<b>余りもの 2016年5月</b>


《 2016年 5月 》

 5月  8日
9日 ベルカントで歌う : 個人レッスン  
10日
11日 オバマ大統領の広島訪問 決定  
12日
13日
14日
15日 新聞書評欄 : 殉教者(ペトロ岐部)  
16日
17日 公民館パソコンおたすけ広場  
18日 会社OBの飲み会 @
19日
20日 マイナンバーカード交付通知書 受領
21日 芸術文化センター 『ドリーム・コンチェルト』  
22日 TV番組での珍発見  
23日 明け方の夢   ベルカントで歌う  新聞読者投稿欄:指導者の責任
24日
25日 小説「イエスの涙」再読 C  
26日
27日 オバマ大統領 広島を訪問
28日
29日
30日 新聞:読者人生相談欄
31日 今月の診療記録 
 6月   1日 マイナンバーカード受領  新聞投稿欄:指導者の責任 その2
 2日 会社OBの飲み会 A
 3日
 4日
 5日
 6日
 7日 公民館パソコンおたすけ広場  


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ベルカントで歌う : 個人レッスン

今回も、カンツォーネを選び「マンマ」 の一番だけをチェックしていただきました。
この歌、メロディーは以前からよく知っているのですが、イタリア語で歌うのは
初めてです。 まだまだ暗譜では無理で、目で歌詞を追っている状態。
あまり自信のない状態でレッスンに臨みました。

音程に関しては問題ないのですが、フレーズの区切り方には勘違いがあります。
イタリア語(単語)の意味を知らないままに歌っているのが原因です。 (´;ω;`)ウッ…
次回に、二番の歌詞も暗譜して、再度チェックしていただくことにしました。




この歌では、上の図のように、7拍分の長い音があり、休符なしにすぐ次のフレーズを
歌うというかなり難儀な個所が連発されます。 練習中、これをどうこなすか工夫し、
次のフレーズの頭で、『息を吸いながら歌う』 という妙な工夫をして臨みました。
先生の意見としては長い音を6拍分にし、最後の1拍を休符扱いにして構わないと。
ただ私の工夫した 『息を吸いながら歌う』 という方法も 『あり』 だということです。

私の工夫の背景には、以前 TV 番組で見たクラリネット奏者の
「循環呼吸 → 鼻から吸いながら、口から吐く ・・・ を同時に行うこと」
があります。 歌の場合は、口を開いたままなので、クラリネットと同一か
どうかは分かりません。 いずれにしても丹田の筋肉を使って肺に空気を
取り込みながら、同時に声を出すというイメージです。


まだまだ練習中のものですが、こういう工夫を自分なりにすることで、単に発声の練習
というよりは、意味を考えたり、感情の動きを工夫したりで 『脳活』 にもなるのでは?
と密かに期待しているところです。 次回までもう少々、精進したいと思います。





 新しい練習曲 : さびしいカシの木

ベルカントの教室では、「発声練習」 「個人レッスン」 「全員による練習曲」 といった時間割になって
いて、3〜4カ月ごとに、「イタリア古典歌曲」「オペラ等からの曲」「日本歌曲」「カンツォーネ」が
順次取り上げられています。 今は、日本歌曲を練習中で、今日は新しく やなせたかし作詞、
木下牧子作曲の 『さびしいカシの木』 が配布されました。 はじめて接する作品です。

     山の上の 一本の 淋しいさびしい カシの木が
     遠くの国へ 行きたいと 空行く雲に 頼んだが
     雲は 流れて 消えてしまった

といった歌詞です。 そして最後は、

     山の上の 一本の 淋しいさびしい カシの木は
     今では とっても 齢をとり ほほえみながら 立っている
     さびしいことに 慣れてしまった

私の年齢だからこそ、出せる味があるのかもしれません。
そういう気持ちで練習にとりかかろうと思います。

それで思い出したのです。 1951年、初めて親許を離れた熊本で
社会人のスタートをきった頃、ラジオ歌謡として流れていた曲を・・・

     糸杉は ひとり立っている 青空が落ちてこぼれる
     あの丘の いただきに・・・

     糸杉は 考えてる  憧れは どんな色だろぅ
     しあわせは どんな色だろぅ

     糸杉は ひとり立っている
     糸杉は さびしそうだよ

          「 いとすぎはひとり立っている 」 藤浦洸作詞、芥川也寸志作曲
          昭和26年放送ということまではネットで確認できているのですが、
          それ以上のことは、把握できていません。


