<b>余りもの 2016年4月</b>

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《 2016年 4月 》

 4月  8日 タイガース甲子園初戦  
9日
10日 公民館パソコンおたすけ隊 総会  
11日 ベルカントで歌う 
12日
13日 小説「イエスの涙」再読 A  
14日
15日
16日 PACリサイタルシリーズ 熊本地震・本震
17日
18日
19日 公民館パソコンおたすけ広場   阪神 vs ヤクルト戦 観戦  
20日
21日 オペラハイライト「夏の夜の夢」
22日
23日
24日 51回目の結婚記念日 新聞の書評欄 : 《 憲法の涙 》  
25日 ベルカントで歌う 
26日
27日
28日 今月の診療記録 
29日 良い意味での「女性差別」を  
30日 息子夫婦との食事会 
 5月   1日
 2日
 3日 小説「イエスの涙」再読 B
 4日
 5日
 6日 G.T.ヴァリ クラリネット演奏会  
 7日


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    熊本地震・本震



4月14日夜の「熊本地震」は、16日の本震の<予震>だったと聞きびっくりしました。
地震の範囲も熊本中心から、大分県方面に拡大し、被害地域・揺れの大きさが、当初の
想定をはるかに超えたものになっているようです。 現代の人知の限界を見る思いです。

実は、私の出身地は大分県で、知人もたくさんいます。 昨日、そのおひとりとメールで
やりとりをし、14日の地震の影響はほとんど無かったと聞き一安心したところでした。

16日の方がひどいのでは? と気にかかるのですが、この混乱の中ではやたらに連絡を
とろうとするのは、反って相手に迷惑になりかねないと控えています。 というのも、かつて
阪神淡路大震災を体験した私の感覚からいうと、被害地の当事者の立場からは、とても
そういう問い合わせに対応するほどの「余裕」は、心理的にも・時間的にもないという
ことを実感しているからです。 当事者と遠隔地の人々との「立場の違い」を認識し
何が本当に大切か・役立つかをクールに認識しておきたいと思うのでした。

18日に、大分市在住の Facebook の知人が、状況説明の投稿をなさったことで
大分での状況が分かり、一安心したのでした。 ネットの効用を実感できました。






PACリサイタルシリーズ




地元、兵庫芸術文化センター小ホールでのリサイタル。
今回は PAC オーケストラメンバー3名によるリサイタルでした。
アメリカ人の打楽器奏者は、意欲的なプログラムで前衛的な作品を披露。
日本人女性ヴァイオリニストは、ブラームスのソナタなど。
ロシア生まれのコントラバス奏者は珍しいコントラバス協奏曲を・・・
と、バラエティ豊かな・そして意欲的なプログラムの数々でした。

若いころから、前衛的な現代音楽に親しんできた私ですが、この歳に
なると、落ち着いた楽曲にほっとした気持ちを抱くようになりました。(^_^);
今夜のいちおしは、
ヴァンハル作曲「コントラバス協奏曲」 に決定!
次はピアノ伴奏ではなく、オーケストラ版で味わってみたいものです。





小節 : 「イエスの涙」 再読 A



小説のストーリーを追うのではなく、この本が提起している「イエスの本意」とは何か?
「イエスの十字架上の死」こそが 《父なる神》 の究極の計画だったと説明するキリスト教
の立場を、根底から問い直したい ・・・ という著者の問題提起について、引き続き考えて
みたいと思います。 これはノン・クリスチャンの方々には関心の持てないテーマかとは
思いますが、わたし的には興味深いというか、信仰再点検といった意味を持つテーマです。
しばらくご辛抱をお願いいたします。

*教会が教える 《イエス》 の意味ないし役割

  私が小学生であった 1947年 に、最初に手にした 『公教要理』 によると、

   ☆ イエズス・キリストは、人を救うために、苦しみを受け、
     十字架に釘附けにされて、おなくなりになりました。
     これを救世の玄義と申します。(109番)

   ☆ イエズス・キリストがそれ程までにお苦しみになった
     のは、聖父に対する従順と、我等に対する深い愛によって
     であります。 また、
     1.罪が天主に背く大いなる悪であること、
     2.救霊が大切であること、
     3.我等もまた甘んじて苦しみを堪え忍ばねばならぬことなどを、
       教え給うためであります。

   ☆ 救主の御業の効果は、
     1.天主たる聖父の限りない御栄となり、
     2.人の罪に対して有りあまる贖となり、
     3.罪によって失われた聖寵及び天国の幸福を取戻すことで
       あります。

  こうした伝統的なキリスト教側からの説明に対し、「イエスの十字架上の
  死は、神の計画であったのか?」 と問題提起をしているのが、
  いわゆる 「十字架嫌悪シンドローム」 だということになります。

*『イエスの涙』 の中で紹介されている 《キリスト教での解釈》

   ☆ イエスは、十字架にかかって死んで復活するという使命を
     持って生まれたのに、当時、誰もそれを理解できなかった。(p.246)

