信仰の現場から

日本でキリスト教が普及しない理由の一つは、日本の教会が 日本の社会のしくみなどにあまり関心をよせないことがあるように 思います。

教会は世俗社会とは違うんだ! という「聖と俗」との峻別意識が、 日本の実社会の現実から目をそらさせているのです。

このページでは、そうした問題に目を向けてみます。

JIJI's 提言:日本における司牧への要望

甲子園教会で起こったこと

大阪大司教様との手紙のやりとり


  

* 日本における司牧への要望 (1999.1.11)

アジア特別シノドスにおいて、アジアのキリスト教について司教様方から多くの
提言があったそうですが、私は一人の平信徒の立場で、日本におけるカトリック
の司牧に関して要望を申しあげたいと思います。

それは、信徒である私は教義や霊性に関する司教様方のご指導に関しては、それ
を従順に受入れていますが、信仰の現場である私たちの日常生活に関しては、信
徒の立場からの提言があってもおかしくはないと考えるからです。

普段、私たち一般信徒は「現代の日本社会」で生きています。ミサに毎週与ると
して、その時間は 1/168 です。一方、日本社会で生きる時間は 167/168 です。
私たち一般信徒には 167/168 の方こそが、自分の信仰を本物に育て上げ・実行
していく真剣勝負の「場」だと考えています。
それだけに、一般信徒が信仰生活の現場から、現実に根ざした声をあげることは
決して無意味なことではないと思うわけです。

現場の小さな声ですが、どうぞ耳を傾けて下さるようお願いいたします。

1)教会は民主主義ではないというけれど
    '97.10.19 私の属する甲子園教会に大司教様がお見えになり、当時、甲子園
    教会に寝泊りしていたT神父の移動を発表されました。
    T神父は甲子園の主任司祭でも、助任司祭でもありませんが、小教区のメン
    バーに親しまれていました。
    数人の信徒から大司教様に残留のお願いをしましたが、大司教様は「教会は
    民主主義ではないので、たとえこの判断が間違っていても従ってもらいます」
    とおっしゃいました。
    そして、T神父は甲子園教会を去りました。

    司祭の移動が教区長の権限であり、信徒が関与するものでないことは承知し
    ています。これに対しては何の疑問も持ちません。

    ただ、この移動に関しては、2つの点でショックを受けました。

    @  T神父は大司教様に「1週間以内に自分で行き先を探して甲子園を出る
        ように」と言い渡されたという噂があります。
        そのためにT神父は受洗準備講座の求道者の方が怪訝に思うほど落込み、
        それが上記の噂の広がったきっかけだといいます。

        何が原因であったかは知りませんが、T神父は失意のうちに甲子園を去
        り、恒例のお別れお茶会も開かれることはありませんでした。

    A  私は「教皇の不謬性」を受け入れています。それは聖霊が教皇を正しく
        導き、教皇は誤ることがないという前提があるからです。

        大司教様は「たとえこの判断が間違っていても従ってもらいます」とお
        っしゃいましたが、私の理解では、そのような論理が通用するのはヤク
        ザ世界だけです。
        むしろ「私は高位聖職者で聖霊に満たされているから、あなたたち信徒
        よりも正しい判断ができるのだ」と言っていただくほうが納得できたの
        かもしれません。

    教義や霊性に関する教えの内容が、民主主義(そのシンボルである多数決)
    で決まるとは思っておりません。
    また、司祭の人事が信徒の意向とは別のものであることも承知しています。
    しかし、上記のような司牧姿勢が、喜びと信頼を持って信徒に迎えられるで
    しょうか?

    「1週間以内に自分で行き先を探して出ていくように」とか、「間違ってい
    ても従ってもらう」という姿勢は、民主主義の日本社会に生きている信徒に
    とって、とても受入れがたい内容です。
    なぜなら、そのようなことは日本社会では通用しない論理だからです。

    教会が民主主義でないというのはそのとおりだとしても、司牧の具体的な内
    容が民主主義を否定する形で行なわれるならば、日本人の心情・日常感覚に
    は決して受け入れらることはないでありましょう。
    日本における福音宣教とは、日本人に民主主義をすてて、カトリックの洗礼
    を受けなさい・・ということではないと考えます。
    日本人が民主主義社会という現実の只中にあって、カトリックの信仰を生き
    ていくことだと思っています。

2)教会は会社ではないというけれど
    '98.7.26(日曜日)甲子園教会ではミサにかえてみことばの祭儀が行なわれ
    ました。主日でははじめてのみことばの祭儀でした。
    理由は、主任司祭が日曜学校のキャンプに同行したためです。かわりの司祭
    を探したが、都合がつかなかったと聞きました。

    いろいろな事情から、みことばの祭儀で主日の礼拝を行なうことがあること
    は承知しています。
    ただ、信徒に対する司祭の思いやりのなさに愕然としました。

    私が体験した40年ちょっとの会社生活では、普段とは違う事態が予想される
    場合には、お客様をはじめ関係する方々に事前にいろいろな方法でお知らせ
    とご了解をいただく努力をするのが常でした。

    主日のミサが信仰生活においてどのような重みを持つかはいうまでもないこ
    とです。
    来週の日曜日に、もしかしたらミサにかえてみことばの祭儀を行なうことに
    なるかも知れないこと。また、○○さんが奉仕者としての研修を受け、それ
    を執り行うというアナウンスを前週にしておけば、当日になって「なぜミサ
    がないの?  あの人は誰?」という信徒の当惑は容易に避けられたのです。

    私がこういうことをいうと「教会は会社ではないのだから」という回答が返
    って来るのですが、他人様に対するこころくばりは、会社だから必要、教会
    では不要というようなものでしょうか。

