パウロさんへの手紙

イエスの生涯は、4つの福音書でおよそのことが分かります。

ところで、キリスト教とはイエスの始めた宗教なのでしょうか。
『イエスは生涯を通じて、ユダヤ教徒であった』ことは否定しようのない事実です。

キリスト教は、12人の弟子を始め、多くの弟子たちがイエスをどのように理解したかを
伝えている宗教です。

そして彼らは、自分たちの理解した(信じた)イエスを私たちに今も伝えています。
このページでは、そうした弟子の一人:高名なパウロさんに目を向けてみます。

パウロさんへの手紙
@ : 女性について
A : 世の終わりについて
B : 福音との出会いについて
C : 愛について
D : 誰に倣うか・・・について
E : 結婚について
F : 性の異常について (その1, 2, 3, 4 )
G : ふたたび結婚について
H : マイノリティについて


  

* パウロさんへの手紙 @ :女性について

パウロさん、私はまもなく21世紀を迎えようとしている時代に生きているひとりの
キリスト者です。
新約聖書の中の14のあなたの書簡(学者は、そのうちのいくつかはあなたの筆に
なるものではないと言っていますが)を通じてあなたが示してくれた『福音』にも
そこそこになじんでいます。
ところで、いつもはあなたからのメッセージを聞く一方の私ですが、今日は私から
あなたへの手紙を書いてみたいと思います。
というのも、あなたが書簡で説いている内容が、どんな時代の、どんな地域にも適
用できるものかどうかを確かめてみたいからです。
どうぞ、お気を悪くなさらないで、少し辛抱して聞いてください。

コリント人への第1の手紙第14章で、あなたは
    『女性は教会で黙っていなさい。女性には話すことが許されていないのです。
    律法も言っているように、女性は従いなさい。もし、何か学びたいことがあれ
    ば、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で話すのは、女性にとっては恥ずべきこ
    とです。』
と語っています。
また、テモテへの第1の手紙第2章には、次のような個所があります。
    『女性は完全な従順をもって、静かに教えを学びなさい。女性が教え、男性の
    上に立つことを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。』
これは礼拝集会での作法についてあなたが記した個所です。
あなたはその理由を、
    『アダムが先に造られ、それからエバが造られたからです。また、アダムは惑
    わされませんでしたが、女は惑わされて罪に陥りました。女性は子を産むこと
    によって救われます。これは言うまでもなく、慎み深く、信仰と愛と清さとを
    もって生活を続ける限りにおいてです。』
と説明しています。

そこで質問なのですが、
1)現在の教会においては、女性は司祭にこそなれませんが、みことばの祭儀と呼
    ばれる礼拝集会の司会・進行の役割を果たしたり、信徒使徒職のいろいろな場
    面で男性以上に熱心に教会奉仕をしています。
    あなたが『むしろ、静かにしているべきです』と教えたこととは全く違った状
    況にあります。
    こういう状況を、パウロさん、あなたはどう感じているのでしょうか?

    また、コリント人への第1の手紙第11章で、あなたは
        『キリストはすべての男の頭であり、男は女の頭であり、神はキリストの
          頭であるということです。・・・すべて女は、頭に何もかぶらずに祈っ
          たり預言したりするときは、自分の頭を辱めることになります。それは
          髪をそっているのと全く同じことだからです。』
    と礼拝集会で女性にかぶり物を勧めています。
    しかし、これも最近では全く省みられなくなっています。
    あるシスターは「これはパウロの意見であって、教会の勧めではない」とベー
    ルを着用しなくなった理由を話しています。
    パウロさん、あなたは現代の教会の女性にはあまり人気がないようです。

2)仏教では「女は男に生まれ変わった後でなければ成仏できない」といった意味
    の思想があるようですが、パウロさん、あなたも相当の女性蔑視のことばを残
    しているんですね。
        『女性は子を産むことによって救われます。』
    これでは、子供を産まない、あるいは、産めない女性はイエス様の救いに与る
    ことができないと言ってるみたいに聞こえます。
    イエス様の愛、人間を救いたいという神様の愛とは、そのようなものなのです
    か?