   ☆ 十字架にかかって死ぬイエスの存在なしに、キリスト教は
     ない。(p.254)

   ☆ 罪ある人類が救われるためには、罪のない神の子の身代わりの
     死が絶対に必要であった。(p.262)

   ☆ ゲッセマネの祈りにおけるイエスの苦悩は、十字架の苦しみから
     逃れたいという自分の意思を克服して、神の意思に服従する
     戦いの苦悩であった。(p.279)

表現の違いはあるものの、私が受け入れたカトリックの教義と、小説の著者が紹介する   
『キリスト教での解釈・説明』 とは、共通の認識に立っていると考えてよさそうです。
この点は大事なところで、教会の教えを、小説の著者が歪曲した視点から問題視 or 批判
するようであれば、それは的外れで、議論する意味のないものになってしまうからです。

今回は、 著者の 『キリスト教の本質』 理解の内容を確認したところで一区切りします。
毎回少しずつ、著者のキリスト教への疑問なり、解析といったテーマを通じて、
私自身のキリスト教に対する現在の 『立ち位置』 を分析してみようと思います。





阪神 vs ヤクルト戦 観戦

恒例の、甲子園球場での 『西宮市民優待』 チケット(500円)をゲット。
女房と久方ぶりにプロ野球公式戦へ。 3塁アルプス席からの応援です。






今月の診療記録

4月13日 眼科  定期検診、投薬(2種) : 1,410円
4月22日 内科  血圧 120 - 73 、投薬(4種) :  850円
 合計2,260円





息子夫婦との食事会

隣町に住む長男夫婦は、年に数回はわが家にやって来て食事を共にするのですが、
今回は連休中ということもあり、神戸のベイシェラトン・ホテルでの昼食と、ホテル内の
天然温泉施設に行くというプランをセッティングしてくれました。 嬉しいことです。

昼食はバイキング形式ですが、「熊本・宮崎県産の食材」がテーマになっていて、
折からの熊本地震のこともあってか、客足も快調な様子でした。 久方ぶりの
「辛子蓮根」をはじめ、火の国 熊本の味をおいしくいただくことができました。

ホテル内の温泉施設も、こじんまりながら天然温泉(有馬の銀泉を思わせるもの)で、
露天風呂をはじめ日帰り温泉なみの施設が揃い、満足できるものでした。
(ホテル宿泊客は無料で利用できるので、夕方以降は混むようですが、日中は
さほど利用者も多くはなく、ゆったり・のんびりと過ごすことができました。)

思えば、私の場合、両親を比較的早くに亡くしていますので、こういう親子の
交流の機会はないままでした。 ともかく、嬉しく・ありがたい休日でした。




小説「イエスの涙」再読 B



「十字架嫌悪シンドローム」 を覚えるキリスト者たちが語る 『イエスの心情』 というものには
伝統的なキリスト教の教えとは大きな違いがあるようです。それは「イエスの使命は十字架
上の死に極まる」ことではなく、むしろ、生きて地上に神の国(神のこころが実現する世界)を
実現させることであった ・・・ という 『理解』 です。 その要点をピックアップしておきましょう。


  ・ 神が愛の方であるなら自分が選民として選び導いてきた、愛する
    イスラエルの民に、どうしてイエス ・ キリストを殺害するという
    最大の罪を犯させることができたのだろうか? (p.259)

  ・ イエスの十字架が神の願いであったとするなら、・・・ ユダヤ人
    たちが神殺しでありメシア殺しという最大の罪を犯すのを願われた
    ことになる ・・・ このことは神の愛とまったく矛盾する ・・・
    この二千年間ユダヤの人たちが、この神殺しという罪名を被せられ
    て、迫害され虐殺されてきた ・・・ もしイエスの十字架の死が神の
    願いであったとするなら、ユダヤ人たちは神の願いを果たすことに
    貢献した偉大な民族のはず ・・・ キリスト教のユダヤ人迫害は、
    決してなされてはならないこと ・・・ イエスご自身は自分を殺そうと
    している人たちを赦してほしいと神に願われたのですから。 (p.261)

  ・ イエスの十字架の死は必然であり、神の計画であった。その人類の
    救いをもたらした十字架の死のためにもっとも貢献した人間は、
    イエスを裏切った弟子のユダであった。 もしユダがイエスを
    裏切っていなければ、イエスは逮捕されず、人類の救いと罪の
    償いのために十字架上で殺されて血を流すことはできなかった
    からだ。 (p.262)

  ・ キリスト教は、イエスの十字架の死を神の願いであり、必然的な
    ものであると考えてきました。 その一つの根拠が、イエスの
    ゲッセマネの祈り、『この杯をわたしから取りのけてください。
    しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われ
    ますように』 (マルコ福音書第14章36節) の解釈からきていると
    ・・・ 考えます。 この祈りの言葉から、神の御心はイエスの十字架
    の死であると考えられてきたのです。 (p.272)

