キリスト教は、日本人には信じられないほどの憎しみをゲイに向けています。 欧米では「ヘイト・クライム」でキリスト者に殺されるゲイも少なくありま せん。 このページでは、ゲイとは何かを考え、愛とゆるしを説く教会の姿勢とのギ ャップを解明したいと願っています。同性愛について、私たちはどれだけ知っているのか
・ 同性愛について、私たちはどれだけ知っているのか?
キリスト教の不可解さのひとつに「同性愛」への激しい憎悪があります。 新約聖書で有名なのは、パウロの「コリントの信徒への第1の手紙」にある 次の言葉です。 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い 違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、 男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う 者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。 (6章9節、10節) ここで「男娼」「男色をする者」と訳されている人々は一体どのような存在 なのでしょうか? また、それは「同性愛者」を意味しているのでしょうか? 同性愛を非難する人々は、まず非難する対象をはっきりと認識すべきです。 定義が明らかでない存在を非難することはナンセンスだからです。 聖書のお勉強はさておき、私たちは同性愛について何を知っているのか?と いう疑問からスタートしたいと思います。元に戻る。
・ゲイ(男性同性愛者)の定義をする前に
ゲイという言葉は比較的新しい言葉です。医学用語(?)としては、同性愛 を「ホモセクシュアル」と呼んでいるようですが、ホモセクシュアルと呼ば れていた彼らが自らのことをゲイと呼び始め、それが「ライフスタイル」で もあることをアピールしはじめたのです。 単純に「男を愛する男」がゲイだというのは乱暴な話です。 というのもある人が「男」であるとか「女」であるとかを 100% はっきりと 決めることができるのか?という疑問があるからです。 たしかに世界中の大多数の「男」は自分が「男」であることに何の疑問も持 っていません。「女」に関しても同様です。 では、すべての人間を明快に「男と女」に区分できるのかといえば、必ずし もそういう訳ではなさそうだからです。 俗に「半陰陽」と呼ばれる人々がいます。 若い母親が出産した。生まれた瞬間に耳にしたのは、助産婦の「あれっ ? 男の子? 女の子?」という怪訝そうな声だった。そして、医師た ちは母親からも父親からも赤ちゃんを隠したというのだ。外的な奇形を 持つ子が生まれた場合、出産直後の母親には事実を伝えなくても、父親 や家族には伝え、適切な処置ができる医療機関に転送する。しかし、半 陰陽の赤ちゃんが産まれた時は、どちらにも一週間ほど事実を告げず、 赤ちゃんを隠してしまう。そして、その間に医療側がどうしたものかと 性別の判定をする。 一週間後、初めてわが子との対面したその母親は「男か女かわからない」 と告知された。それはどういうことなのか、唖然とする母親に、医師は、 でも女の子に決定すると言い渡した。どういう経緯でそう決めたのか、 医師は生まれた子に女の子としての養育の性を与え、外性器手術を三回 も受けさせ、性腺も摘出してしまった。しかし、成長するにつれ、その 赤ちゃんは、女の子らしくならず男の子の特徴を持ちつつある。 (吉永みち子『性同一性障害』より。) 聖書には、 神は御自分にかたどって人を創造された。 神にかたどって創造された。 男と女に創造された。(創世記 1:27) とあり、大多数の人間について、それは何の疑問もないことです。 しかし、数は少なくても、生まれてきた赤ちゃんの性が医者によっても判定 しがたいケースが確かに存在するのです。 ここでいう「男、女」は生物的なというか、生殖活動における「オスとメス」 という視点からのものですが、とにかく聖書が示すほどには「男と女」の区 別が明確でないケースが確かに存在するのです。 まず、このことを知っておきたいと思います。元に戻る。![]()
・ 「オス、メス」だけが男女区別の唯一の基準か?
生まれたとき大部分の人間は「オス」か「メス」かの判定を受け、それを背 負って成長して行きます。 「オス」は「男の子」らしく、「メス」は「女の子」らしく育てられるのが 普通です。 ところがその成長過程で、100% 生まれたときの性別に沿って育って行くと は限らない現象が起こっています。 男の格好をし、男らしい職業に携わっている「メス」の存在は、最近では割 合に知られるようになりました。その逆もまた同様です。 つまり「オス、メス」の区分とは異なる「男」と「女」が育っていくケース があるのです。 これは子供の遊びの段階から見られる現象、すなわち性の衝動以前から起こ っている現象です。 多くの大人たちは、変な子供と考えがちですが、本人にとっては「なぜ私に はオチンチンがないの」とか「そのうちに生えてくるだろう」という小さな こころを悩ます大きな疑念なのです。 大人の「男、女」になることを自分の生活の中で受け入れることのできない 「オス、メス」が間違いなく育っているのです。 「男」として生きることを望まない「オス」、「女」として生きることを望 まない「メス」は、自らの納得がいく性を生きるための苦悩を背負います。 性同一性障害と呼ばれる苦悩を持つ人々や、ゲイとかレズビアンと呼ばれる 人々は、そういう立場の人たちです。 性同一性障害と同性愛とは別の事柄です。 その区別は後ほど見ることにします。 ところで「男」として生きようとしている「メス」を好きになった「オス」 がいたとき、その「オス」は異性愛者なのか、同性愛者なのか? その「オス」がゲイとして生きているケースもあります。 この場合、世間の目からは「男女のカップル」に見えます。 しかし、その「男」は「メス」であり、「女」は「オス」なのです。 このようにライフスタイルとして「男」の格好でその役割を生き、「女」の 格好でその役割を生きている人々の姿から男女差を考えようという視点もあ るのです。ジェンダーというのがこれでしょう。 「オス」が 100%「男」であるべきだとか、「メス」が 100%「女」であるべ きだと決めつけるのは不当だという主張がそこにはあります。 また「男の役割」「女の役割」を固定的に捉えないという考えもそこから出 てきます。 社会における役割は「オス、メス」に依存するものではないということです。 ライフスタイルとしては、さらに「男でもなく、女でもない」あるいは「男 とも女とも言いがたい」姿で生きる人々も登場しています。(ジェンダーフ リー) ゲイは、そういうライフスタイルとも深く関わっています。 ゲイは、男とも女とも違う、独自のファッションや音楽センスといった文化 を作り出しているように見えます。 このようなライフスタイルに関わる事柄を、宗教としてのキリスト教は取り 締まろうというのでしょうか?元に戻る。