JIJI の「三一神」理解

むすび



  私はこの書きものを病院の中で着想し、頭に書き留めました。
  それはすでに書いたようにふたつの体験がきっかけになっています。
  私を苦しめた激痛はどこから来たのか。それを天罰と考えがちな傾向は正しい神理解なのだろうか。
  ヨブの友人のあの諭しを私に向ける人々がいることは確かですが、私はそのようには受け止めません
  でした。
  この痛みは、いわば必然的な現象でしかない。私の日常生活の諸条件が生み出したいわば「アルゴ
  リズム」の結果です。私が別のライフスタイルを選択していれば避けることができることであったと
  しても、現実の私の日常生活では、こうなることが当然のことと言えるでしょう。
  自分の日常生活の諸条件を棚に上げて、痛みの責任を神に持っていくのは筋違いだということです。
  神を罰の権化のように理解することの不適当さにこうして気づいたのです。創造のアルゴリズムを
  すなおに受け止めることの方が、私には納得のいく理解でした。


  神が人を完膚なきまでに痛めつけ、追放状態に閉じ込めることを望んだりしてはいないということは、
  キリスト者である私にとっては「自明」のことです。
  イエスが人体験をなさったことが、それを明らかに示しています。
  神と人との関係回復は、こうして十全になりました。よく聞かされる十字架の縦の柱(神から人への
  メッセージ)の意味は、実は受肉の段階ですでに完璧に明らかになっていると理解します。
  それは十字架を持ち出すこともないことでしょう。
  むしろ十字架が示すものは、その横木の意味・人と人との関係の方にあったのだと思います。
  イエスはあのような死に方をもたらした「生き様」を通じて、人と人とのつながり方の在り様を示して
  くださったと思います。
  私たちはイエスのような奇跡的なふるまいはできませんが、イエスのように「人のもとに駆けよる」
  ことはできます。
  イエスはそのような生き方への招きをなさっていると思います。それは現在の私たちへの招きでもある
  と思います。


  私の文章では、伝統的な三位一体を考えることはしていません。
  それは教会と神学者にお願いしておきましょう。
  むしろ私なりにどう神を理解し、信仰生活でそれを生かしていくか。それこそが関心事です。

        神が創造のときに世界に組み込まれたアルゴリズム。それは決して天罰というものではない。
        時として理解できないつらいものであったとしても、決して天罰ではない。
        神を「裁く方・罰する方」と理解することはすまい。
        これが私の発見した神の第一の顔です。
        私はその神に全面的な信頼をよせることを決心しました。

        あのような死に方を引き受けるまでして、イエスが私たちに示したかったメッセージとは
        何だったのか。
        イエスはことばで何を語り、ふるまいで何を示したのか。
        それを私は神の第二の顔として受け止めました。
        そこまでして私たちに本心を示された神に私も全力で応えたいと決心しました。

        そして現在、毎日の生活の中で相まみえる神の第三の顔。
        イエスが示してくださった父なる神の本当の姿を人々に伝えるため、常に教会の働きを力強く
        導いておられるその姿。
        加えて、すべての人の中にその片鱗を見ることができるイエスのふるまいの模倣・人に駆け
        よろうとする動機を力づけてくださるその姿。
        私は、こうした神の第三の姿・顔をはっきりと実感することができます。


  このような実感は、確かに伝統的な三位一体理解から出てきたものではありませんが、私なりの
  「三一神」理解が私にもたらしてくれた成果です。
  五十年をこえて(ある人からは異端と蔑まれながらも)ひとりのカトリック信者として生きてきた
  ことを、神の導きの賜物だと感謝しています。
  また、仕事を手放し、物質的な損失を覚悟しつつ、障害をもつ人々と毎日を生きる現在の生活を
  選ぶことを許してくださったことを感謝しています。
  この選択が教会外の活動であるという理由で、教会関係の人から軽蔑されようとも、私の以上の
  ような「三一神」理解からは受容できる生き方であったことを今回確認できたことは大きな喜びです。
  そのことに気づかせてくださった第三のアイディアの力と恵みに感謝します。
  金銭的なものを失い、身体的にもある種の自由を失いましたが、それはボロ切れのように死んでいく
  過程のひとつだと考えれば、そこに神のアイディアが間違いなく働いていることを見ることができる
  からです。

  信徒は、このような不思議な体験を通じて、自分なりにその信仰を確かなものにすることができる
  ものなのですね。
  たとえそれが伝統的な教会の教えから離れていると非難されるとしても、私はこの理解を大事に
  します。
  しかし、私の理解に隣人を引きずり込むことはしません。隣人は隣人の立場で、それぞれの神理解を
  深めていくものだと考えるからです。

  長文におつき合いくださったあなたに感謝します。