3月 | 8日 | 火 | |
9日 | 水 | 文化の違い=差別? | |
10日 | 木 | 葬式の曲選び | |
11日 | 金 | 小節 『イエスの涙』 再読 | 3.11大震災追悼 |
12日 | 土 | ||
13日 | 日 | ||
14日 | 月 | ベルカントで歌う | |
15日 | 火 | 公民館パソコンおたすけ広場 | |
16日 | 水 | ||
17日 | 木 | センバツ甲子園練習 | |
18日 | 金 | 自転車賠償保険に加入 | |
19日 | 土 | ||
20日 | 日 | 高野連の Good idea ! | |
21日 | 月 | ||
22日 | 火 | センバツ観戦 & 甲子園歴史館 | |
23日 | 水 | ||
24日 | 木 | ||
25日 | 金 | ||
26日 | 土 | おおさか維新の改憲案 | |
27日 | 日 | 復活祭 | 自作の復活賛歌 |
28日 | 月 | ベルカントで歌う | |
29日 | 火 | ||
30日 | 水 | 今月の診療記録 | |
31日 | 木 | センバツ優勝戦 & 閉会式 | |
4月 | 1日 | 金 | |
2日 | 土 | ||
3日 | 日 | ||
4日 | 月 | ||
5日 | 火 | 公民館パソコンおたすけ広場 | |
6日 | 水 | 買い取りショップを初体験 | |
7日 | 木 |
最近、国連の委員会からの日本への批判・勧告がいやに目につきます。 日本こそが世界に冠たる ・・・ と誇る気はありませんが、ここまで細かな 指摘を連発されると、「一体、お前は何様なんだ?」と反発を覚えます。 夫婦別姓=正義 という発想には、大いに違和感を覚えます。 生まれ持った名前こそが、その人のアイデンティティであり、 それを変えることは人格の否定以外の何ものでもない ! と いわんばかりの委員会の主張は本当に正しいのでしょうか? そもそも「生まれ持った名前」というのが、それほどに絶対的・不可侵な ものとはとても思えません。 実際、日本では、幼名 → 元服後の名前 → 功なしてからの名前と変化していく事例が数多く見られます。 一例として、「竹千代」 → 「元信」 → 「家康」など。 姓においても、 家康は「松平」→「徳川」と変わっています。 これによってその人の アイデンティティが損なわれたとでも言いたいのでしょうか? こういう改名あるいは改姓の習慣は、それぞれの国・それぞれの時代が生み 出すものであり、異なる国・時代・文化の立場から、不正義だとか、不合理 だと難癖をつけられたり・批判されるようなテーマではないのです。 実際問題としても、私の周囲には結婚で奥さんの姓に変わった友人は 何人もいますし、夫の姓を名乗ることが、女性蔑視のシンボルである という批判はとんでもない的外れなものだと実感しています。 私は結婚では姓を変えていませんが、そもそも血筋という点でいえば、 生まれて此の方の姓は、まるで血のつながりのない《姓》です。 祖父の姓を受け継いでいますが、子宝に恵まれなかった祖父夫婦は、 私の母を幼い時期に養女に迎え、そこに婿をとり、私がさらにその姓を 受け継いだというストーリーなのです。 母も父も私も、この姓は社会的な アイデンティティという以外に何の意味もなく、素直に受け取っただけの ことです。 姓は、社会の中で「あるグループ・集団」の識別記号という意味をもつものでは ありますが、それにそれ以上の奇妙な意味を読み込むことはないと思います。 とすれば、姓という「社会生活上のマーク」でしかないものを、後生大事にする 必要などさらさらないことです。 それを一生保持することが「人権」そのものだ というのであれば、いっそ、生まれた時点に、国家などが付与する一連番号 (マイナンバー)で一生暮らすのがベストだということになりかねません。 (呼びやすい通称を、役所に登録可能にする ・・・ という余地を残したうえで)。 生まれた子供に親の名乗る「姓」がそのまま使われるのは、きわめて自然な ことです。 一家の中で、父と母が異なる姓を名乗り、子が知らないままに どちらかの姓を押しつけられる社会の方が、はるかに不自然だと私は思います。 この国連の委員会、その他にも結構 けったいなこと を決めたがっており、 日本の天皇制が男系男子に限られていることまでも、俎上に載せたとのこと。 結果的には、日本の抗議を受けて取り下げたとはいえ、やたら『他国の内情』に 無作法に手を突っ込む悪癖がある何ともおかしな組織です。 歴史や文化への認識が、時代とともに変化するのは当然ですが、「正義の味方」 ぶったこの委員会の姿勢には、鼻持ちならぬ思いを抱くのは私だけでしょうか? |