パウロさん、あなたの書簡が教える内容は、現代の人々にいろいろな疑問を抱かせ
ています。
この「女性をめぐる」問題は、そのほんの一部です。
どうぞ、あなたのお返事をお聞かせください。

敬愛するパウロさんへ
                                             2000/1/16      jiji@japan

  
  

* パウロさんへの手紙 A :世の終わりについて

今年は西暦2000年で、教会は『大聖年』を祝っています。
これまでの一千年を振り返ると同時に、新しい一千年に教会は何をすべきかを考え
る機会だということでしょう。

西暦1000年の折にも、世の終わりが近いと考えた人々がいたそうですが、2000年に
あたってもそう考える人がいなくはないようです。
しかし、ノストラダムスの大予言なるものが大外れだったように、世の終わりなど
だれにも予言できるものではないことを私たちは知っています。

イエス様も『その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、
父だけがご存じである』(マタイ 24:36)とおっしゃっています。

ところでパウロさん、あなたは次のように書いていますね。

    更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠り
    から覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよ
    りも、救いは近づいているからです。
    夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着け
    ましょう。(ローマ 13:11-12)

    兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。
    (Tコリント 7:29)

    主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたし
    たちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。
    すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響
    くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死ん
    だ人たちが、まず最初に復活し、
    それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと
    一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつま
    でも主と共にいることになります。(Tテサロニケ 4:15-17)

これらの文章を読むと、まるであなたは世の終わりが間近に迫っているという前提
で説教をしているような印象を受けます。

一方では、次の文章を書き残しています。

    さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみ
    もとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。
    霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によっ
    て、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分
    別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。
    (Uテサロニケ 2:1-2)

聖書学者の説明によると、Tテサロニケ・Uテサロニケの書簡が書かれたのは西暦
51年頃とのこと。
ローマの書簡は58年頃の作だと言われています。

『主が来られる日まで生き残るわたし』と話しているあなたは、確かにあなたの存
命中に世の終わりが来ると信じていたのでしょうね。

ところがそれから2000年近い時間が経った今も、この世は続いています。
もちろん今夜にも、世の終わりが来るかもしれませんが・・・

あなたが世の終わりすなわち裁きの日に向けて、人々に霊的な準備を勧める気持ち
はよく分かりますが、それを強調しすぎると、オウム真理教の教祖麻原某の言い分
と同じようなものに聞こえてくるのです。

世の終わりは近い、救われるためには ○○をしなければならない。
そうしない者は滅びにいたる。
あなたはそのように教えますが、イエス様が示された福音とは、そのようなものだ
ったのでしょうか?
神は、人々の滅びをそんなにも楽しみにしていらっしゃる方なのでしょうか?
むしろ、ヨハネ福音書にあるように

    神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
    独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
    神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救
    われるためである。( 3:16-17 )

慈悲ぶかい姿こそが、イエスの教えてくださった神・私たちの父だったのではあり
ませんか。

敬愛するパウロさん、あなたは世の終わりについて、なぜあのような文章を書き残
しているのですか。私には、あなたの意図が読めません。
それとも、あなたは、世の終わりについて勘違いをしていたというだけのことなの
でしょうか。

どうぞ、あなたの真の意図を私にも話して下さい。

                                             2000/1/24      jiji@japan

  
  

* パウロさんへの手紙 B :福音との出会いについて

パウロさん、今日はちょっと筋違いの話になりますが、お付き合いください。

Tコリント2章2節に、あなたはこう書いています。

    わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキ
    リスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。

また、フィリピ3章8節にこうあります。

    そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ
    に、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべて
    を失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。

これはイエス様の福音に出会った喜びを表したもので、私も同じ気持ちを味わって
います。
また「塵あくた」と見なしているのは、律法を中心とした当時のユダヤ教のことで
すよね。

ところが、あなたのこの有名な一言は、一人歩きをし始めています。
キリスト教以外のすべての宗教を「塵あくた」と見なして排斥するという姿勢を、
教会は長い間続けてきたのです。

