霊魂は古聖所に御降りになりました。

    ということになります。(公教要理第百二十番、百二十一番)

          父「子よ、お前が人間に直接に関係回復のメッセージを伝えたいという目的を十分に達成
              したことは、わしとてよく承知している。その点については何の問題もない。お前は
              よくやった。」
          子「おとうちゃん、ありがとうございます。」
          父「しかしお前がやらかした創造のアルゴリズムへの反抗は、見逃すわけにはいかんこと
              なのだ。」
          子「はい、そのことはおとうちゃんのおっしゃるとおりだと思います。」
          父「それにしてもお前があのような死に方を甘受してまで、人間に駆けよるという一途さ
              を貫こうとしたとは。お前のその根性には正直なところ驚かされた。」
          子「おとうちゃんにそう言ってもらって俺は満足です。」
          父「しかし子よ、お前があのようにボロ切れのように死んでいったことの意味を、人間は
              分かったのだろうか。お前の思い入れに終わったのではなかろうか。お前の人間への
              思い入れは空回りだったのではなかろうか。」
          子「おとうちゃん、そんなことは決してないと俺は確信します。」
          父「そうであろうか。」
          子「はい、人間は俺がボロ切れのように死んでいったことをきっと受け止めてくれると
              思います。きっときっと・・・」
          父「お前は、人間体験をしてずいぶんとおかしなことを言うようになったものだ。」
          子「おとうちゃん、俺はボロ切れのように死んでいったことを誇りに思っています。きっ
              とこれからは何人も何人もの人間が、あのような死に方を自ら選ぶようになると信じ
              ています。」
          父「そうであろうか。」
          子「はい、そう思います。おとうちゃん、もし十人の人間が俺に倣って生きるなら俺のこ
              とを信じてくれますか。」
          父「十人か・・・」
          子「おとうちゃん、二十人ならいかがですか。」
          父「二十人か・・・」
          子「では三十人では、いや四十人では。」
          父「・・・」
          子「四十五人、いや五十人では。」
          父「子よ、もうよい。少し考えてみよう。」

5.復活と昇天
    共観福音書はイエスの復活を次のように記します。

          天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜している
          のだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさった
          のだ。
                    (マタイ二十八章五・六節)

          若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを
          捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。(マルコ十六章六節)

          婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の
          中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。
                                                              (ルカ二十四章五・六節)

    いずれも「復活」という用語が無造作に使われています。
    ところが岩波書店から出版されている佐藤研訳では、マタイとマルコの同じ個所が、

          彼はここにはいない。彼は、自分で言った通り、起こされたからである。(マタイ)

          あなたたちは十字架につけられた者、ナザレ人イエスを探している。彼は起こされた。
          ここにはいない。(マルコ)

    と訳されています。
    イエスの復活は、「自分で起き上がった」ではなく「起こされた」というギリシア語で記述され
    ているようなのです。
    これはパウロ書簡になると日本語訳でもはっきりとしていて、ローマ書では、
   
          もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、
          キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、
          あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。(八章十一節)

          口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと
          信じるなら、あなたは救われるからです。 (十章九節)
 
    などの記述が見られます。
    同様の用語は、一コリント十五章十五節、ガラテア一章一節、エフェソ一章二十節、コロサイ
    二章十二節など数多くの個所で見られます。
    ここで「復活させられた」と書かれているイエスは、自分の力で起き上がったのではなく、確か
    に父によって起こされたのだと読み取ることができます。
    岩波書店から出ている青野太潮訳では、先のローマ書の部分を、

          もしもイエスを死者たち[の中]から起こした方の霊があなたがたのうちに住んでいるの
          なら、キリストを死者たち[の中]から起こした方は・・・(八章十一節)

          あなたがあなたの口で主イエスを告白し、あなたの心のうちで、神はイエスを死者たち
          [の中]から起こしたと信じるなら・・・  (十章九節)

    と訳出しています。
    あわせて補注「用語解説」の中で、

          おこす  起こす  egeiro

          「キリスト」あるいは「死人たち」が能動文「起こす」の目的語ないし受動文「起こされ
          る」の主語の場合、行為者は神であり、その神が横たわっている状態から立ち上がらせ、
          「復活させる」の意で、本訳ではそれを「起こす」と統一した。

          キリストに関する最古の形はロマ 10:9 にあると思われる。
          後に、神が起こす行為よりも自分で起き上がる復活現象自体への関心から、(ヨハネ福音
          書と使徒行伝を除き)主に自動詞として使われる anistemi =「立ち上がる」(その名詞
          形が anastasio で、「甦り」と訳した)も使われるようになったと推定されるが、すで
          に新約中最古の文書であるTテサロニケ書の 4:14-16 においても、この自動詞は用いられ
          ている。

    と説明されています。(引用したギリシア語のつづり・文字は不完全であることをお詫びしま
    す。)

    それにしても、聖書の翻訳においては底本(ギリシア語)のニュアンスを最大限伝えるように
    配慮して欲しいものです。「起こされた」が「復活」を意味するとしても、復活と訳出しては
    もはや「翻訳」ではなく「解説」になってしまうのではないでしょうか。
    解説は脚注などに譲り、本文は本文としてきちんと訳出することを期待したいと思います。
    さて、私のこれまでのイエスの受難と死の理解から言えば、それを差配したのは明らかに父であ
    り、そうであればイエスを起こしたのも当然に父の意図・行為だということになります。
    父がイエスを起こし、(昇天させ、)ご自分の右の座に据えたことで新しい時代が開かれること
    になりました。


第五、「第三の顔」(あるいは「第三のアイディア」)

むすび