JIJI の「三一神」理解

第三、「第二の顔」(あるいは「第二のアイディア」)



1.次の体験
    連日の痛みに苦しむ中で、しかし私は平安を保っていました。
    ベッドの左脇にはいつもマザー・テレサがいて下さいましたし、ベッドの右手の上方、天井
    近くには常に聖母のお姿が見えていました。
    入院当初は、さらにベッドの周囲を十重二十重に大勢の人が輪を作って囲み、それぞれの手
    にはろうそくが灯されていて、私のために祈ってくれているようでした。
    多分、病院から数キロの尼崎のホテルで折りしも開かれていた、第十六回聖霊による刷新全国
    大会参加者の皆さんの姿ではなかったろうかと推測します。
    私は聖母とマザーに「苦しみの中でも、神様への信頼を失わないように助けてください」と
    祈り続けていました。
    入院して十一日目の深夜のことでした。前日に手術を受けた向かいのベッドの高校生が高熱を
    出し、ひどくうなされていました。ついには大声で悲鳴をあげるまでに苦しんでいます。
    私は自分のために祈ることを止め、その高校生のためにロザリオを祈り始めました。これは
    理屈抜きの反応でした。
    その高校生がどんな人かを知っていたからではなく、ましてや善良な人であるかどうかなど
    知るよしもありません。ただ、現実に苦しんでいる様子を目の当たりにして、そうせずには
    居られなかったということです。

2.子(第二の顔)から父(第一の顔)への提案
        子「おとうちゃん、先日の続きですが、人間と俺たちの関係を回復するために、俺の
            わがままを聞いてくれませんか。」
        父「一体何をしたいと言うのだ。」
        子「おとうちゃん、彼らをこのままに放って置くのは不幸なことです。罰を受けたと
            おびえている彼らには、俺たちの方から赦すと言ってやるしかないと思うんです。」
        父「たしかにお前の言い分はもっともだ。彼らを今の状態のままに捨て置くのが、わしら
            の望みであるわけではない。確かに彼らを追放したのはわしの禁じていたことを破っ
            た罰としてだが、それでわしらと彼らの関係が決定的に壊されたという意味ではない。
            彼らが戻ってくるのを拒むわけではないのだ。」
        子「おとうちゃん、そこまで本音を話してもらって俺は心底嬉しいです。ついでにもう
            ひとつお願いがあるんです。」
        父「何だ、それは。」
        子「赦すというメッセージ、戻ってきていいんだよというメッセージを、俺の口から彼ら
            に伝えさせてほしいんです。」
        父「それは預言者にやらせれば済むことではないか。」
        子「おとうちゃん、これまではそうでした。しかし今回の赦しのメッセージは特別なもの
            です。どうしても俺自身が人間の姿をとって彼らに直接伝えたいのです。」
        父「人間の姿をとってだと。お前、気は確かなのか。」
        子「おとうちゃん、俺は本気です。人間と俺たちとは対等ではありません。人間はしょせ
            ん被造物です。俺たちが彼らのレベルに立つことでメッセージの真意・俺たちの気持
            ちは、しっかりと彼らに伝わるんだと俺は思います。」
        父「ところで、お前は雲にでも乗って人間の世界に降り立つというのか。」
        子「いいえ、おとうちゃん。俺は赤子の姿で彼らの世界に生まれたいのです。」
        父「お前は一体何を考えているのだ。ばかばかしいことだ。それにそんなお前の受胎を
            納得する女がいるだろうか。」
        子「分かりません。しかしきっといるに違いありません。おとうちゃん、どうか俺のアイ
            ディアを納得して受け入れてくれる女を捜すことを許して下さい。」
        父「全く困った奴だ。しかしまあいいだろう。しかしチャンスは一回だけだぞ。やり直し
            は許さないからな。」

