11.24

  日曜日、告解・聖体拝領。
  夜、弟とブラスバンドの演奏会。 とにかく、こいつにはこれから苦労をかけるが、
  頑張って貰いたいと思う。
  夜の船で四国へ。 疲れていて、すぐに寝ついてしまう。

  父の実家を訪ねるため、夜の船便でひとり四国に向かい   
  ました。
11.25

  四国は、何とも田舎だった。 段々畑の岬に囲まれた美しい入江。
  たしかに、夏にでも来れば楽しく過ごせそうなところだ。
  父のことは、申し訳ないが、ここにお願いするほかはない。
  ばあちゃんは、ママンが死ぬ数日前に、もしもの時は、四国に頼めと言ったというが、
  ぼくにはそれは信じられない―――――
  いずれ弟・妹をぼくが引きとるという事態になるだろうと思う。
  弟が高校を出るまでの3〜4年間の辛抱だ。 別々に過ごすことになるが、できるところまで  
  頑張ってみたい。
  経済的には、ぼくが二か所に送金する決心をしてる。

  弟・妹は毎年のように四国の父の実家に遊びにいって
  いましたが、私には初めての訪問でした。
  とにかく、当面は「九州」「四国」「東京」でそれぞれ
  暮らし、弟の高校卒業後は、私が別府の三人を引きとる
  決心でした。
  父を引きとることは難しいことでした。 母の再婚相手
  である父とは、私も祖母も親しみを覚えることが出来な
  いままに、この17年間を過ごしてきていたからです。
  祖母のいう「母の遺言」は、もしかすると祖母の一世
  一代の大芝居だったのでは?という気がするのでした。
11.26

  26日に八幡浜に立ち寄り、松山経由、関西汽船に乗りこむ。
  海はずいぶん荒れている。 しかし平気だ。
  それにしても、今朝の岬の南岸沿いの海は美しかった。 九州の方まで見渡せて・・・・

  八幡浜には、父の姉さんが住んでおり、何か問題トラブルがある
  たびに、別府に足を運んでくれていました。
  父はこの長姉だけには頭が上がらなかったようです。
  私もこのおばさんには親しみを覚えていたのです。
  体調を崩して葬儀には来られなかったので、立ち寄って
  報告をさせてもらったのでした。
11.27

  27日、神戸より国鉄で、晴れて美しい東海道線を東上する。
  全く美しい富士が見られる。 この旅ももう終わりだ。 疲れた。
  そして東京に戻ることで、全く安堵の感を深くする。 ぼくには、もはや別府には戻るところ
  がないのだ。
  仕事がぼくを必要としているとかどうとかより、むしろぼくの方で、仕事に愛着を感じすぎて
  いるようだった。 一応、このまま頑張ってみよう!

  11日ぶりに寮に戻り、この間のことを記し始める。
  
11.28

  みんなは、淋しくなっただろうと言う。 しかし、今のところそんな気分はしない。
  そんな暇がないのだ。 東京へ戻っても忙しいのだ。
  死者のための涙は、もうこれ以上、流すことはない。
  もちろん、ママンにはもう少し生きていて欲しかった。 こんなことになるとは、
  全くぼくの最も恐れていた事態だ。
  しかし、すべては御旨のままに! そして、ぼくはぼくなりに頑張りたい。

  この日は、本社へのお礼のあいさつ回りと、その後、
  通研で同様にあいさつ回りをしたのでした。 
  編集ルーチンのテストで8時半まで超過勤務。
11.29

  通研、一括関係のフローチャート作成で、9時半まで
  超過勤務。
11.30

  今日、30日、国立音大に退学届を出して校舎を去る。 これは一寸辛いことだった。
  しかし、「見上げてごらん夜の星を」だ!
  明日からの生活を、やはりぼくらしいものに作り上げていかねばと思う。
  みんなも、ずいぶん心配してくれた。 決して、クヨクヨ・メソメソなんか、しやしない。

  主、与え。 主、取り給う。 主の御名は、誉むべき哉。  Amen.

  慌ただしく、二週間が過ぎました。 とにかく自分が
  処理しなければ、どうにもならない。 そういう責任
  感が、私を駆り立てていたのです。
  こうして、私は、祖母・弟・妹、そして四国に移った
  父を経済的に支える生活を、背負ったのです。
  28歳の秋でした。

  ヨブ記:1章21節(新共同訳聖書)
    わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。
    主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。


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