☆ 3月第2週 ☆    2015/03/05 〜 03/11


 入院中に考え続けたこと ・・・ 私の 『三一神』 理解 

先週ご紹介したように、マレーシアでのロングステイ下見旅行の後、40日間の入院生活をし、
椎間板ヘルニアの手術を受けることになりました。 その間、長く続けてきた私の「日記」は、
中断を余儀なくされます。 そんな余裕など持てない程の身体的苦痛の連続だったのです。

一方、頭の中では、多くのことを思い続けていました。 退院後、その思い続けた事柄を
文字に書き起こしたものが、『三一神』に関する私の理解のまとめ です。

すでに私の Web Page に掲載している ものですが、私の信仰刷新の 《中核》 ともいえる
ものですので、この際、簡単に要点をご紹介いたしたいと思います。
これも、ロングステイ計画の頓挫が齎したある種の 《成果物》 なのですから。


   ●三一神 という用語

    一般的には「三位一体」の神という用語で知られているキリスト教の神のことです。
    キリスト教は言うまでもなく一神教ですが、そこには、父である神、子であるイエス・キリスト、
    そして聖霊という3つのペルソナ(位格と訳されます)があるという、日本人には馴染みの薄い    
    教義が前提になっています。 私は、カトリック研究講座で、当時、英知大学の助教授で
    あった竹田先生が用いたこの用語がすんなり受け取れたので、この言葉を使うことにします。


   ●第一の顔 : 父なる神

    キリスト教は、ユダヤ教から出てきたものですので、ユダヤ教の教義・聖典を引き継いで
    います。 ユダヤ教で「聖書」とされているものが、そのまま「旧約聖書」としてキリスト教に
    受け継がれています。 同じように、ユダヤ教の神(ヤーウェ)は、「父である神」として、
    キリスト教にそのまま継承されているのです。

    父なる神は、宇宙を創造し、すべての生き物を生み出し、人が死んだ後に、その生涯の
    善悪に応じて審判を行うという、『恐ろしい顔』 を持った存在ということになっています。

    旧約聖書の時代にも、神(父なる神)は 『預言者』 と言われる人々を通じて、正しい道を
    歩むようにと、人々に語り掛けていました。 「預言」 は、「予言」 とは違うことにご注意
    いただきたいと思います。 未来を占うのが 「予言」者、一方 「預言」者は、神のことば・
    意向を人々(ユダヤ人)に伝えるために、神から役割を受け取った人のことです。
    ユダヤ教の神は、掟を守らない不信心者に対して、罰を与えるだけでなく、正しい道へ
    立ち返るようにと、預言者を通して救いの道を示してもいた ・・・ ということになります。


   ●第二の顔 : 子なる神 イエス・キリスト

    しかし、ユダヤ教の世界には、それ以上の救いの業はなく、多くの人々は、救いから遠い
    状態のままに、滅びの道を歩んでいた(とも解釈できた)訳です。

    イエス・キリストという、キリスト教の概念は、神の第二のペルソナ(すなわち神ご自身)が、
    人間のかたちをとって、それも嬰児のかたちをとって・マリアの子として地上に姿を現した
    と教えています。 考えようによっては、とんでもない発想の宗教です。

        仏教でも、仏が人の姿で地上に現れるという発想はあるようですが、それは
        あくまでも『仮の姿』としてです。
        キリスト教が説く、イエスは『まことの神・まことの人』であるという 《両性説》 とは
        異なるものだろうと思います。
        誤解して欲しくないのは、両者の間に優劣があるという比較をする気などは毛頭なく、
        単に、キリスト教における『まことの神・まことの人』 という 特徴 を指摘しておきたい
        だけのことです。 この点をお断りしたいと思います。


   ●ふたつの顔の拮抗 : 十字架上の酷い死

    キリスト教では、十字架上のイエスを基本的には「尊いもの・立派な姿」と説明しがちです。
    そうなんでしょうか? そこには、イエスの中に、人間の姿よりも、神の姿を見るスタンスが
    優先されているからではないかと思います。 イエスの人としての姿を、あくまでも仮の姿だ
    と捉えるなら、それは『まことの神・まことの人』という両性論とは相いれないものとなります。

