遠藤作品をヒントに考える「イエス」 : 《7》

第6:私とキリスト教
遠藤神学を私がどう受け止めたかをこれまで述べてきました。
氏の神学・信仰が、氏の体験・人生から生まれたのだとすれば、同じように
私の生活体験が、私なりの神理解・イエス理解を生み出すのだと思います。

少しそのあたりを思い出してみようと思います。

1)西洋のキリスト教との出会い

  1945年、私が10歳のとき、日本は敗戦を迎えました。小学4年生の時でした。
  いっぱしの「軍国少年」意識で、日本は神の国、絶対に負けないとか、最後のひとりまで戦い
  抜くのだ・・・という教育を受けていました。

  それが8月15日に一気に崩れ落ちました。私の住む町には米軍が進駐してきて米軍キャンプが
  できました。町にはアメリカ兵があふれ、日本人の女と肩をくんで歩く姿が日常のこととなり
  ました。
  アメリカ兵のジープを取り囲み「ギブ・ミー・ガム」「ギブ・ミー・チョコ」とせがんだ世代です。
  小学校の給食で初めてマカロニを食べました。今でも私はショートパスタが大好きです。

  二十歳までの10年間に、私の周囲には欧米の文化があふれるようになります。
  英会話、英語の歌、ジャズ、シャンソン、アメリカ映画やフランス映画・・・当時の私はラジオ講座
  でフランス語を学んだり、レコードでシャンソンを覚えたり、ドイツやフランスの小説などを好んで
  読んだりしていました。

  そんな欧米文化のひとつとして、キリスト教にも出会ったのです。
  たまたまイタリア人神父の多い男子修道会が運営するカトリック教会で、私は「公教要理」という
  小さな書籍を通してキリスト教を学びました。

  家の宗教は禅宗で、月命日にはいつも住職が家に来て読経し、ときには祖母とお酒を飲んだりも
  しているのを、幼いころからずっと見てきました。
  しかし仏教がどんな教えなのかなど、考えたこともありません。
  そういう少年にとって、「公教要理」という書籍は、実に理路整然とキリスト教の世界観を説明して
  いるものに思えました。
  そのほか岩下壮一神父の「カトリックの信仰」という分厚い本は、西欧の当時のカトリック教会の
  立場からの教理解説をていねいになさっており、今でも宝のように思っています。
  
  こういう経緯の中で、私は自分の意志で洗礼を受けます。
  1951年16歳のときでした。
  後に父母、祖母、弟妹も洗礼を受けることになるのですが、
  とりあえずは、一家でただひとりのキリスト者でした。



                    洗礼を受けた熊本手取教会の
                          <日本の聖母>像
  この辺りは、遠藤氏の場合とはまったく事情が異なっています。
  私はお仕着せではない入信をしましたし、西洋から入って来たコチコチのカトリック教義を、その
  文化と共に喜んで受け入れたということです。

  ラテン語の典礼や聖歌も、私にとってはお経よりもはるかになじみ深く思えました。
  今日の教会ではラテン語聖歌を歌うこともなくなり、地域の合唱団でラテン語のミサ曲を歌って、
  当時を懐かしんでいますが・・・。

2)第二バチカン公会議

  1960年代に入って、カトリック教会はヨハネ23世の発案で、第二バチカン公会議を開催することと
  なりました。(1962年10月 〜 1965年12月)

  当初、この公会議の目指すものが何なのか・・・それを見極められる神父・信徒は(少なくとも日本
  の教会では)多くはなかったと思われます。
  とりあえず「典礼憲章」が、典礼の自国語化(ラテン語から日本語に)という具体的な成果をもたらし
  たものの、それ以上のものとは思えません。

  自国語化・現代語化といっても、漢字をひらがなに置き換えた程度のぎこちない祈りのことばが導入
  されたという印象しかありません。

  公会議は最終的に16の文章を発表しました。
  ここでその内容を紹介することはしません(正確には「できません」)が、私にとって、もっとも
  インパクトのある「個所」は、「現代世界憲章」の中の次の部分です。

  それは「現代世界憲章」の43項の中の次の部分です。


    信徒は霊的光と力を司祭から期待すべきであるが、司牧者 が何事にも精通
    していて、どのような問題についても、しかも重大な事がらについても、
    即座に具体 的解決策をもちあわせているとか、それがかれらの使命である
    かのように考えてはならない。むしろ 信徒はキリスト教的英知に照らされ、
    教権の教えに深く注意を払いながら、自分の責任を引き受けるようにしな  
    ければならない。

