* パウロさんへの手紙 G :ふたたび結婚について
パウロさん、創世記第2章18節には、第1章とは別の人祖創造物語が記されていま すね。 主なる神は言われた。 「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」 ところで、現在の教会が教えている結婚の目的は、 @ 子をあげてこれを教育すること A 夫婦相互に助け合うこと B 邪欲を防ぐこと ということになっています。 そして @ が決定的な要件であるようです。その証拠に「勃起不能」の男性の結婚 を教会は認めていないのです。 しかし本当にそれが神様のみ旨なのでしょうか? 神様は「人が一人でいるのは良くない」と言われ、「助け手」との生活を提言して いらっしゃいます。 人が生きていく上で、大事なことは「助け手」との生活です。 互いに助け合うことで、人は神様のみ旨に沿った生き方ができるようになるのでは ないでしょうか。 ある男が「勃起不能」だからという理由で「助け手」との生活を禁じるなど、とて も神様のみ旨とは思えないのです。 永い結婚生活を通して、二人が強い望みを抱いていても、子供に恵まれないケース があります。教会はそのカップルを非難することはできませんね。 その原因が、例えば夫の側の「無精子症」だとしても、それを彼の罪とは言いませ ん。神様は彼をそのような存在としてお造りになったことを受け入れているからで しょう。 しかし、このカップルにも互いに助け合うという結婚の目的は大きな意味をもって いますから、二人は神様のみ旨に沿った一生を送ることができるのです。 また別のケースでは、すでに子供を産むことのできる年齢ではない二人が結婚する こともあるでしょう。配偶者をなくした年老いた二人が、残された人生を肩を寄せ 合って生きていきたいと望んだとき、結婚の条件の @ を満たさないからと禁じる 理由があるでしょうか。 パウロさんは「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」と独身主 義を『聖なる生き方』として重要視していらっしゃるのですが、それをすべての人 に適用するのが無理なこともよくご承知のことですよね。 あなたは「しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすより は、結婚した方がましだからです」という側面からのみ『結婚の意義』を評価して いるのでしたね。 では、生まれつき異性への関心をもつことなく、同性にしか性的関心が向かない人 々が「自分を抑制できない」場合にはどうしろとおっしゃるのでしょうか。 彼らが「情欲に身を焦がさない」ために、助け手である同性のパートナーとの生活 を通じて、心身ともに安定した日々を送ることは、あなたのいう「結婚」とどう違 うのでしょうか。 神様は、助け手との出会いの「秘密兵器」として性的な関心という不思議な仕掛け をひとりひとりに埋め込んで下さっています。 多くの場合、それは異性に向けられるものです。 しかし数は少なくても、それが同性に向けられる人をも、確かに造っていらっしゃ います。 これを「神様の失敗作」だと断言するのは、神様の創造のみ業に対する侮辱だと私 は思います。神様は彼らをも「良しとされた」のだと私は信じます。 神様が埋め込んで下さったその「秘密兵器=性的指向」が、異性に向かうか、同性 に向かうかは、まさに「神様のご計画」によるものです。 それをありのままに受け入れることが、 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」 という神様への従順ではないでしょうか。 聖母の受胎は、当時の社会からは到底受け入れられない「不自然な」出来事でした。 しかしマリアとヨセフはそれを「神様のみ旨」として受け入れました。 周囲の人々の非難の視線に堪えながら・・ 性に異常を持つ人々も、なぜそうなのかの理由を神様に聞かされることなく、自ら の身に受けとめています。社会と、そして教会の非難の視線に堪えながら・・ 私たちは神様のご計画をすべて知り尽くすことはできません。 しかしマリアとヨセフに倣って、ただ素直に受け入れることはできるでしょう。 パウロさん、あなたが当時の社会の風潮に乗っかって非難したほど、単純なもので はないことにどうぞ気付いていただきたいのです。 人が、助け手と共に人生を歩むことを、あなたは色眼鏡で見過ぎてはいないでしょ うか? これが私の一番言いたいことなのです。 2000/3/30 jiji@japan
* パウロさんへの手紙 H :マイノリティについて