昨年、カトリック新聞に掲載された奥村神父様のお話の中でも、

    第2バチカン公会議の前まで、カトリック教会は他宗教を問題にしていません
    でした。聖パウロの信仰のように、「キリストを知ることのあまりの素晴らし
    さに、他の一切を塵あくたと見なして」いましたから、他の宗教に対しては
    「異教徒」という差別用語で呼んでいました。またそれが宣教の力にもなって
    いたと思います。

と指摘されている通りです。(カトリック新聞、1999/12/19)

聖フランシスコ・ザビエルによる日本へのキリスト教伝道開始 450年を記念した私
たちですが、当時の資料を読むと、少し複雑な気持ちになるのも事実です。

    このキリシタンの寺社破壊運動が激烈を極めたのは、何と言っても九州の大村
    ・有馬・大友氏の領内においてであった。大村純忠は、キリシタンになって後
    も領内の反対派に対する配慮から過激な仏教弾圧を控えていたが、天正2(157
    4)年には、徹底的殲滅行動をとった。古記録『大村郷村記』は、
        「多羅山千手院宝円寺、天正二甲戌、同氏丹後守純忠、及臣民、南蛮之妖
        教に陥溺し、耶蘇宗門を崇信、而して神社仏閣を焼亡、且つ僧徒を殺害す。
        惜しき哉、旧来神像霊仏、邪徒の一炬に罹り、忽灰燼と為る・・・」
    と記している。多羅山大権現、郡村原口の伊勢大神宮、幸天大明神、彼杵村の
    大御堂、大村の八幡宮、彦山大権現、浦上村の岩屋山大権現、川棚村の虚空蔵
    岳等々、数多くの寺社が焼却され、破壊された。キリシタンに改宗することを
    拒否した僧侶の阿乗は仏教に殉じた。こうしたことがあった五十年の後に、事
    態は逆転する。そしてこの地方のキリシタンは大弾圧を受け、殉教者が続出す
    るのであるが、ここで私たちは、殉教者はキリシタン側だけに留まらぬことを
    記憶する必要があろう。
    <松田毅一:南蛮のバテレン、朝文社 1991>

キリスト教伝道による旧来のものの破壊は、単に宗教だけが対象ではありません。
南米大陸はカトリックの多いところですが、そこではスペイン語とポルトガル語が
今では広く使われています。
これが元々のその地域の言葉でないことは明らかで、キリスト教の伝道がその地域
の古くからの言葉(そして文化)までも破壊した証左ということができます。

もちろん、現在のカトリック教会は、そうした過去の過ちを反省しているのですが、
それは1962年に始まった第2バチカン公会議の結果を受けてのこと。きわめて最近
の動きです。

それで思うのですが、パウロさんの言葉が、書簡の文脈から切り取られ、一人歩き
をすることで、とんでもない不幸な出来事を世界中に撒きちらしていたのです。
もちろん、パウロさんの責任ではありません。
それを利用した人々が負うべき責めです。
しかし、こういう問題を見るにつけ、あなたの書簡から声高に「塵あくた」といっ
た言葉を吹聴するような読み方は、そろそろ終わりにした方がよいという気がして
なりません。

神様のみ旨が人々に知られ、人々がそのみ旨に従って生きるようになること。
それがあなたの書簡の目的ですよね。
今、人々はあなたの書簡だけでなく、いろいろな手段を通じて神様を知る恵みをい
ただいています。
そういうことで、あなたの書簡の重みが、少しだけ軽くなったとしても、どうぞ立
腹なさらないで下さい。

今日は、そんなことをお願いしたくなったのでした。

                                             2000/1/27      jiji@japan
  
  

* パウロさんへの手紙 C :愛について

パウロさん、あなたの書き残した言葉で、日本で一番有名なのはおそらく次の個所
でしょう。

    愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
    礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
    不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
    すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
    愛は決して滅びない。
    (Tコリント 13章4〜8節)

これは教会の結婚式で、読み上げられる個所だからです。
聖書を全く読んだことのない人でも、この言葉には聞き覚えがあると言うことでし
ょう。

ただ、私がこの言葉からイメージするのは、聖母像の前に跪くシスターとミッショ
ンスクールの女子生徒、そして「ザーマス」言葉をあやつるご婦人の姿・・・関西
風に表現すれば、要するに「ええ格好しぃ」です。

イエス様が見せていた「愛」の眼差しとは、そのようなものだったのでしょうか?

