・ 「男らしさ」を生きる「ゲイ」もいる

  「オス」の遺伝子を持っていても、胎児の頃のホルモンなどの影響で、何ら
  かの後遺症を背負うことになった「男」のいることが分かりました。
  「メス」の場合も同様です。

  あるケースでは、「オス」と「男」(「体の性」と「こころの性」)の違和
  感や葛藤が極度に激しく、性転換手術を望むことになります。トランスセク
  シュアルと呼ばれる人々です。

  そこまでではないが、「男」として生きることを拒み、「女らしく」生きる
  ことを選択する人々もいます。トランスジェンダーと呼ばれています。
  本当は「女らしく」生きたいのだが、社会の差別などを恐れてそうできずに
  いる人々もいます。

  以上のケースでは、いずれも「オス、メス」と「男らしさ、女らしさ」の重
  なり方に何らかの食い違いが見られます。

  そういう「生物的な性」と「男らしさ、女らしさ」の組み合わせのほかに、
  その人の「性的指向」という側面との組み合わせがあり、ひとりひとりの性
  の多様性はますますグラデーション模様を呈することになります。

  ピーズの「話しを聞かない男、地図が読めない女」には、次のような記述が
  あります。( p.207 )

      ホモセクシャルの行動をつかさどるのは、簡単に分けて「相手探しセン
      ター」と「行動センター」の二つである。
      「相手探しセンター」は視床下部にあって、男女どちらに性的魅力を感
      じるかを決める。男が男として機能して、女に惹かれるようになるため
      には、男性ホルモンが必要だ。もし男性ホルモンの量が不充分だと、脳
      の働きは大なり小なり女の部分を残すことになり、異性である男に魅力
      を覚えるようになる。
      「行動センター」のほうでは、男性ホルモンが足りなくても、男っぽい
      話し方や身振りができる。ただし男性ホルモンが極端に不足すると、行
      動はあきらかに女っぽくなる。
      相手探しセンターと行動センターで、必要な男性ホルモンの量がちがう
      理由は謎である。だがなよなよした男がみんなゲイでなく、マッチョな
      男がみんなヘテロでない現実は、これで説明がつくだろう。

  また、p.211 では、

      人間のセックス中枢は、血圧や心拍数、情動を管理する視床下部という
      ところにある。視床下部はサクランボぐらいの大きさで、重さは 4.5グ
      ラム前後。男のほうが若干大きく、それにくらべると女、ホモセクシャ
      ル、バイセクシャルの人は小さい。
  
  と説明しています。

  これらを援用すれば、相手探しセンターすなわち性的指向は、視床下部の大
  きさ(おそらく胎児の頃に浴びた男性ホルモンの量)で決まる、つまり生ま
  れつきだということです。

  それとは別に、現在の男性ホルモンの量で行動センターの活動の仕方がきま
  るということであれば、ホモセクシュアルである「オス」つまり「ゲイ」の
  中に、「女らしく」あるいは「ジェンダーフリー」として生きる人もいれば、
  「男らしく」生きる人もいることの説明がつきます。

  「男」として生きている「ホモセクシュアル」な「オス」。しかし、彼がゲ
  イであることに気づく周囲の人は少ないのです。
  彼は社会活動の中では完全に男性として振舞います。人によっては結婚もし、
  子供をもうけていることも珍しくはありません。
  しかし彼の性的指向は異性ではなく、あくまでも「同性」です。

  同様のことは、性的指向が両性に向かう人にも当てはまります。

  結婚というパートナーシップでは、二人のいたわりあう気持ち、助け合う心
  が大事ですから、性的指向が異性に向かうからといって、ゲイには無関係と
  言い切るわけにはいきません。
  もちろん、性同一性障害の人が自分の体の性を忌み嫌うように、ゲイの中に
  は「結婚なんて気持ち悪い」と感じる人がいます。
  一緒に暮らすのは構わないが、セックスはできないという人もいるでしょう。
  そして、家庭を持つということに抵抗のないゲイがいても不思議ではないの
  です。
  つまり、性的指向には、いわば濃淡の個人差があるということです。

  結婚という社会的な枠組みは、ライフスタイルの選択の問題です。
  性的指向というその人の内なる傾向が、その濃淡に応じて、どんなライフス
  タイルを生み出すかは、人それぞれに異なるのです。

  「ゲイ=オカマ」というワンパターンな見方が、偏見でしかないことが分か
  ります。
    

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・ もうひとつの「男に向かう性」

  体の性とこころの性の激しい葛藤を感じている人(トランスセクシュアル)、
  そこまでの葛藤はないが体の性とは別の性で生きて行きたいと願う人(トラ
  ンスジェンダー)たちがいます。

  内なる性的指向が同性に向かう場合にも、「異性との暮らしやセックスは絶
  対にいや」という人から、「パートナーシップとしては異性でも構わない。
  でもセックスはいや」。さらには「パートナーシップとしては異性でも構わ
  ないし、セックスもできる」まで、いろいろな形が存在するのです。