    とんでもない想像だと批判されるのは覚悟の上です。その上であえて次の言葉でこれまでのこと
    を総括しましょう。

          父は人を罰し、
          子はその人に駆けよる。

3.聖母マリア
    聖アウグスティヌスだったかの、

          我われ無しに我われを造られた神は、
          我われ無しには我われを救うことがおできにならない。

    という言葉があったと記憶します。
    これは人間の自由意志を神が無視なさることはない・できないということを説明するものだと
    理解しています。
    神の第二の顔がそのアイディアを実現するためには、計画に賛同してくれる人間の女性がどう
    しても必要でした。
    ここでは受胎告知の場面を繰り返して提示することは省略しますが、聖母の聖母たるゆえんは、
    もしも、マリア様の同意がなければ、神の第二のアイディア(神と人との関係の回復・神の許
    に戻っておいでという招きを、直接人間に伝えるという計画)は実現不可能であったという点に
    あります。
    これは何ともすごいことではありませんか。
    確かに父の言うように預言者を使っての告知であっても、関係の回復は可能だったことでしょう。
    しかし子のアイディアは、そうではなかったのです。第二のアイディアは、あくまでも「神が人
    間に、それも赤子の姿で人間になる」という前代未聞の計画からスタートすることだったのです。
    そしてそのチャンスは一回限り。もしも声をかけた女性に拒まれたら、第二のアイディアは潰え
    てしまうのです。
    カトリック教会が、聖母をあのように大事に思っているのは当然のことではないでしょうか。
    第二のアイディアは、数万人の女性・数十万人の女性に次々と声をかけて行った末に、やっと
    あの方にたどり着いたのではないのです。
    マリア様の「仰せのとおりになりますように」という一言こそが、第二のアイディアを実現する
    ために絶対に欠かせない要件だったのです。

4.イエスの誕生と受洗
    こうしてイエスが誕生し、成人してヨハネから洗礼を受けます。
    父なる神が、(マルコ一章十一節)

        あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。

    と宣言なさり、そこに聖霊が鳩の形で現れたことで、第二のアイディアの計画はいよいよ人々の
    前に明らかにされていくこととなりました。
    神と人間との不幸な関係は回復され、人は安心して神の許に戻ることができる。
    この救いのメッセージは、神ご自身の直接的なことばで、当時の人々に告げられ始めたのです。
    このメッセージを受け取ったヨハネ福音書の著者はこう記します。

        神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
        独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
        神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためで
        ある。(三章十六・十七節)

    ここには第二のアイディアに対する最高の信頼が表されています。
    救いのメッセージを神から直接に聞かされた大きな喜びに満ちています。これこそが福音の真髄
    です。
    それに比べるとパウロの次の文章に、私は違和感を覚えます。

        正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。
        思い違いをしてはいけない。
        みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒に
        おぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができませ
        ん。(一コリント六章九・十章)
 
    イエスの次のメッセージを思い起こして、この項を終わりたいと思います。
 
        はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
        (マタイ二十一章三十一節)


5.生身のイエスのやり方
    イエスは人々に父のイメージを次のように話しています。

        父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、
        正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる
                            (マタイ五章四十五節)

    また、放蕩息子のたとえ話の中では、

        ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を
        抱き、接吻した。(ルカ十五章十三節)

    ここには、第二のアイディアが人々に伝えたい「神の第一の(本当の)顔」がはっきりと示され
    ています。
    これは決して人を裁き・罰する神のイメージではない、父のまことの姿です。私たちは安心して、
    神の許に立ち返ることができるのです。
    これがイエスの「ことばによるメッセージ・福音」です。

    一方、イエスには「業によるメッセージ」という福音のもう一つの側面がありました。
    そのふるまいの原型は、ルカ十章の(善き)サマリア人のたとえに見ることができると思います。
    ここでは追いはぎに襲われた人という目の前の現実に対して、とにもかくにも駆けより・手を差
    出す姿が示されています。
    その人を知っているからでもなく、ましてやその人が善良な人かどうかなどには全く関心を示す
    ことなく、傷つき苦しんでいるという現実だけに目を向けた、イエスのふるまいの原点がありま
    す。
    私は生身のイエスのやり方の根っこ・本心をここに見る思いがします。
    そして神の「第二のアイディア」のこの姿は、神の似姿である人間の中にも、間違いなく反映し
    ているところであると信じます。

    それにくらべると、パウロの人間理解はかなり違います。

        (実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために
          死んでくださった。)
        正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。
        善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。(ローマ五章七節)

    人となられた神・「人間体験をなさった神」は、人の思いを超えてその本心を示してくださった
    のです。
    ここにイエスのふるまいの圧倒的な魅力があります。
    しかしそれは大変な軋轢をもたらすものでもあったと思います。


第四、ふたつのアイディアの拮抗

第五、「第三の顔」(あるいは「第三のアイディア」)

むすび