1) 発売当初、一般紙で2度「広告」を見ただけで、書評記事など目にしなかった。 2) 作者は外国人名を名乗っているが、どうも日本人ではないかと思われる。 3) カトリック教会の事情に詳しい内容であるにも関わらず、教会内で話題になっていない。 |
*十字架嫌悪シンドローム 小説のストーリーの追跡ではなく、扱っているテーマを中心に見るならば、 ここでの最大のテーマは、『十字架嫌悪シンドローム』 という現象の描写です。 キリスト教は初期の段階から「十字架上で死んだイエス」を崇めるという伝統を 持っていますが、それが(救いのシンボルとして)「十字架」そのものの尊崇に すり替わったと非難されても無理からぬほど、形としての「十字架」が表舞台に 出てきてしまうようになっている訳です。 そういう風潮へのアンチ・テーゼと して、「十字架嫌悪シンドローム」が取り上げられているのです。 |
*十字架は神の願いではなかった? 日本にも、このシンドロームを体験したシスターがいるというエピソードが紹介 されます。 彼女は何度もイエスと 《対面》 していて、ある時は、こんな対話を しているのです。 「どうしてあなたは今まで、このことをほかの聖人たちにはお語りになら なかったのですか?」 (p.188) 「私は同じことを伝えようとしてきたけれど、誰もそれを理解することが できなかったのだ。 なぜなら、啓示の内容は、啓示を受ける人々とそれを 解釈する人々が、私に対して持っているイメージや教義理解に大きく左右 されるからである」 (p.189) 「・・・ 父なる神がイスラエルの民を選民として選び、長い年月をかけて 教え導いてこられたのは、救い主である私を迫害し殺すためではなく、 信じ受け入れ一つになって神の国をこの世にもあの世にも建設するためで あった。 それなのに、十字架に磔にされて殺されることが神の願いであり、 それゆえ私の願いであると どうして言うことができるだろうか? しかし、 そのドグマの壁はあまりにも厚かった」 <途中省略> 「聖書は私自身が 書いたものではない。そこには私の言葉も入っているが、私の言葉でない ものも入っている。 聖書に書かれた内容にもすでに人間の解釈が入って いるのだ・・・」 (p.190) |
キリスト教の教義に馴染みのない方には、何を言っているのかちんぷんかんぷんの話 かと思います。 私が、仏教の話題に入っていけないのと同じで、当然のことです。 簡単に言えば、キリスト教の伝統的な「十字架上のイエスの死」の意味とは、 ・ 父である神の定めた計画であり ・ 人祖アダムとイヴ(が犯した罪)への罰からの救いに欠かせないもの ・ イエスを信じる人だけが、その救いに与かる(恩恵を受ける) というものです。 まあ、ある意味では相当に身勝手な主張(他宗教の否定ないし蔑視という意味で)な訳で キリスト教の鼻持ちならぬ伝統のひとつであることは否定できません。 ところが、救いのシンボルである「十字架」を嫌悪するという現象がキリスト教世界の 各地で報告された・・・となると、これは教会にとって看過できない重大事となる訳です。 |
今日のところは、こういう 『問題提起』 があったことの紹介だけに留めます。 しかし、フィクションであるこの小説の中に、キリスト教の歴史の垢を洗い落とし、 本来のイエスの教えと生きざまを(再)発見しようという大胆・斬新な試みが溢れて いるようなのです。 十字架が単なるアクセサリーとして首からぶら下がっている 日本において、さらには、教会の尖塔に十字架を掲げて何の違和感も抱かなく なっているキリスト教徒たちに対して、この小説が突き付けているテーマは、単に 奇をてらったというよりは、鋭い問題提起をしているのだと私は思っているのです。 |
3月23日 | 内科 | 血圧 128 - 68 、投薬(3種) | : 880円 |
1 件のみ | |||
合計 | 880円 |