JIJI と読むマルコ福音書  (9)
聖書引用は特記事項ない場合「新共同訳」

本文 1 : 36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、
1 : 37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
1 : 38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
1 : 39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
活動の広がり この個所に関しては、特段の考察は必要なさそうです。
カファルナウムで宣教を始めたイエスの評判は、周囲の町や村に広がり、近隣の町や村からイエスの話を聞いたり、癒しを求めてやってくる人の数も増えていたのでしょう。
そうしたニーズに応えるためにも、イエスはカファルナウムの周辺、ガリラヤ地方のあちこちの町や村に、自ら足を運んだということです。

ここではイエスの行動が、単なる「教えを語る」ことにとどまらず、病気の癒しや悪霊を追い出すといった「業」を伴っていたことに注意を払いたいと思います。
イエスにとって「宣教」とは、「ことば」と「業」を併せ持つものであったということです。

本文 1 : 40 さて、らい病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
1 : 41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
1 : 42 たちまちらい病は去り、その人は清くなった。
1 : 43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
1 : 44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
1 : 45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
皮膚病の人の癒し 手許の新共同訳では、「らい病」と訳されていますが、最近の訳では「重い皮膚病」となっていることが多いようです。
映画「ベン・ハー」でも描かれていましたが、当時、この病気の人は社会の中で生活することが許されず、町はずれの荒地などに住まざるを得ない厳しい状況に置かれていました。
したがって、この人々にとっては「病気からの回復」は、単なる身体的な癒しである以上に、社会生活への復帰という意味を持っていたのです。

イエスのもとを訪れたこの人が、どんな期待を抱いていたかは十分に推し量ることのできるところです。
だからこそ、イエスはこころを打たれて手を差し伸べたのです。
「深く憐れんで」と訳されていることばは、佐藤研訳の注解によると、
         原語 (splanchnizomai) は「内臓」、すなわち腸や肝臓・腎臓などを指す名詞 (splanchnon) に由来する。
         内臓は人間の感情の座と見なされていたため、同語は「憐れみ、愛」などの意に転化、それが動詞化した。
ということだそうです。
それで佐藤研訳ではこの個所を「腸(はらわた)がちぎれる思いに駆られ」と訳しています。
社会からの隔離という律法の定めを破ってまで、必死の願いをもってイエスの前に現れたこの人を見て、イエスもまた必死の思いでこの人の手を取って言うのです。
「よろしい、清くなれ」
当時の社会では、病は罪の結果だと考えがちでしたから、「清くなれ」という言葉は、「病気からの回復」であると同時に「罪の穢れから清められる」ことを意味していたということです。

イエスは、その人を去らせるに当たって「口外無用」と釘を刺します。これが何を意味するかは解釈の難しいところです。
先ほども書いたように、当時の社会では、この病気の人が社会の中で自由に行動することは許されていなかったのです。
また、一般の人々が、その人たちに「触れる」ことも「穢れ」として禁じられていたのです。
そして、その病気から回復したときは、律法にしたがって「回復の証明」を祭司のところで確認してもらう必要がありました。(レビ記 14章参照)
それで、イエスは、癒しがどうして起こったかの口外を禁じ、ただ、その人が社会復帰の手続きをするよう命じたのでしょう。
加えて、私は個人的には、イエスはこのような律法に定める「事柄」に関わることを望んでいなかったのではないかと推測します。
つまり、目の前の病人に真剣に関わることこそがイエスの関心事であって、この病気のような律法と関わる場面にのめり込むことは望んでいなかった。
イエスの関心事は、あくまでも目の前の「人々、ひとりひとり」であり、律法という古くからのルールに関わることは本意ではなかったと考えるのです。

ところが、癒されたその人は、イエスの意図とは反して、この癒しの業を言い広めます。
嬉しくて嬉しくて仕方なかった様子が、よく伺えるところだと思います。


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