    律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
    白く塗った墓に似ているからだ。
    外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
    このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と
    不法で満ちている。(マタイ 23:27-28)

    イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき
    散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。
    「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはなら
    ない。」(ヨハネ 2:15-16)

    一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
    そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近
    寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからであ
    る。
    イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者が
    ないように」と言われた。
    翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを
    見た。(マタイ 11:12-14,20)

イエス様が時に見せる厳しい言葉と表情と振るまい。
私には、単純に「愛=やさしさ」とはとても思えないのです。

曽野綾子さんは面白い表現をしています。
こんな趣旨のことを話しています。
「愛とは、好きな人に対してと同じ振るまいを嫌いな人に対しても行うこと」

これはとても示唆に富んでいます。
例えばキリスト教のボランティア参加者の人に、こんな人がいます。
「薬害でエイズに感染した人は気の毒だが、ふしだらな行為で感染した人には同情
できない」
このでんでいくと「リストラで釜崎に来た人には同情するが、わがままで会社を辞
めて来た人には炊き出しをしてあげたくない」
私は障害を持つ人々と関わっていますが、「生まれつきの障害や交通事故のもらい
事故で障害を負った人には同情するが、無謀運転で障害を負った人は自業自得だ」
ということになりかねません。

イエス様の眼差しは、そのようなものだったでしょうか。
決してそんなことはない、私はそう考えます。

    ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。
    追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
    旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、
    近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連
    れて行って介抱した。(ルカ 10:30,33-34)

このサマリア人は、傷ついた人に落ち度がなかったかどうかを先ず確かめたりはし
ていません。この譬え話の作者であるイエスご自身にそのような発想がなかったか
らでしょう。

    律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて
    来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
    「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち
    殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えに
    なりますか。」
    彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。
    「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさ
    い。」
    これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、
    イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
    イエスは、身を起こして言われた。
    「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったの
    か。」
    女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
    「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯して
    はならない。」(ヨハネ 8:3-5,7,9-11)

仮に、その女がもう一度同じ行為を行ったとして、イエス様は次回はこの女を見殺
しになさるのでしょうか。

    ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行っ
    た。
    主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
    また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
    『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言
    った。
    五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしな
    いで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれ
    ないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』
    と言った。
    夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た
    者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
    そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
    最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しか
    し、彼らも一デナリオンずつであった。
    それで、受け取ると、主人に不平を言った。
    『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を
    辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
    主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなた
    はわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
    自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じ
    ように支払ってやりたいのだ。(マタイ 20:1-4,6-14)

当時の労働者の貧困と労苦を思うとき、最後の一言は感動的です。
ここにイエス様の愛の眼差しを感じます。

とにかく共通して言えることは、現に苦しんでいる人を目の当たりにして、イエス
様はその原因や理由を詮索などしていないという事実です。
イエス様はその人々を見て「はらわたのちぎれる思い」で関わっています。
とにかく手を出さずにはいられない。

イエス様の愛とは、そのようなものでしょう。
決して、きれいな言葉遣いや、高尚な発想を伴う行為ではない。

正直言って、あなたの美しい言葉よりも、イエス様のこの熱情に私は引きずり込ま
れ、捕らえられていくのです。

パウロさん、あなたにケチをつけている訳ではないのですが、ごめんなさい。

                                             2000/1/27      jiji@japan

  
  

* パウロさんへの手紙 D :誰に倣うか・・・について

先々週の主日のミサの第2朗読は、パウロさんの「第1コリント」からのものでし
た。私には腑に落ちない一節があります。

    わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者と
    なりなさい。(11章1節)

中世の名著「デ・イミタチオネ・クリスチ」に代表されるように、キリストに倣う
ことはすべてのキリスト者にとって大事なガイドラインになっています。
ところがあなたはコリントの教会の人々に対して、キリストに倣うことではなく、
パウロさん自身に倣うことを勧めているのですね。
なぜ、直接キリストに倣えと勧めないのでしょう?

