☆ 10月第4週 ☆    2015/10/22 〜 10/28


『 《群れ》 の宗教 』 から 『 《個》 の信仰 』 へ


 キリスト教には、大雑把に「東方教会」と「西方教会」があります。
 「東方教会」は、ギリシア ・ ロシアなど、西欧より東の地域に広がったキリスト教。    

 「西方教会」は、西欧やその植民地であった北米 ・ 南米などに広がったキリスト教で、
 信徒数からいえば、西方教会の方が多数派です。 とはいえ、「西方教会」は、カトリックと
 プロテスタントの諸教会に分かれていますから、教派としてはバラバラ状態です。

 ある意味では、キリスト教は 「教派分裂」 の歴史そのものでした。

 日本の場合、「プロテスタント教会」 > 「カトリック教会」 > 「東方教会(ロシア正教)」の
 順かと思いますが、プロテスタント教会は非常に多くの教派に分かれていますので、
 まとまった信徒数からいえば、カトリックが最大ですが、それでも 50万人程度です。
 ロシア正教としては、東京のニコライ堂 とか、函館のハリストス教会 がよく知られています。

      



  ・ 教義の違いは、信徒には無意味なもの

   東方教会と西方教会の教義上の違いのひとつに、「三位一体の神」の理解の仕方があります。    
   前者では 「父・聖霊・子」 の順番で理解し、後者では 「父・子・聖霊」 の順で説明します。
   そんなことどっちでもいいと思われますが、両方の神学者はそれを本気で議論するのです。
   私には、とても付き合いかねるテーマです。

   カトリックとプロテスタントの間の神学論争も同様で、カトリックでは人の死後の世界を
   「天国」「煉獄」「地獄」と考えるのに対して、プロテスタントでは 煉獄 を認めません。
   誰もそれを己の目で確認して戻ってきた人はいないのですから、これを ああだ・こうだと
   議論しても致し方ないもの。 一般の信者からみれば、どっちでもいいことのように思えます。

       死者の追悼の仕方が両者で違います。 カトリックでは故人が煉獄で「罪を償っている」
        期間を短縮すべく、「ミサ」や「善行」などを通じて、故人の早期救済の実現を願います。
        プロテスタント教会では、死後の行先 「天国」 「地獄」 はいまさら変えることなど不可能・・・
        という立場のようです。


   神学者にとっては 『人生をかけるに値するテーマ』 かもしれませんが、一般信徒にとっては
   『神のみぞ知る』 領域であり、その議論はあまり意味のあるものとは考えられません。

   ところが、神学者はこういうことに非常に拘って、論争を続けてきたのでした。

       次のようなケースを本で読みました。
        12世紀、ワルド派と呼ばれる異端の審理の際、「キリストの母を信ずるか」という審問官の問いに
        対して、彼らがそれを肯定すると、審問官一同は爆笑した。 というエピソードがあります。
        それは、マリアを 「神の母」 とか 「イエスの母」 という呼称で呼ぶことはあっても、決して
        「キリストの母」と呼ぶことはないという神学上の常識を彼らが持っていないことをあざ笑ったという
        話なのですが、こんな言葉遊びを弄ぶのが、神学者の鼻持ちならぬ点なのでした。

        参考文献: 堀米庸三「正統と異端」 中公新書 (上記の個所は p.16)
                渡邊昌実「異端審問」  講談社現代新書


   ひとり一人の信徒が、こんな神学論争にかかわることなどアホらしい話で、信仰をこういう
   「言葉遊び」 のレベルでいくら深めたところで、そこからは、イエスの本当のメッセージ ・
   神への信仰は育ってはいかないと私には思えてなりません。


  ・ イエスの生きざまを通して、学びとれたこと

   私は、受洗以来長い間、カトリックの教義をそっくりそのまま信じようとしてきました。
   カトリックの教えは厳しいなと思いつつも、それを受け入れ・実行することが神の救いに
   与かる一番優れた方法だと、自分自身に言い聞かせてきたのでした。

   1960年代に開かれたカトリックの「第2バチカン公会議」は、新しい時代に即した教会改革を
   目指して、宗教改革以来の大きな方向転換を打ち出しました。
   公会議が発表したいくつもの「憲章」の中で、私が一番関心を持ち、驚かされたのは「現代
   世界憲章」
でした。 その中の43項は、私に大きな衝撃を与え、目からうろこの信仰刷新を
   促したのです。

   このあたりのことは、すでに別のブログで書いていますので、ここにその内容は記しませんが、
   私の『信仰覚醒』を決定的に後押ししてくれたものでした。

      参考 : 「現代世界憲章」43項 に関する私のブログへのリンク


   これを機に、私は自分の信仰総点検を行い、ひとつの結論に達しました。 それは、
   『脱 キリスト教』 ないし 『脱 宗教』 というものでした。
   これについても、私のブログに整理してあります。

      参考 : 脱キリスト教 ・ 脱宗教 に関する私のブログへのリンク


   一言でいえば、キリスト教という宗教に依存するのではなく、イエスという方が、その生きざまを
   通して、私たちに提示してくれた 『神と人との関係・人と人との関係』 への覚醒です。


   キリスト教ないしカトリックの「宣伝」としてではなく、むしろ一人のキリスト者が、どんな格闘プロセス
   経て、脱キリスト教・脱宗教という心境に到達したかの 『体験記』 として、ご覧いただければ
   幸いです。 上の写真をクリックしてご覧いただけます。


友人のひとりは、「時代が時代なら、宗教裁判にかけられたのでは・・・」 と
気遣われるのですが (^_^); 私の場合は、別の教派を名乗るわけではない
ので、大丈夫です。 教団・教派レベルの争いには全く関心がありません。
それでは 「目くそ鼻くそを笑う」 の類でしかない訳ですので・・・




今週の内容、かなり私の偏った主張で不快に思われた方もいらっしゃるかと思います。
80歳の 爺 の語らずにはおられぬものでしたので、ご容赦くださいますようお願いいたします。





今週のいい話     NHK 朝のドラマ 「あさが来た」。
  幕末から明治にかけての日本の夜明けを生きた
  女性が主人公で、東京制作のちゃらちゃらした
  若者向けシリーズよりは、大人向けで好ましい。
  そのヒロインを取り上げた展示会を見る機会が
  ありました。

  女性が社会的弱者とされた時代に、これだけ
  勇気を発揮し、活動したヒロインがいたという
  のが何とも爽快。
  彼女の 七転び八起 ならぬ 九転び十起 の信条
  には、正直圧倒されます。

  ドラマで土方歳三が借金に来る場面がありま
  したが、その証文が実物展示されていたのも、
  臨場感が横溢。 ドラマの信ぴょう性なり・迫力
  をあらためて感じました。
  どんな時代にも、すごい生き様を見せる女性が
  いるのですね。 実に嬉しいことです。

     田○陽子のような単なる口先女とは、格の違いが
      ありあり!
  



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