●宗教の 《狂気》 はどこから来る? どんな宗教でも、そこには、ある種の「狂気」や「脱日常」があります。 要するに、「普段」ないし「日常」とは違う次元を前提にするのが、宗教の特徴のひとつです。 厳しい大自然の中で、不安定な日々の暮らしを余儀なくされていた古代人にとっては、そこからの 脱却ないし平穏な日々への渇望は、恐ろしく強い「願望」であったに違いありません。 宗教は、基本的に苦しい日常からの「解放・解脱」への願望・渇望を前提にしているものです。 もちろん、そういう人類の渇望がよくないなどとは、決して言えない訳で、だからこそ宗教は、 世界中のどんな地域・あらゆる時代を通じて、脈々とその存在を永らえてきたのです。 そういう中にも、贅沢三昧な生活を楽しむ階層が存在していたことは確かで、彼らにとっては 宗教は自分自身に必要なものとは言えなかったはずです。 ただ、彼ら自身のためというよりは、 己が支配する他者(一般人)を操るツールとして、これが大いに役立つことには、容易に気づき 利用していたことでしょう。 つまり、宗教は、社会の底辺の大衆にとっても、また、そういう大衆を支配するエリートにとっても、 その役割は異なるものの、大いに期待を抱かせる魅力的な「方策・ツール」たり得たのです。 宗教は、根本的に「非日常・脱日常」であり、現実をまともに見つめることから、人々の目を そらせるという特性を持ったものです。 確かに、古代の人々にとって、それ以外に現状改善・向上の方策が見つけ出せないことから 宗教という「非日常」に、こころが向いてしまうことも止むを得ないことです。 しかし、その「現状を見つめる執念」の放棄は、結局のところ他人任せの、場合によっては 考えられないほどの「狂気」を許してしまうことになりかねないのです。 現代日本においては、オウム真理教におけるサリン事件などに、典型的な「狂気」の 様が見て取れます。 ●被害者は、やがて加害者に! 人類がそれぞれの地域で文化を開花させ、現状改善・暮らしの向上を少しずつであれ実現させる ことができるようになってくると、それまでの「宗教頼み」から、「現世・現実」を冷静に見つめる 目を持つ人々が、それまでとは異なる「視線・価値観」を持つことになります。 ヨーロッパでいえば、「大航海時代」と呼ばれるあの時代こそが、「現世・現実」を直視する時代へ の転換点であったと思います。 ただ、一挙にその切り替えができたとは言い難く、実際、西欧 諸国の海外進出(侵略)においては、植民地に己の「信仰・宗教」を押し付け、植民地支配の ツールにするなどの、蛮行を繰り返しているのです。
つまり、古代の支配階級が宗教を利用をしたように、今回は、先進国が植民地支配において、 同様に宗教を利用をしている訳で、「宗教」は、いつでも強者による弱者の支配の道具になって いるという 《事実・特性》 が見て取れます。 ●宗教をどう克服するか? 現代に生きる私たちは、もっと真剣に 「現世・現実」 を見つめることで、宗教という狂気から 己を解放することができるラッキーな時代に生きていると思うのです。 ここで大事なことは、単なる「反宗教」の気分ではなく、徹底的な「宗教の体験と、そこからの 脱却」です。 人は、克服すべき「宗教」を一先ず体験し、その体験を通じて「脱宗教」への手が かりを、自分の目線から見つけ出すことが大切なのです。 部外者としての目ではなく、「体験 者」としての目線から、『脱宗教』への確かな歩みを始めることで力を身につけるのです。 単なる「聞いた話」としてではなく、己が真正面から向き合った体験としての「宗教」を経ることで、 人類の長い歴史の中を生き続けてきた「宗教」という呪縛からの脱出・克服を、自ら実現させる ことが肝要なのだと考えます。 私の場合、宗教改革後の反プロテスタントに凝り固まった「近代カトリック教会」の中で、キリスト 教に出会い、それを「真理・正義」として受け容れていました。 この呪縛を脱出することには、 大きなきっかけが必要でした。 そのチャンスを与えてくれたのは、実は、カトリック教会自身 だったのです。 1960年代に開かれた『第二バチカン公会議』は、それまでの教会の考え方に 大きな転換を齎しました。 公会議の取りまとめた文書のうち、私に衝撃を与えたのは『現代世界憲章』です。 これがきっかけとなって、私は自分の信仰の再検証・総点検を、10年以上かけて行うことに なったのでした。 それが、今の私の 《脱キリスト教、脱宗教》 の心境を育んだのです。 そのあたりのことは、次のサイトでご覧いただければ幸いです。 http://ilovejesus.minibird.jp/endou_07.html ●イエスを生きた人々 第二バチカン公会議が明らかにした、新しい信仰の姿は、実はそれ以前から教会の中で ひっそりと息づいていたのです。 逆にいえば、第二バチカン公会議以降の時代にあっても、 なお、公会議が指し示している方向性をしっかりとは認識していない人々(聖職者を含めて)が 数多く存在します。 おそらく 100年単位で見ていかなくてはならない程のゆっくりとした動きでしかないのです。 私が尊敬する信仰の先達は、たとえば、次のような方々です。 アウシュヴィッツで、他の囚人の身代わりとなって餓死したコルベ神父。 東京の蟻の町で貧しい人々と生き・死んでいった北原玲子さん。 インドの貧しい人々・死にいく人々に寄り添ったマザー・テレサ。 こういう人々が目指したものは、宗教による他者の支配ではなく、むしろ、弱者に寄り添った イエスの生き方そのものの imitation (模倣・倣び)です。 遠藤周作の「深い河」に登場する 《落ちこぼれ神父》 もまた、そのような生き方を選び取って います。 作者は、彼を通して自らの信仰告白をしているのだと思います。 イエスに倣う生き方という、素朴な信仰は、宗教であるキリスト教とは、大きく違う方向性を 指し示しているのです。 イエスの生き方を追体験するということこそが、イエスの教えた 信仰者の姿だったというのが、私の今の《信仰観》です。 それは宗教としてのキリスト教とは ある場面では、真逆の方向を示す不思議なものなのです。 |
初めての海外旅行は、1986年秋、仕事でアメリカ合衆国を2週間ほどあちこち回りました。 最後に訪れたのがサンフランシスコで、ここでは少し自由な時間もとれましたので、急遽、オペラのチケットを 現地で手配し、このオペラを海外で初めて鑑賞したのでした。 オペラハウスでの第一印象は、華やかに着飾った人々が多く、日本でのオペラやコンサート会場とはずいぶん 異なり、若干気後れする思いをしたものでした。 それと、オペラハウスの前で、一般人と思われる複数の男性が、プログラムを販売しているのを見かけたの ですが、これも日本では信じがたい光景でした。
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今週のレクィエム : イスラム過激派に殺害された後藤さん、湯川さんのご冥福を祈って。 合掌。 |