私は常々イエス様の教えと、パウロさんの教えとの間にある食い違いが気になって
いたので、イエス様に倣うことと、パウロさんに倣うこととが同じだとはとても信
じられないのです。

イエス様は『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』(ヨ
ハネ福音書15章13節)とおっしゃいました。

一方、あなたは『全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわ
が身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない』(1コリント
13章3節)といいます。

イエス様は「友のために命を捨てる」という行為自体の中に『愛』を見ています。
ところがパウロさんは「全財産を貧しい人々に使い尽く」す人に出会い、友のため
に「わが身を死に引き渡」す人に出会ったとしても、その行為自体の中に『愛』を
見出すのではなく、「愛」があるかどうかを別の基準で検証しようとしているので
すね。
その結果、この人は「誇ろうとして」死んだだけなのだと判定を下したというわけ
です。

確かにあなたは「愛」の検証基準を示しています。(13章4〜7節)
    愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
    礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
    不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
    すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

あなたにとって、愛の行動の判断基準は「忍耐強い」「情け深い」「ねたまない」
「自慢しない」「高ぶらない」等々の『道徳性や倫理性』なのですね。
多くの宗教や修養団体でも、同じことを言っています。
しかし、本当に誇ろうという目的だけで友のために死ぬ人間がいるのでしょうか。
また、仮にいたとして、本当にそれは軽蔑されるべきものなのでしょうか。

人間の行動には、しばしば複雑な背景があるものです。
イエス様はその中の「友のため」に着目して『愛』を読み取ります。
あなたは「誇ろうとして」の部分に目を凝らして「何の益もない」と断定します。

私の気持ちとしては、やはりキリストに倣いたいですね。
その結果、パウロさんから「私には何の益もない」と言われても構いません。
私はイエス様を信じているのであって、パウロさんを信じているわけではありませ
んから。
パウロさんの「益」になるように振るまうことが、私のキリスト者としての生き方
のガイドラインとは考えていないからです。

もうひとつの話をさせて下さい。

あなたは神の国に入る条件として、
    正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いを
    してはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色を
    する者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者
    は、決して神の国を受け継ぐことができません。(1コリント6章9,10節)
と宣言しています。

あなたが属していたファリサイ派の人々は、そういう点では百点満点の人々ばかり
だったことでしょう。

イエス様はおっしゃいます。
    「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国
    に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼
    を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後
    で考え直して彼を信じようとしなかった。」(マタイ21章31,32節)

    ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちなが
    ら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
    言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ
    派の人ではない。(ルカ18章13,14節)

    イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。
    だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
    女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪
    に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」
    (ヨハネ8章10,11節)

    そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対
    して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
    イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦
    しなさい。(マタイ18章21,22節)

私は、イエス様のお言葉によりすがって側に近寄ろうとします。
するとパウロさん、あなたは閻魔様のような恐い顔をして私の前に立ちはだかり、
こういうのです。『お前のような奴は、地獄に行くがよい!』

こうして私は、イエス様とあなたとが同じ教えを説いていたのではないことを、ま
すます実感して行くのです。

今日もまた、パウロさんの忠実な後継者たちが、私の前に立ちはだかっています。
しかし、イエス様が私を招く力は、パウロさんのそれよりもはるかに強いのです。

パウロさんの言葉を借りて表現すれば、
    なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。
    (2コリント5章14節)

ある人は、次のように訳していました。

    キリストの愛が私に迫る!

私に迫り、私を駆り立てるイエス様の愛を、閻魔様のようなパウロさんも止めるこ
とはできないのです。
パウロさん、あの個所は、むしろこう書くべきだったのではないでしょうか。

    わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣い、キ
    リストに倣う者となりなさい。

                                             2000/2/28      jiji@japan
  
  

* パウロさんへの手紙 E :結婚について

今日は、結婚についてパウロさんと話してみたいと思います。

    わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞ
    れ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。
    未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。
    しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結
    婚した方がましだからです。(1コリント7:7 〜 9)

あなたの意見の背景には、

    思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のこと
    に心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事
    に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。
    独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣
    いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣
    います。(1コリント7:32 〜 34)