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    '98.9.14  私たち甲子園教会の信徒は主任司祭からの速達郵便を受け取りま
    した。内容は「9月15日をもって、日曜学校と学生会を除くすべての組織
    を解散する」というものでした。

    速達郵便ということから、この決定が急なものであったと想像できます。
    次の主日、私は主任司祭に説明を求めましたが「ノー・コメント」との回答
    でした。

    小教区の組織が時代の要請に合致しているかどうか。とりわけ壮年会・婦人
    会・青年会という旧来の組織と新しい機能別組織との関係をどうするかなど、
    小教区の組織のあり方に改善すべき点が多いのは事実です。

    それを検討するのであれば、信徒評議会で専門部会を発足させるなど方法は
    いくらでもあります。
    そうした「信徒の参加する場」を持つことなしに、主任司祭の権限で組織を
    解散させ、すべての行事と活動を中止させることには疑問を抱きます。

    釜ヶ崎への炊出し奉仕(おにぎりづくり)も教会の炊事場の使用ができない
    ことから中止となりました。
    私は、この異常な事態を解消するための祈りの集いを提案しましたが、主任
    司祭に拒否されました。('98.12.5)
    レジオ・マリエの再開の願いも、聞き入れられていないとのことです。

3)カトリックこそがすばらしいというけれど
    私たち兵庫県に住む者の多くは、阪神大震災で悲惨な体験をしました。
    混乱したあの当時の毎日の中で、全国から駆け参じたボランティアの人々に
    助けていただきました。そこにはいろいろな人々がいました。

    それは思想信条をこえた「おもいやりのこころ」に満ちたものでした。
    どの宗派の人がにぎったおにぎりだとか、どの教派の人がつくった豚汁かな
    どと考えることは決してありませんでした。

    人が人を助けようとするとき、そんなことはどうでもよいことでした。

    大阪教区が取り組んでいる新生計画は、そうした現実を踏まえたものだと思
    う一方、相変わらずカトリックこそがすばらしいという思いからまだまだ抜
    けきれていないように思えます。

    大司教区の公式組織の活動に参加する信徒は第1級の信徒、教区のその他の
    組織活動に参加する信徒は第2級の信徒。
    小教区の活動に参加するのは第3級、民間のボランティア団体などの活動に
    参加するのは第4級。こうした意識が参加者の間に芽生え、自分を満足させ、
    他人を見下す風潮が明らかに見うけられます。

    なぜそんなことになるのでしょうか?
    教会の位階制度の司牧姿勢が、その周辺の人々の意識をも染め上げている・・
    と私には思えてなりません。

4)提言:信徒を囲い込む司牧から、社会に派遣する司牧へ

    以上の具体的な事例は、そのこと自体を訴えるのが目的ではありません。
    こうした司牧の現実を見据えることから、現代日本社会における福音宣教の
    あり方を考えてみたいからです。
    頭だけで考える指針ではなく、事例を通じて現実を見据える中から、福音宣
    教と信徒の関係を考えてみたいからです。

    これまでの事例の特徴は、司教・司祭という教会の位階制度がその権威を用
    いて信徒を司牧するという点です。
    私たちが受けた公教要理による信仰教育では、それが当然でした。
    信徒が教会の中で「自主的に活動する」ことや、教会でよりも一般社会の中
    で活動する方に目を向けることを「司牧の危機」と捉えています。

    第2バチカン公会議以降、教会はこれまでの司牧のあり方を変えることにし
    た・・のではなかったのでしょうか?
    しかし、以上のような動きを見ると、教会はやはり古い権威にしがみついて
    おり、悪いことにそれに追従する信徒を生み出していると思えるのです。

    日本のカトリック信徒は40万余。日本の人口は1億2千万です。
    私たち信徒がカトリックという枠の中に閉じこもっていれば、それは日本の
    社会の中の 1/300 の世界でしかありません。
    教会という枠から社会に出ることで、私たちの働きの場は300倍に広がり
    ます。
    私たちは、司祭・修道者が足を踏み入れることもない日本の社会の暗い部分
    にまで入って生きています。
    そこで福音的に生きることができるのは、信徒である私たちです。

    @  信徒が小教区という「場」を通じて社会に働きかける活動をしている時、
        その自主性を尊重して下さい。
        主任司祭が自分の判断だけで、その活動を封じるようなことはしないで
        下さい。

    A  信徒の活動を教会の中に囲い込まないで下さい。
        信徒が福音を生きる活動を教会という組織の中に縛り付けないで下さい。
        どんな場で福音を生きているかによって、信徒の信仰を「評定」しない
        で下さい。

    日曜日にミサの中でいただいた神様からの恵みと力を、日本の社会の中で思
    いっきり発揮させて下さい。
    その際、カトリックという幟も法被も押しつけないで下さい。

    私は 1994年から民間のボランティア団体の活動に参加しています。
    それは神様にいただいた恵みの豊かさに気づいたとき、そうせずにはおられ
    なかったからです。
    信徒はそれぞれの日常の働きの場で、神様の恵みと力を周囲の人々に示すこ
    とができます。その方法は、その人に任せて下さい。いや、その人を通じて
    働かれる聖霊の導きに従うというべきでしょう。

    日曜信者という言葉は、悪い意味で使われてきました。
    しかし今、私は言います。日曜信者でよいではありませんか。
    日曜日は教会へ。残りの 167/168 は、その人の現実である日本の社会の中で
    神様がその人を通じてなさろうとする活動につかせてあげて下さい。

    教会は、ミサの後で全信徒を日本の社会の現実の中に派遣することで満足で
    きないのでしょうか。