あれから 65年余、私も 『すっかり齢をとり』、フェイド・アウトする日を
ただただ待つのみの身となっています。
そんな感慨を覚える今回の練習曲です。
   


 明け方の夢 


明け方、おかしな夢を見て目覚めました。

   市街地を見下ろす展望のよい山の中腹の道を歩いていました。
   何かのはずみに、路肩を踏み外して崖から落ちてしまいました。
   崖の途中の木の枝にしがみつき、体は確保したものの、元の道まで
   這い上がる力がありません。

   しばらくもがいていると、ちょっと下の方に、細い山道があることに
   気づきました。 そこまでなら、飛び降りても大丈夫そうです。
   決心してそこまでころがり落ちるように降りたのです。

   その細い道は、やがて市街地につながる安全な道でした。

   すごく 「暗示的な夢」 だと感じたのです。

   多分、最初の道は、仕事を中心に生きてきた道だろうと思います。
   崖の途中の枝にしがみついた状態は、退職後の今につながる
   ちょっと宙ぶらりんな心理状態の時期。 目は昨日までを追っています。

   そして、枝から手を放してころがり落ちた先の細い道は、
   「終末を見据えた時期」 を暗示しているのでは ・・・ と。
   それは予想とは違って、歩きやすく・安全な小道でした。

   残り少なくなった「今」という小道、そこを過去の記憶やつながりと絡めて
   後生大事に生きるのではなく、思い切って 『これまでとは別の道』
   と割り切り、それまでとは 違う 目線からの 景色 として眺めていく
   よう 『いざなわれて』 いると感じたのです。 もう過去とのつながりは
   きれいさっぱりと縁を切り、終末に向けた歩みの日々として
   割り切って歩くように ・・・ と諭されている気がしてなりません。




「イエスの涙」 C 十字架刑を考える





ここで、キリスト教側からの「十字架刑」観をちょっと離れ、歴史的な視点から、
ローマ帝国における「十字架刑」の意味といったものを、調べておこうと思います。
参考にするのは、とりあえずは次の2冊です。

 「イエス・キリスト」   その歴史的追及  土井正興  三一書房  
 「イエスの死」     信仰と政治のはざまで  半田元夫  潮出版社

当時、ユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ピラトが総督として君臨していました。
このことは、福音書にも記述されている通りです。 例示すれば ・・・          

マタイ福音書27章1節 : 夜が明けると、民の長老たち一同は、        
                イエスをどのようにして殺そうかと協議し、    
                 イエスを縛って、引いて行き、総督ピラトに渡した。

ここで不思議なのは、ユダヤの長老(指導者)たちが、なぜイエスをユダヤの律法で裁かず、
ピラトの手に委ねたのか? という点です。 というのも、ユダヤにはユダヤの法(律法)が  
あり、一般的な犯罪や、宗教的な罪は、ローマ総督の手を煩わす事案イッシューではなかったのです。

実際、ヨハネ福音書18章31章には、ピラトの「この男(イエス)を引き取り、お前たちの律法に
従って裁け」というユダヤ人に対する言葉が記されています。 ローマ軍の支配下においても、
ユダヤ自体の「裁き」は、存在したのです。 つまり、ローマ帝国に対する反逆罪のような類と
日常的な犯罪あるいはユダヤ教の宗教上の罪などとは、しっかりと区別されており、
後者に対しローマ総督が関与することはなかったということが分かります。

従って、ユダヤ人の指導者たちは、イエスをローマ帝国に対する反逆者として、ピラトの手に
よる裁きと処罰を望んだということになります。 4つの福音書は、その場面を伝えています。
マタイ福音書27章2節、マルコ福音書15章1節、ルカ福音書23章1節、ヨハネ福音書18章28節。

