JIJI の「三一神」理解

第五、「第三の顔」(あるいは「第三のアイディア」)



1.ふたつのアイディアの和解
    父がイエスを起こし、昇天させ、ご自分の右の座に据えたことは、ふたつのアイディアが和解した・
    和解できたということです。
    アイディアとしてはまったく異なる存在である「第一の顔」と「第二の顔」とが、このようにして
    一致を生み出したということは、天地万物にとってまことに驚くべきこと・大きな希望をもたらす
    ものです。
    神の似姿である人間にとっても、拮抗するふたつの意見・立場が一致し合えるということを表徴する
    「秘跡」とも言うべきことでしょう。
    この新しい顔を、教会の信仰宣言は「聖霊」と呼んだのだと思います。
    今や、世界は聖霊の時代・神の新しい顔(アイディア)を仰ぎ見る時代です。
    ニケア・コンスタンティノープル信条は、次のように宣言します。

        われは信ず、主なる聖霊・生命の与え主を。
        聖霊は父と子とよりいで、父と子とともに拝みあがめられ、
        また預言者によりて語りたまえり。

    ここで「父と子とよりいで」という表現は、これまでのふたつのアイディアの拮抗と和解を思うとき、
    万感の思いのする言葉です。
    創造の際に神が世界に組み込んだアルゴリズムと、人間を体験した神のひとり子が見せてくださった
    あのメッセージとは、今や一致の徴である第三のアイディア・神の新しい顔として世界と私たちに
    明示されたのです。

    ちょっと話は脇にそれますが、本来のコンスタンティノープル公会議で決定した信条の文言は、
    「聖霊は父と子とよりいで」ではなく、実は「聖霊は父よりいで」となっています。
    現に、東方教会は今でもそのように唱えています。
    西方教会が「(父)と子と(より)」という挿入を行ったのは、トレド公会議の折のことだと聞き
    ました。
    私のこれまでの理解では、西方教会の採った文言こそがむしろ聖霊の理解には適切なものだと信じ
    ます。
    ただ、その文言を含む信条を「ニケア・コンスタンティノープル信条」という名称で呼ぶことはない
    のではないかと思います。

2.第三のアイディアの役割・その一
    イエスがことばで伝えたメッセージは、単にあの時代のあの地域の人々に向けられたものではありま
    せん。
    すべての時代の・すべての地域の人々に伝えられるべきものです。
    「第三のアイディア」の働きのひとつは、まさにそれでしょう。

    イエスが伝えてくださったこと、人祖が戒めをやぶったことで楽園を追放されたことは確かだが、
    それはそれ。父は人が神の許に戻ってくることを心底待っていることを知ってほしい。父は決して
    裁きの神・怒りの神ではないのだから、安心して戻ってきなさい。
    イエスは、それを預言者に託するのではなく直接に告げたかった。神の人への思いは、このように
    熱いものだということをしっかりと受け止めてほしい。
    これをすべての人に伝えるために、神は教会という「秘跡」を定め、そこで役務的に役割を担う人々
    を選び出された。
    教会とそこで働く人々とを導き・励ますのは「第三のアイディア」の働きだと理解しています。
    神と人との関係は、イエスのメッセージを介して新しい時代を迎えました。それを確かなものとして、
    (現代日本に生きる)私たちにまでもたらしてくれるのが「第三のアイディア」の働きです。

    余談ですが、すべての人が神の許に戻るよう招かれているというメッセージは、すばらしい恵みです。
    仏教では、悟りを得る・解脱することに難しい条件がついているようですが、イエスのメッセージは
    そうではないことを深くこころに刻みたいと思います。
    それだけに誰かさんのように「○○の人は神の国を継ぐことはできない」などと(人の思いによって)
    勝手に裁いてはならないと考えます。

3.第三のアイディアの役割・その二
    イエスのメッセージはことばによるもののほかに、もうひとつ「業」によるものがありました。
    イエスはそのふるまいの故に、あのような死を迎えることになりました。
    言い換えれば、イエスはあのような死を覚悟してまでも、とらずにはいられなかった「ふるまい」
    があったということです。
    それは(善き)サマリア人のたとえのように、苦しんでいる人に駆けよること。その人がどんな人
    かを問うのではなく、現実に苦しんでいるという事実にのみ目を向けること。
    駆けよることで自分に損なことがあるかもしれないが、そのようなことを意に介することなくただ
    相手だけを見つめる。
    その結果は、ぼろ切れのようになっての死かもしれない「ふるまい」。
    そんな生身のイエスのふるまいを追体験する人々を力づけるのも「第三のアイディア」の役割だと
    思います。
    それはイエスが期待したこと。イエスのふるまいに対する人間の共感は必ず得られるという確信へ
    の人の側からの応答です。
    ふたつのアイディアの和解は、そういう人間の応答を「よし」とし、そういう人間を力づけること
    になったのだと理解します。
    ことばによるメッセージは教会を通じて伝えられますが、こちらの方はそれとは関係なくすべての
    人の魂を揺り動かします。
    イエスの誕生以前の時代でも、まだ教会の教えが伝えられていないところでも、イエスを知って
    いない人でも、教会の教えを受け入れることのない人であっても。