パウロさん、あなたへの手紙の最終回です。 私が言いたかったことをまとめてみます。 ・神様は天地万物をお造りになる際、何故かは分かりませんが、例外的なものを結 構お造りになったと思っています。 人の心臓は体の中央のやや左寄りにあるようですが、例外の人がいますよね。 大部分の人はいわゆる五体満足で生まれますが、時にはそうでない赤ちゃんも生 まれています。 ・神様は確かに男と女に人を造られました。しかし例外的に性の区別がつかない人 を造られたのも事実です。 性的指向(sexual orientation)は多くの場合異性に向かいますが、ここでも例外 を神様は造っていらっしゃいます。 同性愛(ホモセクシュアル)とはそのようなものです。 ・いろいろな形での例外的な「生まれ方」をした人々は、社会の白い目の中で苦し みを味わうことが多いのです。 イエス様は、その生涯を通じてそうした「弱い立場の人々」を招き、いたわって おられました。 それは単に「生まれつき」のマイノリティだけではなく、社会から小さくされた 人々にまで及ぶものでした。 ・パウロさん、旧約の民は律法を守らない人々を『罪人』として裁いていましたね。 しかし、イエス様はむしろ裁かれる側の人々を「私の兄弟姉妹」と呼んでいたの ではありませんか。 あなたも書いているように、 わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によ ると考える(ローマ 3:28) ところに、キリスト教の原点があるのですよね。 ・信仰を持った「生まれつき」のマイノリティの人々を、パウロさんあなたは裁く ことができないのではないでしょうか。 彼が五体満足でないからといって、彼の性的指向が異性に向かわないからといっ て、彼をイエス様の十字架の贖いの対象外だと言える訳がありません。 いや、むしろ社会から疎外され、白眼視されている人々をこそ、イエス様は「兄 弟姉妹」として招いてくださっているのではないでしょうか。 ・教会は、やっと「同性愛者であること」と「同性愛の性行為をすること」とを区 別するようになりました。 これは『進歩』です。しかしまだ、同性愛者の振る舞いを罪悪視し続けています。 また、ここまで来るのに 2000年という長い年月が必要でした。 その最大の(あえて言いましょう)『元凶』は、間違いなくパウロさん、あなた の書き残した書簡にあるのです。 正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違い をしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男 色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を 奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。 (Tコリント 6:9,10) あなたは、「同性愛者であること」と「みだらな性行為を行なう者」とを区別し ていませんね。むしろ混同しています。 そこに2000年に及ぶ教会の同性愛者迫害の惨劇の「もと」があるのです。 ・神様が彼にお与えになった性的指向そのものを罪と断定し、救いから切り捨てて しまうという乱暴を行っているのです。 ・私は、もう一度いいたいのです。 神様はすべてを「良いもの」として創造なさいました。 神様の与えてくださったものを、素直に受け入れようではありませんか。 それを用いて、神様がひとりひとりを通して実現なさろうとしていらっしゃ るご計画に、喜んで参加しましょう。 それは神様をたたえる行為です。 神様のお造りになったものを「失敗作」として軽蔑するのではなく、何故か は理解できなくても、「お言葉どおり、この身に成りますように」と受け入 れましょう。 それは神様に対する従順です。神様のみ旨に叶うことです。 ・パウロさん、私は異性愛であれ、同性愛であれ、みだらな生き方を決して良しと はしません。 それは当たり前のことです。 しかし「同性愛」は最初から「罪」だというあなたの主張には決して賛同できま せん。 神様のみ旨にそって生きることには「異性愛」や「同性愛」の区別はないと考え るからです。 あなたの表現を借りて言えば、 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達す るのです。 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない 者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。 《異性愛、同性愛の区別もありません。》 キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。 (コロサイ 3:10,11) パウロさん、どうぞあなたの今の気持ちを『使徒パウロから2000年に生きる信徒 の皆さんへの手紙』として示してください。 心待ちにしております。 2000/3/30 jiji@japan