4月 | 8日 | 金 | タイガース甲子園初戦 | |
9日 | 土 | |||
10日 | 日 | 公民館パソコンおたすけ隊 総会 | ||
11日 | 月 | ベルカントで歌う | ||
12日 | 火 | |||
13日 | 水 | 小説「イエスの涙」再読 ② | ||
14日 | 木 | |||
15日 | 金 | |||
16日 | 土 | PACリサイタルシリーズ | 熊本地震・本震 | |
17日 | 日 | |||
18日 | 月 | |||
19日 | 火 | 公民館パソコンおたすけ広場 | 阪神 vs ヤクルト戦 観戦 | |
20日 | 水 | |||
21日 | 木 | オペラハイライト「夏の夜の夢」 | ||
22日 | 金 | |||
23日 | 土 | |||
24日 | 日 | 51回目の結婚記念日 | 新聞の書評欄 : 《 憲法の涙 》 | |
25日 | 月 | ベルカントで歌う | ||
26日 | 火 | |||
27日 | 水 | |||
28日 | 木 | 今月の診療記録 | ||
29日 | 金 | 良い意味での「女性差別」を | ||
30日 | 土 | 息子夫婦との食事会 | ||
5月 | 1日 | 日 | ||
2日 | 月 | |||
3日 | 火 | 小説「イエスの涙」再読 ③ | ||
4日 | 水 | |||
5日 | 木 | |||
6日 | 金 | G.T.ヴァリ クラリネット演奏会 | ||
7日 | 土 |
*教会が教える 《イエス》 の意味ないし役割 私が小学生であった 1947年 に、最初に手にした 『公教要理』 によると、 ☆ イエズス・キリストは、人を救うために、苦しみを受け、 十字架に釘附けにされて、おなくなりになりました。 これを救世の玄義と申します。(109番) ☆ イエズス・キリストがそれ程までにお苦しみになった のは、聖父に対する従順と、我等に対する深い愛によって であります。 また、 1.罪が天主に背く大いなる悪であること、 2.救霊が大切であること、 3.我等もまた甘んじて苦しみを堪え忍ばねばならぬことなどを、 教え給うためであります。 ☆ 救主の御業の効果は、 1.天主たる聖父の限りない御栄となり、 2.人の罪に対して有りあまる贖となり、 3.罪によって失われた聖寵及び天国の幸福を取戻すことで あります。 こうした伝統的なキリスト教側からの説明に対し、「イエスの十字架上の 死は、神の計画であったのか?」 と問題提起をしているのが、 いわゆる 「十字架嫌悪シンドローム」 だということになります。 |
*『イエスの涙』 の中で紹介されている 《キリスト教での解釈》 ☆ イエスは、十字架にかかって死んで復活するという使命を 持って生まれたのに、当時、誰もそれを理解できなかった。(p.246) ☆ 十字架にかかって死ぬイエスの存在なしに、キリスト教は ない。(p.254) ☆ 罪ある人類が救われるためには、罪のない神の子の身代わりの 死が絶対に必要であった。(p.262) ☆ ゲッセマネの祈りにおけるイエスの苦悩は、十字架の苦しみから 逃れたいという自分の意思を克服して、神の意思に服従する 戦いの苦悩であった。(p.279) |
表現の違いはあるものの、私が受け入れたカトリックの教義と、小説の著者が紹介する 『キリスト教での解釈・説明』 とは、共通の認識に立っていると考えてよさそうです。 この点は大事なところで、教会の教えを、小説の著者が歪曲した視点から問題視 or 批判 するようであれば、それは的外れで、議論する意味のないものになってしまうからです。 今回は、 著者の 『キリスト教の本質』 理解の内容を確認したところで一区切りします。 毎回少しずつ、著者のキリスト教への疑問なり、解析といったテーマを通じて、 私自身のキリスト教に対する現在の 『立ち位置』 を分析してみようと思います。 |
4月13日 | 眼科 | 定期検診、投薬(2種) | : 1,410円 |
4月22日 | 内科 | 血圧 120 - 73 、投薬(4種) | : 850円 |
合計 | 2,260円 |