  オス(男)の性欲には2つの面、すなわち接触欲と放出欲があるといわれて
  います。
  前者は、「好きだ・一緒にいたい・結婚したい」などの感情や精神的な願望
  をともなう、パートナーシップに連なるものです。
  一方、後者は、体内のもやもやの解放を望む単純な衝動です。

  2つの欲望は、女性には理解しがたいことですが、結構独立したものとして
  男の中に存在します。だからこそ、どんな社会でも男相手の性風俗産業が繁
  盛しているのです。そこではこころの繋がりは必要ありません。

  さらに世の中をよく観察すると、ゲイやレズビアンとは全く関係なく、性行
  動が同性または両性に向かっている人々が多数存在しています。

  たとえば、よく聞く話として、軍隊や刑務所など男ばかりの社会では、男同
  士の性行動が見られるといいます。
  また日本で昔からいわれた「稚児、念者」などは、本当にゲイを意味してい
  たのでしょうか?
  むしろ、社会的にも 100% 男として生きていながら、性衝動・性行動が両性
  に向かっているというケースも少なくありません。

  織田信長と森欄丸の関係はあまりにも有名ですし、作家三島由紀夫の性衝動
  が(少なくともある時期においては)同性に向かっていたこともよく知られ
  ていることです。

  近年、ゲイ・バーなどで「ウリ専」と呼ばれる若い男の子が働いています。
  彼らの全員がゲイということではなく、異性愛の男の子も、お金のためにゲ
  イの性の相手をしています。

  また、女性との性交渉に満足感・充実感を味わえない男の話も、最近の傾向
  として見逃せません。
      「それはセックスにおける自分自身の喜びからもたらされる満足感では
      なく、妻に喜びをあたえてやったぞということからくる満足感なのです。
      まるで借りは返しましたよ、つとめはちゃんと果たしてるぞ、ボクちゃ
      んはいい子だろうという感じで、セックスにおける妻との間のエモーシ
      ョンの開放感がない」(立花隆「アメリカ性革命報告」)
  こんな夫たちが、息抜きの場を「同性」に求めることもありうるでしょう。

  以上のケースは、かならずしも一生を通じての内なる傾向とはいえませんが、
  単純に「ホモセクシュアルとは、性的な関心が同性に向く人」と決めつける
  だけでは、説明のつかない性行動が存在することに気づかされます。

  こう考えると、「オス、メス」「男らしさ、女らしさ」の区分に次いで「性
  的指向」を取り上げる時に、「男が好き、女が好き」というパートナーシッ
  プに連なる側面の他に、単なる性衝動の向かう先としての「異性、同性」を
  考えることも必要になってくるようです。
  体の性とこころの性に食い違いのあるケースがあったように、性的指向と一
  言でいうところにも、感情を含めたこころの部分と、殆ど生理的なといえる
  性衝動の部分とがあって、2つの間に食い違いが生じるケースもあるという
  ことが発見できます。
  そうすると、セクシュアリティを考える側面は3重構成から、4重構成にな
  るのです。

  

  「同性愛」という言葉には「好きだ、一緒にいたい」という感情の領域が含
  まれています。つまりパートナーシップとして異性を意識し、結果的にそれ
  が性行動にまでつながっていくわけです。
 
  一方、今回見た「もうひとつの『男に向かう性』」では、男に対しては、性
  の衝動があるだけで、恋愛感情などは必須条件とまではいえません。つまり
  「愛」という感情や精神活動とは縁の薄い領域です。

  ここから見えてくるのは、「男らしさ」の中で生きていて、性的指向も「異
  性」である「オス」の中に「性衝動の向かう先」が「異性」を含むケースが
  あるということです。

  「ホモセクシュアル=同性愛」だとすれば、ここで見た「もうひとつの『男
  に向かう性』」は「同性愛」とは同義語とは言えません。

  「性的指向」のなかの性衝動の部分に『愛』などという情感の世界を関連づ
  けるのはおかしなことです。
  「ゲイ、レズビアン」という情感を伴ったホモセクシュアルの世界は、単な
  る性衝動の向かう先でしかない「もうひとつの『男に向かう性』」とは別の
  ものです。
  
  こういう状況を踏まえて、MSMという呼称が用いられるようになりました。
  Men who have sex with Men. の略です。

  これは、その背景はどうであれ、とにかく男性同士で性行動をする男たちの
  ことを指して使われます。
  もちろんゲイは、MSMに含まれます。両性愛者もそうです。
  性的指向(パートナーシップの部分)が異性に向かっていても、時として、
  あるいは常時、男とのセックスを行う「男」もMSMです。

  MSMの存在を知ることで、セクシュアリティを考える際、その多層性と多
  様性は、より幅広い視点を獲得したと思われます。
    

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・ 生まれつきの資質を責められますか?

