苦しみを通して


「聖書と典礼」 2014/ 3/ 2 号に、哲学者 岩田靖夫氏の文章が掲載されています。


     間もなく、東日本大震災の三回目の記念日が来る。このとこについて、三つの基本的な     
     理解を持たねばならないだろう

     第一点。これは自然災害である。自然災害とは、宇宙の137億年の進化展開において、
     その運動を、一貫して動かしている物理的法則の結果である、ということだ。
     銀河系も太陽系も大爆発による生成消滅のプロセスのうちにあるように・・・<途中省略>
     大地震も大津波も、これまでも、これからも、何千回となく起こり続ける。それが、必然の
     秩序だからである。


   ずいぶん冷めた見方だと感じる人が多いことでしょうが、まぎれもない事実です。
   宗教は、しばしば 「神仏に、災いをなくし、豊穣をもたらしてくれるよう祈ること」を人々に
   教えてきましたが、祈りや捧げものによって、宇宙の物理的法則が、人の思いのままに、
   自分に都合よく 『僥倖』 を齎すなどということは決してない・・・ということは経験則からも
   明らかなことです。
   私は、岩田氏のいうこのことを、 What is to be will be. という言葉で自分なりに理解し
   自分のものの考え方の一番ベースに据えてきました。

   もちろん、人間が過酷な環境の中で、苦しみの中から神仏に縋りたくなる事情はよく分かります。   
   それを冷やかに否定することはしません。 しかし、それは弱り切った人のこころを、しばし
   慰める営みにはなっても、決して実現するものとはいえないという『過酷な事実』には
   変わりがないのです。

   宗教は、これまであまりにも、この人間の苦しみを「神仏への祈りでまぎらわす」ことに
   熱中し過ぎていたといっても差し支えないでしょう。
   そうするしかなかった・・・という過去の営みは分かりますが、もっと他の方法を探る営みも
   必要なのではありませんか。

   岩田氏は、それをきっぱりと指摘しているのだと思います。


     第二点。 では、何故、ある人々が偶然この大災害に巻き込まれて非業の死を遂げ、      
     他の人々はそれを免れて生き延びるのか。 この怖ろしい問いを、日本人の一少女が
     前ローマ教皇ベネディクト16世に問うた。 教皇は「分かりません」と答えた。
     ・・・<途中省略>・・・人間には、この「何故」は絶対に分からないのである。
     ただ、ここで、一つ自覚しておくべきことがある。 それは、人間は必ず死ぬ、という
     ことである。 生命が贈られたものである以上、いつか、贈り主の許に引き取られる
     ことに、驚くいわれはない。


   正直なところ、私には、岩田氏ほどの悟りの境地は受け入れがたいのですが、
   それでも、ヨブ記の「主は与え、主は取り給う」という言葉は、受け入れざるを
   得ないとの諦観ないし観念は、若い時期から持っています。


     第三点。 それでは、人はどう生きるべきか。
     あの大震災の時、すべてを奪われて裸一貫になった人々は、助けを呼び合い、手をつなぎ、
     心をつなぎ、生き延びた。・・・<途中省略>
     苦しむ人に偶然出会った時、我を忘れて駆け寄り、傷の手当てをする。
     それが人間性の現われであり、そこには神の栄光が輝く。
     人生は苦しみに充ちている。 その苦しみを介して、人と人は愛(共苦)を体験する。
     ・・・<途中省略>・・・
     人間は苦しむ他者に偶然遭遇した時、自己を超えたところから襲来する衝撃として体験する。  
     神の働きが人間の手足の活動となる。


   岩田氏のいう「自己を超えたところから襲来する衝動」こそが、「神の働き・神の愛」とでも呼ぶもの
   だとすれば、私たちの「神体験」は、至福の中ではなく、むしろ「苦難や不幸」の中でこそ実現すると
   いうことになります。 これは、従来の宗教ないし信仰が教えていたところとは、真逆の方向です。

   だとすると、ベネディクト16世は、「生き残った人々は、神の働き手として、周囲の人々に駆け寄る
   仕事をするために選ばれたのです」と答えることができたのかもしれません。

   人が今そこに存在するのは、神の働き手として、周囲の人々に駆け寄るためだという理解にたてば、
   私たちは、それまでとはずいぶん違った生き方を見出すことになりそうです。

   すなわち、私たちは神に、苦難や不幸からの救済を祈り求めるという古来からの宗教的信仰を
   するのではなく、むしろ苦難や不幸の中で、周囲の人々に目を向け、我を忘れて駆け寄るという
   別の生き方が見えてくるということになります。



人間的な感性からいえば、ずいぶん辛い世界観ですが、実にイエス様の姿は、それをはっきりと示した一生
だったと考えることができます。
私は、このサイトのタイトルを「イエスという生き方」とし、イエス様が教えてくださったことの項で、イエス様の
教えのポイントを「神は人を差別なさらない」と「目の前のひとりとかかわる生き方」だと整理しました。
今回の岩田氏の文章を読み、同じようなイエス理解をなさる方を発見し、心躍る思いがしました。

神に何かを祈り求めたり、神に気に入られるにはどうすればよいか・・・に心迷わすのではなく、私たちの心に
響いてくる「神からの衝撃」に素直に耳を傾け、躊躇なく周囲の人々に駆け寄る生き方をこそ、己の信仰の
中心にしっかりと据える覚悟をしたいものだと、あらためて気づいたのでした。


    以上のような理解は、自然災害など、物理的な現象とその原因に関しては素直に受け取れる      
    ことですが、例えば「地下鉄サリン事件」や、「アウシュビッツの大虐殺」など、純粋に人為的に
    引き起こされた事態に関して、同じような受け止め方ができるかどうか?
    ある人物の「狂気」としかいいようのない指導のもとで引き起こされるこれらの事態を
    神のご計画の一環であると受け止めることは困難です。
    人が作り出す不条理をどう受け止めるかの難問への苦悩はまだまだ続き、どの宗教も「解」を
    示せてはいないのです。



2014/3/17

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