・ 神が愛の方であるなら自分が選民として選び導いてきた、愛する イスラエルの民に、どうしてイエス ・ キリストを殺害するという 最大の罪を犯させることができたのだろうか? (p.259) ・ イエスの十字架が神の願いであったとするなら、・・・ ユダヤ人 たちが神殺しでありメシア殺しという最大の罪を犯すのを願われた ことになる ・・・ このことは神の愛とまったく矛盾する ・・・ この二千年間ユダヤの人たちが、この神殺しという罪名を被せられ て、迫害され虐殺されてきた ・・・ もしイエスの十字架の死が神の 願いであったとするなら、ユダヤ人たちは神の願いを果たすことに 貢献した偉大な民族のはず ・・・ キリスト教のユダヤ人迫害は、 決してなされてはならないこと ・・・ イエスご自身は自分を殺そうと している人たちを赦してほしいと神に願われたのですから。 (p.261) ・ イエスの十字架の死は必然であり、神の計画であった。その人類の 救いをもたらした十字架の死のためにもっとも貢献した人間は、 イエスを裏切った弟子のユダであった。 もしユダがイエスを 裏切っていなければ、イエスは逮捕されず、人類の救いと罪の 償いのために十字架上で殺されて血を流すことはできなかった からだ。 (p.262) ・ キリスト教は、イエスの十字架の死を神の願いであり、必然的な ものであると考えてきました。 その一つの根拠が、イエスの ゲッセマネの祈り、『この杯をわたしから取りのけてください。 しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われ ますように』 (マルコ福音書第14章36節) の解釈からきていると ・・・ 考えます。 この祈りの言葉から、神の御心はイエスの十字架 の死であると考えられてきたのです。 (p.272) ・ (教会は) 二つの意思が衝突すると考えてきました。 一つは 十字架の死は神の願いであるという神の意思であり、もう一つは 十字架の道は恐ろしいので行きたくないというイエスの意思です。 ・・・ しかし、本当に二つの意思が衝突し闘ったのでしょうか? 神の意思とイエスの意思は相反するものだったのでしょうか? イエスは本当に、十字架の死の肉体的苦痛から逃げたくてあれ ほど苦悩されたのでしょうか? (p.279) ・ これまで十字架の死の苦しみを意味すると考えられてきた 『杯』 も、 実はそれが何を意味するのか本当はまだはっきり分からないのだ と主張する神学者もいるのです。 ・・・ イエスが祈りの結果得た 答えは、十字架の道が彼が行くべき神の御心であるということでは なく、弟子たちが眠ってしまったことが答えとして示唆されていると いうのです。 (p.280) ・ イエスは自分が十字架の道を行くことで父なる神がどれほど悲しま れるかを知っておられたゆえに、父なる神を悲しませる十字架の 死をなんとかして避ける道はないものかと苦しみ悶えられたのです。 ・・・ 自分を殺すことでイスラエル民族が行かなければならない 悲惨な運命を知っておられ、十字架の道を行くことで、自分を師と 仰ぐクリスチャンたちが辿らなければならない殉教と迫害の道を 知っておられ、さらに救いが再臨のときまで遅れ、人類全体が 歩まなければならない闘争と殺戮の悲惨な歩みを知っておられた のです。 (p.283 - 284) ・ イエスは弟子たちに、ともに目を覚まして祈るように願われました。 そこに最後の可能性を託されたのです。 しかし、弟子たちは イエスの抱えておられたそのような事情と心情を理解できず、 三度とも眠ってしまいました。 『聖心の啓示』 でイエスが啓示されたことによれば、弟子たちが 眠ってしまったとき、イエスは弟子たちから捨てられ、傷ついた のです。 それは、彼のそれまでの人生におけるもっとも悲惨な 絶望的な体験でした。 (p.284) ・ 悲しいかな、弟子たちはイエスと一つになれず、イエスを裏切り、 彼を知らないといって逃げ去りました。それでイエスは十字架を ひとりで背負って行かざるを得なかったのです。 (p.286) |
乱暴を承知でいえば、既存のキリスト教では「イエスの建てられた教会は、それ自体が すでに完成されたものであり、あとは全世界の人々を・すべての時代の人々を、その 信仰に招き入れること(だけ)が、教会の究極的な使命である」と考えていること。 「イエスは神の国を告げ知らせたが、やって来たのは教会である」 1902年、アルフレッド・ロアジー(1857~1940年)は、この有名な一節を記した。 司祭にして、優秀な教授だった彼は、歴史学的批評の新しい道に入った。 彼は1908年3月7日、破門されている。 一方、イエスの心情の立場からは、イエスが始めた神の国の実現は、教会の中だけ ではなく、すべての人々に向けられた、『互いに愛し合いなさい』 というイエスの ことば と生き方との実践であり、そこには完成とか・完了という段階はなく、世の終わり まで続けられるべき(信仰者の)日々の営みの継続だということです。 |