☆ 8月第2週 ☆    2015/08/06 〜 08/12


 不思議な福音書 B : もうひとつの『翻訳』をめぐる なぞ


今回は、マルコ14章41節の 『翻訳』 を巡るちょっと難儀な話題です。


   まず、新共同訳の当該個所の前後を見てみましょう。

   14 : 40  再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。 ひどく眠かったのである。
         彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。
   14 : 41  イエスは三度目に戻って来て言われた。 「あなたがたはまだ眠っている。
         休んでいる。 もうこれでいい。  時が来た。  人の子は罪人たちの手に引き渡される。
   14 : 42  立て、行こう。 見よ、わたしを裏切る者が来た。

   ここで注目したいのは、41節の 『 もうこれでいい 』 というフレーズの部分です。


   ● ラゲ訳 : カトリックの古い翻訳聖書(初版発行 明治43年)

    三度目に来たりて彼らに曰ひけるは、今は早眠りて息め、事足れり、時は来たれり、
    今や人の子罪人の手に付されんとす、

   ● 日本国際ギデオン協会 頒布版 : プロテスタント系のもの(1954年 日本聖書協会)

    三度目にきて言われた。 「まだ眠っているのか、休んでいるのか。 もうそれでよかろう
    時がきた。 見よ、人の子は罪人らの手に渡されるのだ。

   ● バルバロ訳 : カトリックの口語体翻訳聖書(初版発行 1964年)

    イエズスは、三度目にかえってきたとき、「もう眠って休むがよい。 もうよい!
    時は来た! 人の子は罪人たちの手にわたされるのだ。

           カトリックでは、従来、イエスをイエズスとしていました。
             また、脚注に「もう終わりだ」「すんだことだ」という意味だと記してあります。


   ● リビング・バイブル : いのちのことば社(1975年)

    イエスは三度目に戻って来て言われました。 「まだ眠っているのか。 それだけ眠れば
    たくさんだろう。 さあ、時が来た。 いよいよ、わたしは悪人どもの手に売り渡されるのだ。

   ● 共同訳 : 日本における初めてのカトリック・プロテスタント共同訳(1978年)

    イエススは三度目に戻って来て言った。 『まだ眠っているのか。 休んでいるのか。
    もうこれでいい。 時が来た。 さあ、(人の子)は罪人たちの手に引き渡される。

           共同訳では、イエスをイエススと表記していました。

   ● フランシスコ会訳 : カトリックの口語体訳聖書(初版発行 1979年)

    イエズスは三度目にもどって来たとき、仰せになった。 「もう眠って休みなさい。 終わった
    時は来た。 さあ、人の子は罪びとらの手に渡される。

   ● 佐藤研訳 : 岩波版新約聖書翻訳委員会(1995年)

    そこで彼は、三度目にやって来て、彼らに言う、「なお眠っているのか、まだ休んでいるのか。
    事は決した。 時は来た。 見よ、人の子は罪びとらの手に渡される。

           脚注に「厳密な意味は不明だが、元来は商業の取引の妥結を示す
             言葉なので、こう訳した。 神との間に決定された、の意」 とあります。


   ● 田川建三訳 : 作品社刊(2008年)

    そして三度来て、彼らに言う。 「あとは眠って、休むがよい。 〔目標は〕遠い。
    時が来た。 見よ、人の子は罪人らの手に引き渡される。



   ざっと一瞥しても、3つのタイプ + 第4の見解が見えてきます。

   1.「事足れり」「もうそれでよかろう」「もうよい」「もうこれでいい」のグループ

     田川建三は注解の中で、以下のように書いています。

        従来の多くの訳は、ヴルガータにならって、「もう十分である」 と 「訳」 している。
        しかし apechei という単語にそういう意味を読み込むのはとても無理。
        意味が通じないから、誤魔化して適当に 「訳」 をでっち上げたにすぎない。
        ヴルガータは古代の訳だから、時々、原文の意味がわからないような時には、
        その種の作文的 「訳」 をやるのもいたし方ないが、それをそのまま真似する
        ようではいけない。
        ルターはともかく、十九世紀末頃からこの種の語に関する研究はずいぶんと
        進んだのだから、現代の一部のドイツ語注解書、RSVやその英語をそのまま
        訳した口語訳、それを継承した新共同訳など、不勉強だと言われても仕方が
        あるまい。

        この語、単語本来の意味は、他動詞ならば 「〜から離して持つ」 だから、
        普通は「切り離す」 の意味に用いる。 あるいは自動詞にも用いて、その場合は
        「離れている」「遠くにある」。  ・・・  (途中省略)   ・・・

