マザー・テレサの瞳は 時に 猛禽類のように鋭く怖いようだった マザー・テレサの瞳は 時に やさしさの極北を示してもいた 二つの異なるものが融けあって 妖しい光を湛えていた 静かなる狂とでも呼びたいもの 静かなる狂なくして インドでの徒労に近い献身が果せただろうか マザー・テレサの瞳は クリスチャンでもない私のどこかに棲みついて じっとこちらを凝視したり またたいたりして 中途半端なやさしさを撃ってくる! 鷹の眼は見抜いた 日本は貧しい国であると 慈愛の眼は救いあげた 垢だらけの瀕死の病人を ――なぜこんなことをしてくれるのですか ――あなたを愛しているからですよ 愛しているという一語の錨のような重たさ 自分を無にすることができれば かくも豊饒なものがなだれこむのか さらに無限に豊饒なものを溢れさせることができるのか こちらは逆立ちしてもできっこないので 呆然となる たった二枚のサリーを洗いつつ 取っかえ引っかえ着て 顔には深い皺を刻み 背丈は縮んでしまったけれど 八十六歳の老女はまたなく美しかった 二十世紀の逆説を生き抜いた生涯 外科手術の必要な者に ただ繃帯を巻いて歩いただけと批判する人は 知らないのだ 瀕死の病人をひたすら撫でさするだけの 慰藉の意味を 死にゆくひとのかたわらにただ寄り添って 手を握りつづけることの意味を ――言葉が多すぎます といって一九九七年 その人は去った |
これまでのオペラ紹介で、日本を舞台にしたものは 「蝶々夫人」 がありましたが、日本人作曲家による作品は 皆無でした。 このシリーズの最後に、日本のオペラ 「夕鶴」 を取り上げることにしました。 鑑賞したのは、1993/11/26 ザ・カレッジ・オペラハウスでの公演です。 「日本オペラシリーズその1」 と銘打ったこのシリーズ、後続公演の鑑賞はしていませんので詳細不明です。 指揮 : 團 伊玖磨、 演出 : 鈴木 敬介、 ザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団 歌い手は、田中千恵子(つう)、林誠(与ひょう)、井上敏典(運ず)、田中勉(惣ど)という 関西ではよく知られた面々。 ![]() 脚本がしっかりとしており、演出が心憎い。 とても40年前の作品とは思えない新鮮さ。 とはいえ、現時点での上演としては、少々長すぎる感が否めない。 それと、できれば重唱の魅力を 聞かせるシーンが欲しかったと思う。 とは言え、トータルには 二重丸 の上演だった。 作品そのものには、ずいぶん勝手な注文をつけていますが、よい作品・よい上演であったことは 間違いありません。 私はこれ以外に、日本人作曲家によるオペラを鑑賞する機会は持っておりません。 オペラと聞くと、敷居が高いと感じる方が多いのが現状かと思います。 言葉の壁というのもありますし、何よりも演奏時間が通常のコンサートよりも長い。 しかし、舞台の上で歌手が動き、しばしば大勢の出演者による合唱(や、時にはバレー)が入るなど、 その艶やかさは格別で、文字通りにクラシック演奏会の 『華』 そのものなのです。 最後に、今回のシリーズで取り上げなかった作品の鑑賞リストを記して、終わりといたします。 オペラ鑑賞が私にとって大変興味深いものであったことがお分かりいただけるかと思います。
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長生きが 幸せだったと 言いきれず 奈良・御所市 中村宗一さん 7/10 毎日新聞 近藤流健康川柳 |