《 憲法改正 》
毎日新聞の特集では、最後に改憲をめぐる話題が扱われています。
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・ GHQは憲法制定過程で、大日本帝国憲法(明治憲法)の改正はあくまで日本側の自発的な
取り組みだという建前をとっていた。 民間有識者による憲法研究会(45年末に発表)が
「公布後遅くも十年以内に国民投票による新憲法の制定をすべし」 という補則を設けていた
ように、占領下の憲法改正を暫定的と考える向きは当初からあった。
・ 憲法公布直後の46年10月17日、極東委員会は「憲法施行から1〜2年の間に国会で再検討
されねばならない」 と政策決定した。 米国主導の憲法制定に、ソ連などほかのメンバー
国が不満を抱いていたためだ。
この方針のもと 48年8月、芦田内閣の鈴木義男法務総裁(現在の法相)は衆参両院議長に
研究会設置を申し入れたが、国会は消極的で実現しなかった。
しかも、芦田の後を受けた吉田茂首相は「憲法改正の意思はまったくない」と明言し、
軽武装、経済成長重視路線で長期政権を築いた。
・ 1954年3月12日、当時の首相官邸で開かれた自由党憲法調査会の発会式で、岸信介会長は
日本国憲法の全面改正を訴えた。 岸は、GHQの占領政策に強い疑問を持っていた。
吉田に不満を持つ鳩山一郎や岸は自由党を飛び出して日本民主党を結成。
吉田内閣退陣後の55年11月、両党の「保守合同」で自由民主党が誕生し、首相の鳩山が
初代総裁に就任した。 自民党は「党の政策」に「現行憲法の自主的改正」を掲げ、今に
至るまで党是にしている。
・ しかし、56年参院選では、社会党など革新政党が改憲反対を正面から訴え、参院で改憲の
発議を阻止できる 「3分の1」 以上の議席を占めることになった。
岸は60年の日米安保条約改定で政権の体力を使い果たし、改憲には着手できなかった。
・ 日本は50年代半ばから高度成長期に入り、60年代以降、改憲論議は下火に向かう。
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戦争放棄は、以上見てきたようにGHQ主導で憲法に取り込まれたものであるにも関わらず、あたかも
それは当時の日本国民が皆で話しあい、今後の日本の指針として成文化され、それを墨守することこそが
日本国憲法の本来の姿であるかのように多くの国民のメンタリティに受け取られました。
同様に、憲法を改正することなど決して手掛けてはならない聖域であるとの思い込みが、
これまた国民の思いの中に刷り込まれていったように思えてなりません。
いささか乱暴な言い方をすれば、日本人の思考停止を企てた人々がいたということ。
ケント・ギルバート氏は、GHQが戦後日本人に対して行った「ウォー・ギルト・インフォー
メーション・プログラム(WGIP)というマインドコントロール」のことを紹介しています。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150526-00000001-voice-bus_all
いったん決めた法律などを、ただひたすらに守り抜くのが「正義・公正」 なのでしょうか?
時代の動きに応じて、社会に不適合な課題に気づけば、憲法といえども改正するのが当然だという
発想が日本人から失われていることに、私は大いに疑問を抱きます。
改憲は、第9条に限られた問題ではありません。
すでにこのブログでも触れた『第24条』の問題 は、憲法制定当時には誰からも関心を持たれては
いなかったテーマかと思います。
まずはこういうところから、改憲を議論できる雰囲気が生み出されることを心から期待します。
先日、アイルランドでは世界で初めて国民投票で同性婚を認める憲法改正 が支持されました。
カトリックの強い国ですら、こういう動きが起こっているのです。 こういう世界の現実に
しっかり目を開いていくことを日本の護憲論者は拒んでいるようで実に残念です。
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