・「オス、メスの区分」と「男、女の区別」の重なり方

  大部分の人は「オス(メス)」として生まれ、「男(女)の子」として育て
  られています。
  2つの区分・区別は無理なく重なっていると自己認識する人々が多いのです。

  しかし、自分がそういう認識を持っているから、100%の人がそうなのだと決
  めつけることは正当ではありません。

  現実に、自分が「オス」か「メス」かを自覚できずに苦しんでいる人々すら
  いるのです。
  吉永みち子著「性同一性障害」には、次のような記述があります。

        森田氏の戸籍上の性別は男である。背広とネクタイといった男性性を
        表す服装は嫌いだと言うが、TシャツにGパン。髪も短い。がっしり
        として体型からも声からも、誰もが疑いなく男性だと思うだろう。外
        から見たら当然のように男でも、森田氏本人は、どうしても自分が男
        とは思えない気持ちを内に秘めて生きてきた。ちょっとした懸賞の応
        募葉書にも、アンケート用紙にも、必ずといっていいほど性別を書き
        込む欄がある。外国に行くにも、履歴書を書くにも、男か女どっちか
        に○をつけなければならない。

        ほとんどの人は、機械的に男や女に○をつける。改めて考えたり、そ
        の度に迷ったりする必要のない事柄が、森田氏にはペンを持つ手が思
        わず止まるほどの何かをつきつける。

        「男に○をつけます。戸籍が男と記載されているから。でも、その度
        に激しい葛藤が心の中に生まれるんです。男に○をつけたくない。で
        も、それだからといって、女に○をつけたいのかといわれれば、そう
        いうわけではないんです。若い頃は、男性用のトイレを使うのは苦痛
        でした。誰もいなければいいんですが、誰かいたりすると入れない。
        男女併用のトイレひとつしかない喫茶店なんか行くと、うれしかった
        です。」
 
        その感じは保育園の頃からだという。
        トイレの前まで行っても、他の男の子が入っていると、便器は複数あ
        ってもトイレの中に入ることができない。次々と男の子がやってくる
        と、トイレの前まで行っていながらお漏らしをしてしまう。

  この森田さんの場合、「男性的な特徴が現われてくるのは、イヤだったが、
  かといって女性的になりたいとも思わない。女性の服装をしたいという気も
  ない」ということです。
  自分の性をはっきりと認識できない、こういう人々が確かに存在するのです。
  「どちらの性か自分の中で決められないのなら、このままで生きていこう。
  それを認める社会であってほしい。」これが森田さんの願いだそうです。   

  次に、自分の体に見る「オス、メス」の区分をはっきり認識できてはいるが、
  その区分を自分の気持ちや生活の中で受け入れること(性の自認)に違和感
  を抱いている人々がいます。
  性同一性障害と呼ばれるこの人々は「性転換手術」を望むほど、自分の体が
  もつ「オス(メス)」に対して深刻な違和感を味わい、悩んでいます。
  つまり、体の性とこころの性とが一致しないという苦しみです。(トランス
  セクシュアル)

  

  さらには、「男らしさ」とか「女らしさ」というジェンダーの区別について
  行けない人々も大勢います。トランスジェンダーと呼ばれるこういう人々に
  対して侮蔑的な「オカマ」や「オナベ」という呼称が使われています。
  また、ジェンダーフリーとして、既存の「男らしさ、女らしさ」の観念を離
  れて生きようとする人々も、社会の冷たい視線や差別に耐えなくてはならな
  い状態にあります。

  

  あるいは、普段は「男、女」の区別に従って生きていても、それに 100% の
  納得がいかず、息抜きの時間を異性装で過ごす人もいます。(トランスヴェ
  スタイト)

  こうして見ると人の性は生物学的な「オス、メス」の区別と、社会的な役割
  としての「男らしさ、女らしさなどの性差」(ジェンダー)という多層性を
  有しており、その重なり方の食い違いが『性の多様性』という事象を生み出
  していることに気づきます。

  ジェンダーすなわち社会的な「男(らしさ)、女(らしさ)などの性差」は
  ライフスタイルに関する問題です。そして、それは性的指向での「同性愛」
  につながる要素を持っています。

  これまで同性愛(ゲイ、レズビアン)はもっぱら性行動として語られてきま
  した。ホモセクシュアルという言葉は、それを指していると思われます。
  しかし、子供の遊びの段階から体験し始めているこの問題は、もっと幅広い
  観点から、人の生き方・ライフスタイルに深く関連したものとして捉えてい
  くことが必要なようです。

  人が社会の中でどのように生きていくかは、決して「男女の二者択一」だけ
  の単純な選択肢だとは言い切れないのです。
  また「男」としての生きかたや「女」としての生きかたを、固定的に考える
  ことも現実に合わないことを知るべきです。

  ライフスタイルとしてのジェンダーに連なるゲイやレズビアンは、人の生き
  方のひとつのあり様として、素直に受容して当然なことなのです。
  道徳や宗教が口を出す領域では、決してありません。
    

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