☆ 7月第4週 ☆    2015/06/16 〜 07/22


 終の棲家 : 兵庫県西宮市 


80年間の振り返りの中で、その半分を過ごした西宮市は、やはり私のホーム
グラウンドという気がします。 今回は、そんなことを取りあげてみます。

1:大分県別府市 通算24年間     6:東京都足立区 2年間
2:熊本市 1年間 7:大阪府吹田市 2年間
3:京都市中京区 1年間 8:横浜市磯子区 3年間
4:東京都調布市 2年間 9:兵庫県西宮市 通算40年間
5:東京都杉並区 3年間10:東京都世田谷区 2年間



   ● 西宮市は甲子園球場のある街

     私が40年間住んでいるのは、甲子園球場から北に徒歩10分ほどの場所です。 浜風に乗って声援が自宅まで     
     聞こえて来ます。 良くも悪くも、この街は球場とは切り離しては考えられません。

     甲子園球場には、京都市中京区に住んでいた 1955年春のセンバツ高校野球観戦で来たのが最初です。
     一緒に観戦したのは、定時制高校のクラスメートのT君 でした。
     当日の日記にこう書いてあります。

          4/3 日曜日 曇りのち晴れ
          雨で一日延びた選抜大会。 今日二日目は時々春光が射すまあまあの日和。
          三塁側内野席の中段あたりで観戦。 T君とふたりだ。
          (途中省略)
          第3試合:天理高校対桐生高校。 この試合、両校ともに毎回走者を出しているが、
          共に8回まで得点なし。 9回裏、桐生最後の攻撃で1点をあげ、地元天理を下した。
          試合以上に、応援団がすばらしく愉快だ。 天理は1万5千ほどの生徒・信者で三塁アルプスに
          陣取り、赤地に白く校名を大書した旗を5・6本。 さらに全応援メンバーが小旗を振るなど、
          リーダーと共に張り切っての応援ぶり。 片や桐生はわずかな応援で淋しい限り。
          途中から、外野席で関係のないオッサンが身振り面白く桐生の応援をはじめ、次第に三塁アルプス
          以外の数万の観衆が呼応しての盛り上がり。 外野の壁に登ったオッサンに、場内アナウンスが
          「桐生の応援団長さん、落ちないようにお気をつけください」 と言っているうちに、オッサンは
          ラッキーゾーンに転落するなど大騒ぎとなって愉快。
          野球には、いつだってこうした面白い種類の人間がつきまとう。

     住み始めた 1974年当時は、甲子園筋に路面電車が走っていましたが、それも翌年には廃線となりました。
     阪神電車の甲子園駅舎も、現在工事中ですっかり様変わりしました。 
     スタジアムそのものも外壁の大改修で蔦に覆われた姿を取り戻すのはだいぶ先になりそうです。

 以前の秋の蔦風景(一塁スタンド側)2009年のリニューアル工事        現在の一塁スタンド側外壁     


   ● 定住のきっかけ

     西宮に住み始めたのは、本社から神戸支店に転勤となったためです。 古い2DKの社宅に親子4人で入居
     したのでした。 ちょうどセンバツ高校野球の頃で、社宅の子どもに誘われて、子どもと女房は初めての甲子
     園観戦をしたのです。 地元:報徳学園 と 徳島:池田高校との優勝戦 でした。
     報徳学園が初優勝を飾ったこの試合が、3人の甲子園観戦のデビューだったということです。

          西宮の前は、横浜市磯子区の社宅住まいでしたが、この時も、1973年のセンバツ優勝校
          当時の地元:横浜高校で、わが家の3人は、その優勝パレードを見たという因縁がありました。

     神戸支店勤務は2年間で、本社に戻ると思いこんでいた私でしたが、ちょうど電話料金の改定(市内通話7円
     →10円)を前にしていた時期で、関西支社の部長が私にその仕事をさせたいという意向から、関西勤務を
     続けることになりました。

     それがきっかけで狭い社宅から適当な集合住宅に移りたいという希望を女房が持つようになり、
     社宅のすぐ近くで建設中の物件を見に行き、すっかり気に入って申し込んだのが、甲子園に棲みつくきっかけ
     となったのでした。 件の支社の部長は驚いた様子でしたが、女房のこの決断が 「終の棲家」 を決定づけた
     ということになります。 本社から関西勤務をしている同僚達の話によると、本人は関西勤務を楽しんでいても、
     関東方面出身の奥様が関西の気風になじめないケースが結構あったようです。

     女房は東京生まれの東京育ちですが、すっかり西宮での生活になじみ、7人兄弟でひとりだけの関西暮らしで
     あったにもかかわらず、終の棲家をこの地とすることに抵抗はなかったようです。
     ひとつには、甲子園カトリック教会での婦人会の方々との交流が心地よかったという要素も多分にあった
     のではないかと推測します。

     1977年、それまでの社宅から目と鼻の先の今の場所に引っ越し、38年が経ちました。 女房は今でも関西弁は
     ほとんど使えませんが、この地での生活をエンジョイしているようです。

     当時小学生だった子どもたちは、校区の境界線をまたいでの転居で転校しましたが、社宅の真ん前の小学校
     から、徒歩10分ほどの通学に変わり、『みちぐさ』 の愉しみを初めて味わって喜んでいました。
     なにしろ、前の社宅の窓からは長女の教室が丸見えで、あまりにも近すぎる学校生活にいささか当惑していた
     様子だったのです。

     子どもたちにとって、西宮市の小学校の思い出は何といっても 『甲子園球場』 での 連合体育大会 だった
     ろうと推測します。
     現在はどうか知りませんが、当時は高学年になると、秋に市内小学校の連合体育大会で、あのグラウンドに
     立つことができたのです。 私は見学する機会を持てていませんが、西宮市の小学生にとっては他に類のない
     思い出になっていることと思います。


   ● 球場近くの 《 神社 》 と 《 教会 》

     球場の南西に隣接するのは、素戔嗚すさのを神社です。 まるでタイガース神社のような雰囲気です。
     試合開始時刻よりちょっと早めに来て、参拝なさるのも一興でしょう。



     神社から更に南西方向に徒歩3分ほどのところに、甲子園カトリック教会があります。
     タイガース往年の名投手バッキー選手が、ご家族と一緒に通っていた教会です。
     2階の聖堂には、バッキー選手の寄進による『十字架の道行』という14枚の宗教画が掲げられています。

     YouTube にアップした映像がありますので、ご参考までに ・・・・ 下の写真をクリック。






今週の言い得て
   妙!  
  西宮市は、東は尼崎市と、西は芦屋市に接しています。
  いずれも兵庫県ですが、尼崎はほぼ大阪圏といえる雰囲気。
  電話の市外局番も大阪と同じ (06) です。

  一方の芦屋は、言わずと知れた高級感あふれた街。

  友人の Aさんは、西宮市をこう評しています。

     アマにはなりたくない、
     芦屋にはなれない   ・・・   中途半端な西宮市。


  ちなみに Aさんは、大の高校野球マニアで、定年退職後、
  東京から西宮に移住したという 《甲子園ファン》 です。




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