        従って、どこをどう突ついても、「それでよい」 などという意味が出て来るわけがない。

   2.「それだけ眠れば、たくさんだろう」(リビング・バイブル)

     これがとんでもなくいい加減な訳であることは、素人目にも明らかです。 ただ、学問的な
     立場を離れ、素直に読める文章という視点からは、一番分かり易いとも言えますね。(^_^);

   3.「終わった」「事は決した」のグループ

     フランシスコ会訳には、特段の注記がありません。
     一方、佐藤研訳の注には、「厳密な意味は不明瞭だが、元来は商業の取引の妥結を示す
     言葉なので、こう訳した。 イエスの受難死が、神との間に決定されたの意。」 とあります。

     もし神とイエスとの間での「決定・結論」というのであれば、それは 「交渉の終結・終わり」
     と受け取ることもできるかと・・・

   4.「 [目標は] 遠い」(田川訳)

     上記の佐藤研訳の脚注に関して、田川は次のように記しています。

         これは「商取引の妥結」ではなく、単に領収書の書式(「確かに領収しました」)に
         すぎない。  従ってそこから出て来る デ・ツヴァーン、ダイスマンの仮説は、
         右のようなものでしかない。 (中略) 主語をどう解するにせよ自動詞である
         ことに間違いはないのだから、「離れている、遠くある」 という意味しか考えられ
         ない。 とすれば、通じようと通じまいと、そう訳すしかない。 (中略) あるいは
         エヴァンズのように これも疑問文のように読んで、「事は遠い(とでもいうのか)」
         と解する。 (以下、略)

     学者ではない一般読者にとって、かように面倒な議論をしなくてはならない 『福音書』 の
     文章は、とても、ありがた〜い ものとは思えないというのが、正直な気持ちでしょう。



   以上のようなことで、この 41節 に関しては、正しい「翻訳」が出来かねるというのが聖書学者の
   本音らしいのです。 田川さんは 「だから通じようと通じまいと、そう訳すしかない」 と正直な
   姿勢を見せているのです。
   ただ、教会の立場からは 「通じようと通じまいと・・・」 という姿勢はとても採用しがたいスタンス
   であるに違いありません。 聖書がそんな 『訳の分からぬ ・ けったいな内容』 というのでは、
   信者に対して申し開きができない。 ならば、全体の流れの中で、まあ、そこそこつじつまのあう
   翻訳
で、お茶を濁すしかあるまい ・・・

   聖書の翻訳文に、実はこういう杜撰さがあったなど、ちっとも知らなかった ・・・ と一般の読者は
   あらためて びっくり仰天! というのが、聖書翻訳の実際の姿のようなのです。

   私は、しかし思うのです。
   「だから、聖書は信用できない。 キリスト教など信じられない」 という短絡的な考えを持つことは
   すまい ・・・ と。

   イエスの教えを伝える 『教会』 が、すべてにおいて完全無欠だという前提をおくことこそが、
   むしろ非現実的であり、人間の営み・歴史というものが、100% 完璧なものであるべきだなどと
   思い込むこと自体が、すでに 『非現実』 な姿勢なのだと思います。
   つまり、聖書を無条件に完全なものと思いこむことが誤謬であるように、聖書は完璧でなければ
   ならないという前提を置くことも、同様に正しくはないということ。

   一人ひとりが、いろいろなタイプの 『翻訳』 されたメッセージから、何を読み取ろうとしているのか?    
   を、 己の責任と知識を前提に、選び取ることが必要なのです。
   そういう意味で、聖書の勉強とか、キリスト教の受容には、他人任せではない、それぞれの人の
   意識と知恵とが必要とされているのだと思います。

   私とは、違う意見の方々もいらっしゃると思います。 ただ、自分の考えだけが正しく、それ以外は
   間違いだという 依怙地 な姿勢だけは、とらないようにしたいものです。
   それぞれの人が、その人の 『感性・知性』 をベースに、聖書を読み、キリスト教と向き合うことを、
   『信仰』 の基本・根っこに据えたいものだと思っています。






今週の甲子園     夏の高校野球大会が開幕。
  今年の話題は、やっぱり早稲田実業の清宮選手。
  どんな姿を甲子園で見せてくれるか? 期待の初戦は
  8日の対今治西。 タイムリー初ヒットで好発進!

  

  この写真、普段目にするアングルとは違って新鮮な感じ。
  ファウルグラウンドが狭いというのに初めて気づきました。



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