    それは神の第二のアイディアの片鱗は、神の似姿である人間の中に確かに受け継がれているからです。
    神の「第三のアイディア」のそういう不思議な働きを、第二バチカン公会議の文書(現代世界憲章第
    二十二項)は「神だけが知っている方法」という味わい深い表現で記録しています。
    イエスのふるまいに倣う人間の生き様は、イエスを主と告白する人々にとってはとりわけ近しいもの
    です。
    私は、二十世紀・同時代のキリスト者の中にも、数多くのそういう人を見てきました。
    コルベ神父、マザー・テレサ、ゼノさん、蟻の町の北原さん。いや、もっと身近にもまだまだいます。
    しかし、だからといってイエスを主と告白することと、ふるまいにおいてイエスに倣うこととはイコ
    ールではありません。
    そのことを少し考えておきたいと思います。

4.多元主義とキリスト告白
    本当はこういう見出しを望んではいないのですが、考える素材としてカトリック新聞 2002/8/11 号
    の展望欄にある鳥巣義文南山大学教授の「多元主義とキリスト告白」を用いたいので、このように
    します。

    この論文は、ちょうど私の入院中の時期のものでした。
    鳥巣教授は、先の現代世界憲章第二十二項を示したうえで、

        このような個所に基づいて、一方で多元主義者は「思いのままに吹く」(ヨハネ3・8)聖霊が
        諸宗教にも働く故に、どの宗教も人々を救いへ導く道であると唱え、他方で教導職は見える教会
        の境を越えて働く聖霊も教会内に働くキリストの霊とは別のものではないから、救いはキリスト
        ならびにその教会から離れてはあり得ないと説いている。

    とふたつの主張を紹介した後、

        聖霊の自由な救いの働きの実りが何であるのかと問うならば、私の見るところ、それは究極的には
        人々がイエスを主として告白すること(一コリント12・3 参照)であり、神をイエスの父と告白す
        ること(ローマ8・15 参照)である。

    と説明しています。
    キリスト告白こそが、聖霊の働きの「究極の」実りだという理解は、教会の立場としてはもっともだ
    ろうと思います。
    そういう意味では、いわゆるキリスト教国においては人口の九十%以上がイエスを主と告白しているの
    ですから、まことにご同慶のいたり・神の国はそこに実現している、めでたしめでたしということに
    なりましょう。
    そう理解できる方はそれでよろしいのです。

    ところで、そういうキリスト教国では本当に神のアイディアが実現し、恵みが充満していると手放し
    で喜ぶことができるのでしょうか。
    仮に教会がそう思っているとしても、それに疑問をもつ人々のいることを無視することはできないで
    しょう。
    本当にそこには神のいつくしみが溢れているのでしょうか。困っている人・苦しんでいる人々に周囲の
    キリスト者はいつでもイエスのように駆けよっているのでしょうか。
    私は、聖霊の働きの「究極の」実りが「キリスト告白」だとは考えません。むしろそれは出発点では
    ないかと考えます。
    イエスのことばのメッセージによってイエスを主と告白した人は、次にイエスのふるまいに触発されて
    自らの生き様をイエスに倣ったものに変えていくチャンスを得ます。
    もちろんイエスのようにボロ切れのように死んでいくことを受け入れるかどうかはそれぞれのキリスト
    者の自由です。そこに強制はないでしょう。
    つまり、教会が求めている信仰告白とはそこまでのことです。

    しかし「第三のアイディア」は、信仰告白とは別に、すべての人間の中には、イエスのようなふるまい・
    人に駆けより、損を省みず、場合によってはボロ切れのように死んでいく生き様への招きが組み込まれ
    ていることを見逃しません。
    それは人が神の似姿として造られているからです。神の第二のアイディアの片鱗は、間違いなくすべて
    の人の内に置かれているのです。
    それはまだイエスに出会っていないとか、イエスのことばによるメッセージを耳にしていないなどの
    条件とは関係なく、永遠のアルゴリズムが人の中で働いているからです。
    第三のアイディアは、その内なる招きの声に人々が気づき、勇気をもってイエスに倣うよう力づけて
    いるのだと思います。
    日本のような非キリスト教国では、そういう生き様に自分を投じている人の数は、圧倒的に非キリスト
    者の方が多いのです。
    日本にはキリスト告白をしている人は少なくても、知らず知らずのうちにイエスのふるまいに倣って、
    自分の損得を捨て、場合によってはボロ切れのような死をすら受け止める人々が確かに生きているの
    です。
    非キリスト者にそんな人間がいるはずはないというキリスト者がいれば、それは不遜というものでしょ
    う。
    私たち日本のキリスト者は、その人々と一緒にふるまうことができます。
    しかもしばしばその人々は私たちよりも素晴らしい体験と発想を持って、困っている人・苦しんでいる
    人々に近づいています。

    私たちはその人々の知恵を尊重して、一緒にふるまうことにより、一層の実りを上げることができるの
    です。
    小さい日本のカトリックという枠に拘って、狭い視野にとどまってはならないと思います。
    日本の社会の中を自由に吹いている聖霊の働きにこころを向けることが、むしろ望まれているのです。


むすび