ユダヤ人(指導者)たちは、イエスをローマ帝国に対する反逆者として総督のもとに送り・訴えた
という点を、ここではしっかりと抑えておくことが肝要です。



  さて、先に参考書としてあげた 土井正興「イエス・キリスト」によると、

    十字架刑というのは、一体どのような刑罰なのであろうか。 十字架刑という
    のは、ユダヤ古来の刑罰ではない。 それは、刑場には、つねにまっすぐな
    柱がたてられており、そこにひかれてきた受刑者は短い梁に縛られたり手を釘で   
    打ちつけられたりして、垂直の支柱の頂上に綱で引きあげられ、両脚のあいだに
    角状のものをつけて身体がずり落ちるのを防ぎ、また早く死んでしまわない
    ようにし、かけられてから死の到来まで数時間かかるというむごいものであった。
    (p.110)

    ユダヤ民衆の律法違反、涜神などの行為は、もちろんサンヘドリンにおいて
    裁判されるのであるが、石打ち刑、絞殺、絞首刑、火刑という死刑の種類は
    あるが、十字架刑というのはない。 死体を十字形の柱にかけるということは
    おこなわれているが、これは生体を十字架にかけて死に至らせるというのとは
    全くちがっているのである。 (p.113)

    福音書がヨハネによるそれを除くと、なぜ、イエスの逮捕について、イエスの
    処刑についてローマが果たした重要な役割をしいて軽視し、ローマ人を免罪
    しようとしたのであろうか。
    しかも、こともあろうに、なぜ、ローマの代官ピラトウスがイエスにたいして
    人間的、同情的態度をとったかのように描き出そうとしたのであろうか。
    (p.139)

    先にのべたように福音書の成立年代からみて、キリスト教の信仰が決して
    ローマ帝国の制度をくつがえそうとするものでないことをローマ当局に
    わからせ、キリスト教の宣教の自由をかくとくしようという意図でもって、
    ピラトウスの美化、免罪にみられるような、ローマ当局にたいする媚態があった
    とするならば、たとえイエスの言説のなかに、そのような意図が明確に表現
    されたものがあったとしても、そして、福音書記者がそのような反ローマ的
    伝承を知っていたとしても、それを記録する可能性は全くなかったといってよい。
    (p.149)



以上のことからはっきりすることは、「ユダヤ人には、ユダヤ人を裁く 《ルール》 があった」 こと、
「ローマ帝国に対する反逆に対しては、ローマ総督による裁きと 《十字架刑》 があった」 こと。
イエスがローマ総督による裁きを受けたとすれば、それは帝国に対する反逆者として扱われた
と考えるしかない ・・・ というです。 それがイエスの本意であったかどうかとは関係なく、
ローマ総督はイエスを反逆者として 『裁き』 ・ 『十字架刑』 で殺害したということになります。

ところが、福音書にはこれと矛盾する「おかしな記述」としか言いようのない個所が含まれています。

・ マタイ福音書27章19節

 ピラトが裁判の席についているとき、妻から、「あの正しい人にかかわりを持たないように
 してください。 わたしはあの人の夢を見て、昨夜たいへん苦しみました。」

ローマ総督の妻が、このような形で登場すること自体が不自然。
ローマ弁護という、後の時期の影響か?
実際、エジプトのキリスト教では、ピラトを聖人として崇めている
という魔訶不思議な現象が見られます。


・ マタイ福音書27章37・38節

 イエスの頭の上のほうに、「これはユダヤ人の王、イエスである」と書いた罪状書きを
 かかげた。 そのとき、イエスとともに二人の 強盗 が、一人は右に、一人は左に、
 十字架につけられた。

強盗という罪で、ローマ軍による処刑が行われるなど信じがたいこと。


・ マタイ福音書27章54節

 百人隊長およびいっしょにイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を
 見て、非常に恐れ、「まことにこの人は神の子であった」 と言った。

これも当時の目撃談というよりは、後の時期の、ローマ弁護的な発想からの付加かも?

