JIJI と読むマルコ福音書  (8)
聖書引用は特記事項ない場合「新共同訳」

本文 1 : 35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
ひとりで祈るイエス 私は、福音書の中でこの「ひとりで祈るイエス」の場面を、イエス理解の最大のキーワードとして受け止めています。
これまで読んだいろいろな聖書解説の中に、そういう見解のものを発見したことはありませんが、私のキリスト教理解の一番大事なポイントですので、少しマルコ福音書の流れを離れてでも、私見をお話させていただきたいと思います。

イエスがたったひとりで祈る姿は、マルコ福音書では6章46節にも描かれています。
   6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、
        その間に御自分は群衆を解散させられた。
   6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。
   6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
ひとりで祈るイエスのことを、一番多く記しているのはルカ福音書です。
   5:15 しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり
        病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。
   5:16 だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。


   6:12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。
   6:13 朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。


   9:17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。
   9:18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。
        そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
ルカ9章の場面では、弟子たちも一緒にいたようですが、弟子たちはイエスの祈りには加わっておらず、少し離れていたと考えられます。

なぜ、イエスは弟子たちとともにではなく、ひとりで祈っていたのでしょうか?
これが私の抱く大きな疑問です。
ここでは私なりの解釈を記させていただきたいと思います。

キリスト教では、神に向かっての祈りのほかに、たとえば聖母マリアに「神へのとりなしを願って行う祈り」というようなタイプの祈りがあります。
しかし、イエスはユダヤ教の社会で生きたわけですから、当時の祈りは、神に向かっての祈り以外のものは考えられません。
だとすれば、「神の子イエス・キリスト」が「神に向かって祈った」ということになります。

福音書の中では、イエスが神に向かって「アッバ、父よ」と呼びかける場面がありますし、有名な「主の祈り」の冒頭は「天におられるわたしたちの父よ」です。
後者の場合、弟子たちが祈りを教えてくださいとイエスに願ったことに応えてのものですから、イエスご自身の祈りのことばとは言い切れません。
しかし、マルコ14章36節などにある「アッバ、父よ」という祈りのことばは、イエスが神に向かっておひとりで祈る場面のものですから、イエスと神との関係を理解する大事なキー・ワードになります。
三位一体の神 ユダヤ教やイスラム教と並んで、キリスト教は一神教だと言われています。
しかし、前の2つが分かりやすい一神教であるのに比べ、キリスト教の神は三位一体の神だと説明されるので、神理解という面では分かりづらさが否めません。
実際、三位一体の教義が確立するまでには、多くの神学論争があり、大規模な教会会議で議論が繰り返されました。

三位の「位」ということばは、ラテン語でペルソナ、英語では person に相当します。つまり「人物」。もちろん神と人とは違いますので、日本の教会では「位格」という用語をあてています。
乱暴な言い方をすれば、神はお一方であるが、3つの「人格」ともいうべきものを有しておられるということです。
人間なら「多重人格」ということでけげんな視線を浴びることになりましょうが、キリスト教の説明する神はそういうことになっています。
別の説明としては、神はお一方だが、3つの「お面」を持っていて、場面場面で使い分けられ、それぞれが別の姿で受け止められるとも言います。
いずれにしても、人間の側から見るとき、神には3つの顔があり、それは同じ「神」が使い分けている3つの「お面」だということになります。

3つの「顔、お面」は、「父、子、聖霊」と呼ばれ、イエスは第二のペルソナ「子である神」ということになります。
イエスが祈りの中で、「アッバ、父よ」と呼びかけたのは、第一のペルソナ「父である神」に対してです。
私はこのことから、父である神と、子であるイエスとの間には、ある種の緊張感が存在していると推測してしまうのです。
もしも、父と子とが「ツーカーの仲、完全な意見一致の関係」であれば、イエスはわざわざ「父との対話の時間」を持つ必要はなかったのではないか。「以心伝心」イエスは、常に父なる神のすべてを手に取るように承知していたはずだと思うのです。
ところが、イエスと父である神との間に、何らかの緊張関係が存在していたとすれば、イエスが弟子たちと一緒にではなく、あえてひとりで祈っていたことも納得がいきます。
父と子との関係は、神のレベルでのことですから、そこに人間である弟子たちの入り込む余地は皆無です。
イエスは、父である神とは、明らかに「異なる意見、発想、アイディア」を有しておられたと私は考えます。
だからこそ、父である神との「意見のぶっつけあい、すりあわせ」を必要としたのではないでしょうか。
私は、ひとりで祈るイエスの姿から、こういうイメージを読みとっています。

私の「三位一体の神」理解(三一神理解)に関しては、 別の個所 にまとめてあります。

このマルコ福音書を読み進める中でも、これから、そういう私の神理解が時々出てくることになりますので、ご承知おき下さるようにお願いいたします。


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