  ・ (教会は) 二つの意思が衝突すると考えてきました。 一つは
    十字架の死は神の願いであるという神の意思であり、もう一つは
    十字架の道は恐ろしいので行きたくないというイエスの意思です。
    ・・・ しかし、本当に二つの意思が衝突し闘ったのでしょうか?
    神の意思とイエスの意思は相反するものだったのでしょうか?
    イエスは本当に、十字架の死の肉体的苦痛から逃げたくてあれ
    ほど苦悩されたのでしょうか? (p.279)

  ・ これまで十字架の死の苦しみを意味すると考えられてきた 『杯』 も、
    実はそれが何を意味するのか本当はまだはっきり分からないのだ
    と主張する神学者もいるのです。 ・・・ イエスが祈りの結果得た
    答えは、十字架の道が彼が行くべき神の御心であるということでは
    なく、弟子たちが眠ってしまったことが答えとして示唆されていると
    いうのです。 (p.280)

  ・ イエスは自分が十字架の道を行くことで父なる神がどれほど悲しま
    れるかを知っておられたゆえに、父なる神を悲しませる十字架の
    死をなんとかして避ける道はないものかと苦しみ悶えられたのです。
    ・・・ 自分を殺すことでイスラエル民族が行かなければならない
    悲惨な運命を知っておられ、十字架の道を行くことで、自分を師と
    仰ぐクリスチャンたちが辿らなければならない殉教と迫害の道を
    知っておられ、さらに救いが再臨のときまで遅れ、人類全体が
    歩まなければならない闘争と殺戮の悲惨な歩みを知っておられた
    のです。 (p.283 - 284)

  ・ イエスは弟子たちに、ともに目を覚まして祈るように願われました。
    そこに最後の可能性を託されたのです。 しかし、弟子たちは
    イエスの抱えておられたそのような事情と心情を理解できず、
    三度とも眠ってしまいました。
    『聖心の啓示』 でイエスが啓示されたことによれば、弟子たちが
    眠ってしまったとき、イエスは弟子たちから捨てられ、傷ついた
    のです。 それは、彼のそれまでの人生におけるもっとも悲惨な
    絶望的な体験でした。 (p.284)

  ・ 悲しいかな、弟子たちはイエスと一つになれず、イエスを裏切り、
    彼を知らないといって逃げ去りました。それでイエスは十字架を
    ひとりで背負って行かざるを得なかったのです。 (p.286)


以上が、「十字架嫌悪シンドローム」 と 「イエスの心情」 に出会った人の信仰の特徴です。

   乱暴を承知でいえば、既存のキリスト教では「イエスの建てられた教会は、それ自体が
   すでに完成されたものであり、あとは全世界の人々を・すべての時代の人々を、その
   信仰に招き入れること(だけ)が、教会の究極的な使命である」と考えていること。

       「イエスは神の国を告げ知らせたが、やって来たのは教会である」
        1902年、アルフレッド・ロアジー(1857〜1940年)は、この有名な一節を記した。
        司祭にして、優秀な教授だった彼は、歴史学的批評の新しい道に入った。
        彼は1908年3月7日、破門されている。


   一方、イエスの心情の立場からは、イエスが始めた神の国の実現は、教会の中だけ
   ではなく、すべての人々に向けられた、『互いに愛し合いなさい』 というイエスの
   ことば と生き方との実践であり、そこには完成とか・完了という段階ステージはなく、世の終わり
   まで続けられるべき(信仰者の)日々の営みの継続だということです。

確かに伝統的なキリスト教信仰とは大きく異なります。 この本が出版された当時、教会が
何の反応も示さなかったのは、その立場からすれば、歴史と伝統を無視した 『荒唐無稽』
な このような 《 世迷言 》 など、100% 論評に値しないと考えたからでしょう。
教会の立場からは、ある意味、当然の 「黙殺」 であったと 私も思います。

しかし、現代という時代が、キリスト教の伝統(的な解釈)に対して、果敢に批判を
展開するという新しい潮流を生み出していることを否定することはできないでしょう。
キリスト教批判は、もはや タブー ではなくなってきているのです。

次回からは、私の注目する別の視点からの 「伝統的解釈への批判」 を
取り上げてみようと思います。 それは現在の私の 『キリスト教』 観 すなわち
脱・キリスト教 という立場を生み出した長い作業のベースとなっているものです。




G.T.ヴァリ クラリネット演奏会



地元、芸術文化センターでのワンコイン・コンサート。 今回は PAC オーケストラのメンバー
でもある、ヘルヴァシオ・タラゴナ・ヴァリ(クラリネット)の登場で何とも意欲的なプログラム。

1曲(プーランク「クラリネット・ソナタ」)を除き、初めて聴くものばかり。 加えて自作の
「エレジー・クロマニヨン」 を演奏するなど、意欲的なプログラム構成でやる気満々!!
ただ、1時間15分を休憩なしで聴くと疲れること夥しい。 ちょっと力みすぎの感。
若い演奏家にこういうチャンスを与え、また聴衆の啓発を試みるというのは、他所では
あまり見ない大胆な企画で、今後のラインナップに期待が持てて好ましい。