ついでに言えば、イエスの処刑は西暦30年頃、福音書が書かれたのは60年以降と
推定されるので、現代的感覚での「現場目撃記事」と考えることはできないのです。



  半田元夫 「イエスの死 −信仰と政治のはざまで− 」 には、次のような説明があります。   

    「野蛮な死刑」 「最も残忍でおそろしい刑罰」 「すべての死に方の中で最も
    惨めなもの」と言われた残虐な処刑が十字架であった。 ローマはこの処刑を、
    重大な犯罪者、逃亡奴隷や反徒などに用いた。 属州において十字架刑は、
    秩序と安定を維持する最も重要な手段であった。 そして特に政情不安な
    ユダヤの歴史は、多くの十字架処刑を綴っている。 今試みにヨセフスから
    その事実を拾ってみれば、紀元前4年、ウァルスによっていっぺんに2千人に
    及ぶユダヤ人が十字架につけられており、ティベリウス=アレクサンデルは、
    紀元後46年熱心党の創始者ガリラヤのユダの二人の息子、ヤコブとシモンを
    この刑に処した。  ・・・  イエスもまた、この十字架で処刑されたのである。
    (p.220)

    罪状書きの最も簡潔、単純な形が、「マルコによる福音書」のものである。
    他の「福音書」 もそれぞれ多少の相異はみせているけれども、「ユダヤ人の
    王」 と記していることはみな同じである。 
    「福音書」が編輯された時点で、「ユダヤ人の王」 は、ユダヤ人の救い主を
    意味しないで、ローマに対する叛徒を思わせる危険な称号であった。
    その危険な罪状書きがそのまま 「福音書」 に記されているのは、これが抹殺し
    切れないほどよく知られていた事実であったからと考えるよりほか途がない。
    (p.222 - 223)



このような当時の事情をみると、『十字架上のイエスの死』 は、どう考えても人類救済のための
父なる神の計画というような 崇高なもの とは信じ難く、限りなく惨めな事実のように思えます。
それを 「神が最初から計画なさった 《人類救済の手立て》 」 だと説明しているところに、大きな
当惑の思いを抱かざるを得ないのです。

またまた乱暴な言い方をするなら、

    ・ 父なる神は、人類救済のためにイエスを十字架刑にすることを計画し、
      そのための協力者として、ユダを裏切り者として行動させ、ペトロたちには
      間抜けな弟子としてゲッセマネの園で居眠りをさせ、ユダヤの長老たちを
      イエスの身柄引き渡しの発案者とし、ローマ総督のピラトにイエス殺しの汚名を
      着せることを 望まれた ということになります。

    ・ このストーリーに沿っていえば、これらの不名誉な関係者は、すべて神の計画に
      素直に呼応した 『キリスト教誕生の偉大な協力者・立役者』 だったということに
      なってしまいます。

私には、やはりキリスト教の根底にかかわるこの 『十字架』 礼賛のアイディアは、納得のいき難い
ものです。 つまり、神は最初から アダムとイヴが 『禁断の実を食べて楽園を追われる』 シナリオを描き、その
続編として
イエスの死にまつわる上記のような忌まわしい仕事を当時の人々に担わせたという、
かなり趣味のよくない 『自作自演』 の計画を実行なさった ・・・ ということになってしまうからです。

     梅原猛は 角川文庫 「仏教の思想(上)」 p.65 に次のように書いています。

       ヨーロッパ思想の根底には、このような二つの不死の信仰がある。
       そしてその信仰を成立させたものは、ソクラテスの死とイエス・キリストの死であると
       私はあえて言いたいのである。
       二つの死の秘儀、その秘儀の中にヨーロッパ文明の秘密が隠れているのである。
       この二つの死の秘儀にたいして、釈迦の死はまことに、簡単明瞭、そこに、わずらわしい
       形而上学や、いかがわしい解釈は少しもない。 彼は明々白々なる生死無常の理を語り、
       それを実践したのみである。

もちろん、イエスが反ローマ活動の首謀者であったなどという気は私にはありません。
もしそうであれば、イエスの反乱騒動は 『スパルタクスの蜂起』 同様に当時の書物に記録されて
いたことでしょう。
イエスの「現実」は、今のところ福音書の他には資料がないことから、検証することはできません。
ただ、キリスト教の説明する人類救済のための 尊い死 とする立場もすんなりとは受け取れない
・・・ という話なのです。