    キリスト教的なものの考え方に従って、ある状態におい て、ある特定な解
    決策を選ぶということがしばしば生ずるであろう。他の信者は同じくまじめに    
    考えた結果、同じ問題について異なった判断を下すということもたびたびあり、
    それもまた当然なことである。
  

  この文章を普通の感覚で読めば、至極当然と思える内容です。
  ところが第2バチカン公会議の公式文書の中に、わざわざこういう一文が盛り込まれているところに、
  それまでのカトリック教会内の意識なり・雰囲気がどういうものであったかが、はっきりと見えている
  と考えることができます。

  それまでの私と教会との関係を最も的確に表現する言葉は、「母なる教会」というものです。
  教会はいつでもこの言葉を用いて信徒を包み込んできましたし、多くの信者は「母なる教会」を信頼し
  きっていました。
  そういう中で目にした先ほどの文言は、私にとっては 「母なる教会による<子離れ宣言>」とでも
  いうべきものでした。


    この<子離れ宣言>という言い方は、私のオリジナルですが、マシア神父の著書「解放の神学」
    p.168 で次のように表現している個所と同じ意味だと考えています。

      教会は現代のそれぞれの具体的な問題に対する出来合いの回答を必ずしも備えているわけでは    
      ない(33番参照)。 信徒は司祭からすべての具体的な問題の解答を期待してはいけない
      (43番参照)。 ---- 従来教会はそれほど信徒をおとな扱いしていたとは言いがたい。

  

  少々大袈裟にいえば、1945年の敗戦よりも大きなショックに私は襲われたのです。

3)ひとりぼっちの模索

  母なる教会から<子離れ宣言>を受けた私は、「自分の責任」のもと、ひとりでキリスト教再発見の旅に
  でることとなりました。

  ・それまで私の信仰は「公教要理」をベースにしていました。聖書そのものを通読することはなく、
   「公教要理」のそれぞれの個所で、関連する聖書の個所を参照するというスタイルでした。
   それを改めるため、毎日聖書を一章ずつ読み続けることにしました。
   「旧約」の冒頭から、「新約」の最後まで。二度目の通読時には別の翻訳聖書を読むようにしました。

   カトリックの翻訳聖書だけでなく、プロテスタント教会のもの、あるいは岩波書店から出版されたもの、
   「リビングバイブル」(従来なら決して手にすることのなかったもの)も読みました。
   手元の「リビングバイブル:旧約」には、3回の通読完了日がメモとして記入されています。

  ・キリスト教あるいはイエスをテーマにした書籍にもたくさん目を通すようにしました。
   それまではその書籍が教会の推薦するものかどうかで選別していたのですが、そういうしばりを外して
   読みあさりました。 そんな中で特に印象に残ったものをランダムに記せば・・・
            
新書版 正統と異端堀米庸三中公新書1964
イエス・キリスト土井正興三一新書1966
イエスの死半田元夫潮新書1973
イエスとその時代荒井献岩波新書1974
異端審問渡辺正美講談社現代新書1996
その他南蛮のバテレン松田毅一日本放送出版協会1970
解放の神学ホアン・マシア南窓社1985
歴史の中のイエスG.コーンフェルト山本書店1988
聖書の世界木田献一ほか自由国民社1991
死海文書の謎M.ベイジェントほか柏書房1992
イエスの生涯G.ベシエール創元社1995
書物としての新約聖書田川建三勁草書房1997


  ・カトリックの中の新しい「運動」にも顔を出すようにしました。
   東京・初台教会で日曜日の夜開かれていた「聖霊による信仰刷新:祈りの集い」(俗に、カトリックの
   カリスマ運動)に参加し、毎日の(自発的・自由な)祈りと聖書通読の習慣がつきました。


これらは、私にこれまで私を導いていた「カトリック的世界観」から、外界への目を開かせてくれました。
その結果、「教会よりもイエス様、キリスト教よりもイエス様」という、これまでとは大きく違う信仰の姿勢が
生まれました。

それが最終的に「脱キリスト教」という現在の私のスタンスを生み出しました。
そして私の信仰は深まったと確信するにいたりました。

第7:私の≪脱≫キリスト教