という考えがあるのですね。
つまり、キリスト者の最高の生き方は『主のことに心を遣う』こと。そのためには
独身がベストだと。

しかし、すべてのキリスト者がそうできるわけではないので、情欲に身を焦がす心
配があるのなら、次善の選択として結婚してもいいでしょうということですね。

結婚はあくまでも情欲に身を焦がさぬための『安全弁』だという立場です。
これは結婚に対するあなたの本音でしょう。

イエス様の意見はちょっと違うのではないでしょうか。

    弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と
    言った。
    イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者
    だけである。」(マタイ19:10,11)

11節は読み方の難しいところです。『この』と訳されている言葉が何を指している
のかが、分かりにくいからです。

        ネストレ-アーラント校訂本(の佐藤研訳)ではこの個所を

          「 [以下の]言葉はすべての者が把握するものではなく、授けられた者だけ
            (が把握するの)である。 」

        と訳しています。 この訳での [ ] の中の部分は、底本の校訂者自身が元来
        の本文に存在したか否か、判断を保留している箇所。 また ( )  の部分は、
      原文にはないが、邦訳上必然となるような敷衍部分として、それが訳者の責任
      における挿入部分である ・・・ とされています。

        そうなると、『この』は [以下の] すなわち 12節の部分を指していることに
      なります。 佐藤研訳の 12節はこうです。

         つまり、母の胎からしてそのように生まれた去勢者があり、また人間たち
             に去勢させられた去勢者があり、天の王国のゆえに自らを去勢した去勢者
         がいる。 把握することのできる者は把握せよ。

いずれにしても、イエス様は独身を例外と見ており、むしろ旧約を引用して「創造
主は初めから人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻
と結ばれ、二人は一体となる」(マタイ19:4,5)と結婚を「二人の一体化:共同生
活」として肯定しているように思います。

結婚の意味は、パウロさんの言うような情欲のはけ口なのでしょうか?
それとも、イエス様の言うような二人の共同生活なのでしょうか?

創世記には、神様が人を創造された時、

    主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造
    ろう。」(2:18)

と言われ、アダムのパートナーとしてエバを創造したと伝えます。
そして、

    こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。(2:24)

というイエス様の引用した個所につながって行きます。

創生記第1章には、それとは別の伝承

    神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女
    に創造された。
    神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。
    海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(1:27,28)

が伝えられていますが、こちらの方が整理された思想だと言えそうです。
イエス様は明らかに第2章のイメージで結婚を語っておられます。

パウロさん、あなたは結婚をしたことがないので、結婚に対して偏見を持っている
のではありませんか?

神様は「人が独りでいるのは良くない」と言われ「彼に合う助ける者」が必要だと
考えられたのですよ。
ところがあなたは「情欲」の発散手段として結婚を考えており、結婚する人間は二
流の存在だと卑しめています。

あなたの発想は確かに教会の中に受け継がれています。
カトリックの結婚観は、
    @ 子をあげてこれを教育すること
    A 夫婦相互に助け合うこと
    B 邪欲を防ぐこと
という「公教要理」(517番)の文章からも明らかです。

Bは、あなたの発想そのものですね。(^_^)

@が結婚成立の決定的要素であることは、教会が「勃起不能」の男の結婚を認めて
いないことからも明らかです。
Aを願うカップルがいても、教会は@を結婚の成立条件として、そのカップルの結
婚を認めないのです。
イエス様のイメージする結婚とパウロさんのそれとが違うように、教会の結婚観も
またイエス様とは違っています。

それにしても教会は「勃起不能」の男の結婚を認めない一方で、「無精子症」のケ
ースに目をつぶるのは何故なんでしょう?
@が結婚成立の必要条件であれば、これを区別することは意味をなさないとは思い
ませんか。

それよりも、結婚の意味を「人生のパートナーとの共同生活」と理解する一般信徒
にとって、それを素直に受け入れない教会の教えは、本当に神様からの教えなのだ
ろうかと疑問を抱かせます。
ましてやイエス様があのように教えられたことを思うとき、その感を深くします。

パウロさん、あなたは今の教会の結婚観をどう思いますか?

                                             2000/3/11      jiji@japan