 今回の結論? :  
 イエスの十字架の死を、人類救済のための父なる神の計画と受け止めるのは   
 あくまでもキリスト教側の立場。
 イエスがその教えと行動から、ユダヤ社会の指導者の反発・憎悪を買い、
 反ローマの叛徒として 「訴えられ・裁かれ・処刑された」 ということは、
 十分ありうることでしょう。
 それだけ、イエスの教えと行動は、当時のユダヤ社会(すなわち 旧約聖書)の
 『事情・伝統』 とは違っていた(ラディカルであった)訳で、それは福音書からも
 十分に伺い知ることができるところです。
 イエスは確かに新しいメッセージを齎していたと考えます。
 そして、それを憎んだユダヤ社会の支配層は、己の手を汚すことなく、イエスの
 処分 (それも政治犯という汚名で!) をローマ総督に委ねたという解釈も、
 ありうる選択肢のひとつでは ・・・ ?
  





会社 OB の飲み会 @ & A

退職して 25年を経過し、会社に関係する集まりには参加することもない
身ですが、今月は、たまたま2度 「OBの飲み会」 に顔を出しました。

ひとつは、年に2回ほど、ひとまわりほど違う後輩たちの誘いで神戸や
大阪で集まるもので、5/18 大阪での集まりに参加させてもらいました。

過去のブログ でも ちょっと触れたものですが、このブログを始めた
きっかけも、実はこの集まりへの最初の参加 (2014/5/22) でした。
先輩老人の「日々のたわごと」でも、何かの足しになるかも? と。



もうひとつは、20歳代半ばに、二年間寝食を共にした研修コース同期生の関西在住メンバーの
初めての集まりで、 6/2 に設定したもの。 8名の方に声をかけ、6名の参加がありました。

当時の企業には、企業内で人材育成を図るという「文化」があり、大学進学を断念せざるを
得なかった若い社員たちを、社内の研修機関で育成するという よき伝統 があったのです。

卒業後、5年ごとに全国各地で持ち回りの同窓会をしていたのですが、メンバーの
高齢化もあって、それも数年前に終わってしまいました。

今年の2月、関西在住のメンバーが亡くなり、その情報を数か月後に耳にしたことから、
近場のメンバーでの会食・情報交換の場があってもいいのでは ・・・ との思いからでした。

参加のおひとりからの、嬉しいニュースを FaceBook に投稿しておきました。







指導者の責任 ・・・ とは?

5月23日の読者投稿を受けて、同様の意見がいくつか続けて寄せられています。




これまでこういう意見があまり見られなかったので、好ましいことだと思います。
ただ、いくつか難しい点があるようにも思えます。

1.政府・軍部などの責任

  これが一番の問題ですが、明治維新によって日本の近代化が急速に始まり、
  日清・日露戦争から、日華事変・太平洋戦争へと続く一連の「戦争の連鎖」は
  特定の誰かを指弾すればそれで済むという単純な問題ではなく、明治維新という
  日本的な革命?の継続・継承として、ある意味では、避けがたい流れであった
  ようにも見えます。
  実際、当時の日本人の多くは、『皇軍の連戦・連勝』 に酔いしれていたのです。

  もちろんそういう状況の中で、あえて「反戦」の姿勢を貫き通した人々もいました。
     一例として、『兵役を拒否した日本人』(岩波新書) など。

      ついでに当時の日本のカトリック教会は、明らかに政府に協力的だったといわれています。
      戦後、それを 自己批判?する文書も出版 されていますが、一方ではそれとは真逆な立場
      からの発言もあり、まとまりはないように見えます。  参考: 「教会に戦争責任を問えるか」

  私自身、10歳で敗戦を迎えた当時の日本人として、前日までの戦争を命懸けで
  批判できていたか? と問われれば、明らかに「否」であり、ほとんどの国民は、
  大日本帝国という大きな潮流の中で、無力に流されていた ・・・ いや、政府と
  一緒になって 「戦争遂行」 の流れに身を任せていたのが実情であったと思います。
  それが良いとか悪いとかの議論の余地など、当時の日本にはなかったというのが、
  実際の姿だったと思うのです。
  仮に、「反戦を貫いたごく一部の人々」が正しく、一般の国民は戦争協力者として
  裁かれ・罰せられるべきだというのなら、当時の日本国民の 99% は、敗戦後の
  時代を生きることを恥じなくてはならないということになるでしょう。