    イエスの受難を、「復活を見据えた出来レース」として捉えるなら、それは茶番でしかありま
    せん。 お芝居としての、見せかけの受難劇でしかないと言うべきものになってしまいます。

    私には、『絶望の中に息絶えたイエス』を本気で認めない限り、キリスト教はキリスト教たり
    えないという思いがあります。 そこまで突き詰めた「父なる神と子なるイエスの拮抗」を
    認識しなければ、キリスト教のいう 『まことの神・まことの人』 であるイエスを捉え得ないと
    確信したのです。

    最後は、神が救い出して下さる ・・・ との前提を安易に置くようでは、生身のイエスの覚悟の
    ほどは、結局、私たち自身の信仰の中には入って来ないのだと思ったのです。

    受難の前夜、ゲッセマネの園で血の汗をたらしたイエスの姿を、しっかりと目に焼きつける
    ことなしには、イエスの受肉(人間になること)の真の意味は、捉え得ないのだと思います。


   ●第三の顔 : ふたつの顔の和解 (聖霊)

    キリスト教では、「父なる神がイエスを起こし、昇天させ、ご自分の右の座に据えた」 と教え
    ます。
    絶望の中に死んだイエスは、三日目に復活させられて、父なる神との拮抗に和解が齎され、
    神の第三の顔(聖霊)として人々の前に、新しい姿を見せてくれたのでした。

    それは、イエスのように振る舞い、イエスのように人々に仕え、イエスのような惨めな死に方
    をも受け容れる ・・・ そんな生き方こそが、神の望みとして人々に示されたという驚くべき
    メッセージなのです。

    ここに、イエスの受肉の意味が明らかにされ、神が人に望んでいる「生き方・生き様」が
    どんなものか ・・・ つまり 新しい信仰の姿 が明らかになったと受けとめました。

    イエスに従うとは、そういう生き方なのです。 決して、十字架やマリア像の前で敬虔に祈る
    というきれいなイメージのものではないということ。 これが、イエスが命懸けで私たちに
    さらけ出して下さった、神のこころ・真意であった ・・・ これが私の確信となったのです。


  私が病床で掴み、文章化した こちらのページ をご覧いただければ幸甚です。

  長いものですので、最後の むすび の部分だけをご覧いただくのもお勧めです。(^_^);






プログラムで振り返るオペラ Part.2 B : ワーグナー 「さまよえるオランダ人」


   '73年当時の私は、ワーグナーという作曲家に殆ど関心がありませんでした。 コンサートで管弦楽曲を    
   たまたま聴くことはあっても、オペラには全く縁がなかったのです。 はじめてのワーグナーオペラの
   鑑賞は、この作品でした。 私がワーグナー好きになったのは21世紀になってからです。(^_^);

   
 1973/ 7/16 若杉弘指揮 東京フィルハーモニー交響楽団: 東京文化会館
 大橋国一、平田恭子、木村俊光 ほか  二期会オペラ公演
 1992/ 3/14 小澤征爾指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団: 尼崎・アルカイックホール
 ハンス・ゾーティン、エリザベス・コネル、ホセ・ファン・ダム ほか

   1973年のものについて、当時の日記に、次のように記してありました。

        ワーグナーの音楽、この時代のものは分かりやすい。 オーケストラは、オーボエやホルンに
        やや不満はあるものの、よく鳴っている。 歌手は、ソプラノと大橋さんが圧倒的な迫力。
        他は少し声量が劣るのでは? 第1幕の男声合唱の迫力。 第2幕は本当にすばらしく、女声
        合唱とその後の二重唱も実にいい。 男と女の情愛の深みを強く感じさせる。

   1992年の日記には、「ワーグナー、さらりとした運びで聴きやすい。 ソプラノがいい。」 とだけ書いて
   あります。






今週の嬉しい

誤算?  
   春先の花粉症には、50年間以上悩まされ続けた私です。
   海外ロングステイを考えたのもそれが理由でした。

   ところが、今年は今のところ花粉症の症状が出ていません。

   歳をとると症状が軽減するという話は耳にしたことがあるものの、
   今年の様子は、今のところ昨年までとは全く違います。

   嬉しい誤算なのかどうか? しばらく 《様子見》 の今日この頃です。



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