  視床下部の大きさが何グラムであるかは、生まれつきのものです。
  その結果、同性に関心や性衝動が向かう「オス」として地上に存在している
  ことは、当人の自由選択の結果ではなく、むしろ神様のご計画というべきで
  しょう。

  多くの人は、心臓が体の中心よりやや左にあるといいます。例外的にやや右
  にある人がいます。でも、誰もそのことを責めることはありません。

  生まれつき、目や耳に障害を持った人もいます。でも、それを道徳や倫理で
  裁く人は、現代の日本にはいません。
  
  生まれつき、子供の生めない体の女性がいます。結婚して、はやく孫の顔を
  見せてくれと親たちに責められることがあります。
  子供のできない原因が、男性の側にある場合でも、女性が責められることす
  らあります。
  こうして彼女を責めることが、道徳的・倫理的に正当でしょうか?
  そのような非難は、彼女に対するいわれなき蔑視・差別です。
  彼女に対する人権侵害の振る舞いです。

  同じように、視床下部の大きさが普通とは違った結果、性的関心や性衝動の
  向かう先が同性である人々が、キリスト教によって非難されています。

  彼らは、自ら好んで視床下部の大きさを小さくしたのではありません。
  異性の挑発的なポーズを見ても性衝動がそそられないのは、彼の努力の結果
  ではありません。
  同性の中に、性衝動をそそられるものを感じ取るのも、自らの意思とは関わ
  りなく湧き出るものです。

  彼らが女性の裸体を見てもムラムラしないのは、彼の罪深さだと言うのでし
  ょうか?
  キリスト教は、聖書を引き合いにして彼らを非難します。地獄行きだと裁き
  ます。
  それは、心臓がちょっと右よりだから、お前の目が見えないから、地獄行き
  だと宣告するのと同じです。

  神様の創造なさった「視床下部の大きさ」を、そのように裁く権限を教会は
  どこから得たというのでしょう?

  教会は、聖書を引き合いに出すのではなく、現代人に分かる『ことば』を使
  って、その理由を説明すべきです。

  聖書には、奴隷は主人に従うのが務めだと書いてあります。
      奴隷には、あらゆる点で自分の主人に服従して、喜ばれるようにし、反
      抗したり、盗んだりせず、常に忠実で善良であることを示すように勧め
      なさい。そうすれば、わたしたちの救い主である神の教えを、あらゆる
      点で輝かすことになります。(テトスへの手紙 2章9,10節)
  これは、当時の社会が奴隷制度を有していたからこそあり得た記述です。
  それとも、教会は、奴隷制度は今も存続すべき制度で、それをなくした人類
  は反聖書的で、罪深いとでもいうのでしょうか?

  同様に、女性の地位に関しても、聖書は(現代人から見れば)ひどいことを
  書いています。
      女性は教会で黙っていなさい。女性には話すことが許されていないので
      す。律法も言っているように、女性は従いなさい。もし、何か学びたい
      ことがあれば、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で話すのは、女性にと
      っては恥ずべきことです。(コリントの教会への第1の手紙 14章)

      アダムが先に造られ、それからエバが造られたからです。また、アダム
      は惑わされませんでしたが、女は惑わされて罪に陥りました。女性は子
      を産むことによって救われます。これは言うまでもなく、慎み深く、信
      仰と愛と清さとをもって生活を続ける限りにおいてです。
      (テモテへの第1の手紙 2章)
  これらが、当時の社会での女性の扱いを反映していることは確かでしょう。
  その点に苦情をとなえる人はいません。
  しかし、社会における女性の地位が変わることで、聖書のこれらの言葉を引
  用して、女性を貶めることを人々(そして教会)はしなくなったのです。

  聖書が書かれた当時の社会の認識が、人間の知恵のあゆみによって見直され、
  克服されることで、聖書を「文字通りに引用」することの不適切さを、人々
  は悟っていったのです。

  聖書の書かれた時代に、視床下部の大きさとか、ホルモンの量に関する知識
  があったのでしょうか?
  そういうものを知らずに書いた内容、それは当時の社会の「視点」でしかあ
  りません。
  いろいろなことが分かってくることで、人間はそれまで差別し、断罪してき
  たことの不当性を認識するようになってきました。

  性的な関心がどこに向かうかという問題も、そういうことのひとつだと思い
  ます。
  そうではないと仰るのなら、どうぞ聖書の引用ではなく、現代の『言葉』を
  用いてそれを説明してください。

  これが、この『シリーズ』を通じての私の唯一の主張です。

  神様が作られた彼らの視床下部の大きさとその働きを、どうぞ尊重してくだ
  さい。

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  私のこの願いにこたえて、次のように仰る聖職者がいます。
      教会は、同性愛という存在そのものを裁いてはいない。同性を相手にし
      た性行為を「罪」と考えているだけだ。

  これは、次のような意見と同じではないでしょうか。

      左利きとして生まれたことは一向に構わない。でも日常生活は右利きで
      行うように。

      黒人として生まれたことは構わない。しかし、黒人として生きてはいけ
      ない。顔を白く塗って毎日を過ごしなさい。

      ユダヤ人として生まれたことは認めよう。しかし、ユダヤ人として生き
      ていくことは認められない。キリスト者として生活しなさい。

  生まれつきの資質を尊重するとは、その資質を発揮しつつ生きることを受け
  入れることです。

  教会は、言葉遊びではない回答、以上のようなことを踏まえた、現代におけ
  る『性の倫理』をきちんと示す責務があると考えます。

  (おわり)