  「東京裁判」 の正当性を批判する声もありましょうが、多くの日本人は、あれに
  よって、前の戦争の責任者・指導者たちは、裁かれた ・・・ 一応のけじめがついた
  ・・・ と受け止めているのではありませんか? (その「網」をうまく潜り抜けた
  一部の指導者もあった ・・・ という疑惑は残るとしても)

2.国民の責任

  前項ですでに触れたことですが、大部分の国民は、意識的であれ・表面おもてづらだけ
  であれ、戦争遂行の協力者として振舞うしかなかった ・・・ という点は、今更
  非難したところでせんないことでしょう。  指導者だけが悪く、国民は悪くは
  なかったと言うことができる立場の人は、まず皆無でしょう。

  そういう意味では、戦争で被った苦難は、いわば自業自得であったと言わざるを
  得ないというのも、過酷な表現かもしれませんが、認めざるをえません。
  私自身、戦時中の食糧難や、(直接被害は受けていませんが)空襲の恐怖などは、
  自分には責任のない誰かのせいだ! ・・・ とはとても言い出すことはできません。

  ある意味では、あの戦争の齎した災禍は、すべての日本人が共に負うしか
  なかったものです。  誰々の責任だ、誰々が『犯人』で、私は悪くなかった ・・・
  とは言えないものでは? と思います。

  国の指導者たちの『罪』は大きく、裁かれるべきものですが、国民はまったく
  責任のない立場にあったと開き直るというのも、私には違和感があります。
  あの時代を、あのように過ごしたことを、誰かのせいにするだけでは、
  今後の歩みを確かなものにする『出発点』を見出すことはできないと思うのです。
  戦時中のひとりひとりの体験を、これからの日本の歩み・方向性に生かす『責任』
  は、当時のすべての国民に負わされていると認識しています。

3.天皇制について

  微妙な問題ですが、やはり触れずにはいられません。

  天皇があの戦争にどのような責任をとるのかは、軽々しく口にすることは難しいと
  思っています。 天皇の意思ひとつで、当時の日本の動きが決定したとは決して
  思えないからです。 天皇もまた、「日本」という国体のひとつの機能として、
  いろいろな制約の中で、その役割を担わされていたのだと理解しています。

  私は 前々から発言 していますが、日本国憲法から「天皇」の項目をなくし、天皇家
  の方々を国家の機能から、解放して差し上げたいという願いを持ち続けています。
  日本という歴史ある国家の中で、特別な役割 ・ 働きを果たしてきた「天皇家の方々」
  を、政治という 『俗世間』 が、何だかんだと利用するのではなく、政治とは別の、
  日本の伝統の中での 『稀有なるご一家』 として末永く続いていかれることをお祈り
  したいのです。

  諸外国の王家のような、国家・世俗の争いごとに翻弄されるものではなく、日本と
  いう永い歴史と文化をもつ 『人々の集合』 のふるさととして、末永く輝いていただく
  ことこそが天皇家にふさわしい位置づけだと、私は感じています。
  そのために、憲法から天皇の項目をなくすことを願っています。 これは天皇家の
  方々への、国家の(あるいは国の指導者の)恣意的な思惑からの利用という
  不届きな魔手が働きにくい仕組みとして強く提案したいものなのです。

4.マスコミの責任

  このテーマで、一番厳しく指弾さるべきは、やはりマスコミでしょう。
  戦争中の新聞・放送が、政府のいいなりに国民への情報を歪めたあの悪夢・
  悪行はいくら強調してもしきれるものではない ・・・ ことを、関係者は決して忘れ
  てはならないのです。 6/1 の投稿者の最後の個所は、耀くフレーズなのです。




今月の診療記録

5月24日 内科  血圧 112 - 60 、投薬(3種) :  700円
5月27日 眼科  投薬のみ(2種):  450円
5月28日 歯科  定期検診:  880円
 合計2,030円