JIJI と読むマルコ福音書  (10)
聖書引用は特記事項ない場合「新共同訳」

本文 2 : 1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り
2 : 2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。
イエスが御言葉を語っておられると
2 : 3 四人の男が中風の人を運んで来た。
2 : 4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
2 : 5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
中風の人とイエス ここは、とても有名な個所です。

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そして日本人の私たちには、直感的には分かりにくい個所でもあります。

   「屋根をはがす」という行為は、私たちにはずいぶん乱暴なものに見えます。
   「あなたの罪は赦される」という言葉も、唐突な感じがします。

フランシスコ会訳の注解によると「今日でもそうであるが、当時のパレスチナの屋根はテラスのように平らであった。屋根は木の枝などの上に粘土を約三十センチの厚さに置いて、固めたものである。 したがって屋根に穴をあけるのは容易であった。」ということです。
そんなことから、中風の人と彼を運んで来た四人の男たちは、イエスが病人を癒してくださるという噂を聞き、何が何でもイエスに癒して欲しいという一心で いささか乱暴なふるまいに出たということでしょう。福音書の著者はそういう彼らの気持ちを「信仰」と表現しているのだと思います。

多くの日本語訳聖書で「信仰」と書かれているこのことばは、むしろ「信頼」を意味していると、田川建三は注解書に記しています。
マルコ福音書にはこの単語が5回出てくるが、そのいずれもが奇跡と関連しており、「信頼」の意味が強いとのことです。
イエスは彼らの気持ちに応えて明言なさいます。「あなたの罪は赦される」
私たちには「病気と罪」の関連性がビンときませんが、「当時の一般通念として、病は本人の、両親の、あるいは先祖の罪の結果であるとされた(ヨハネ9章1〜3節参照)」と、 佐藤研訳の注解に記されています。
ですから、「罪の赦し」は「病の癒し」と同義であった訳です。

イエスは「あなたの病は癒される」という代わりに、あえて「あなたの罪は赦される」と宣言されたのです。
案の定、次に見るような反発が起こります。

本文 2 : 6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
2 : 7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
2 : 8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。
「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
2 : 9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2 : 10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」
そして、中風の人に言われた。
2 : 11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
2 : 12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。
人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
律法学者との論争 律法学者は、1章22節でも引き合いに出されていましたが、ユダヤ教の根幹である律法の解釈をする学者たちで、当時、 民衆を(宗教的に)指導する立場にあった人達です。
ユダヤ教(いわゆる「旧約聖書」の説くところ)では、罪の赦しは神おひとりのみの権限であり、人間が(宗教的な)罪の赦しを宣言するなど、 とんでもない冒涜・神に対する不敬と考えられていました。
したがって、ここで律法学者がこう考えたのは、当時の状況からいえばきわめて当然のことといえます。

イエスは、それに対して挑発的ともいえる言葉で反論します。
   『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
言葉の論争としては、律法学者の方がユダヤ教の伝統に適ったものであることは明白です。
そこでイエスは「ことば」だけでなく、「業」をもってご自分の「意図」を人々に示します。

現代人はここに描写されるような「癒しの奇跡」を信じない傾向がありますが、イエスはちゅうちょなく「癒しの業」を実行なさいます。
それは人々に驚きをもって受け入れられ、神様への賛美を口にするのです。

マルコが伝える「イエスの福音」は、このように常に「イエスの業」を含んでいます。
だからこそ「地上で罪を赦す権威を持っている」イエスの姿が見えてくるのです。

「人の子」という表現は、聖書の中では、人間(の子供)という一般的な意味でよりは、ここのように「イエスの自己呼称」として使われることがしばしばあります。

私は、この場面から、イエスがいかに既存の宗教的常識に対して挑発的であったかを読み取りたいと思います。
長い年月にわたりユダヤ教の律法が人々の生き方を規定していたと現実に対して、イエスは「ことば」と「業」をもって挑発・挑戦しています。
イエスの生き方の意味や特性を、こういう場面から読み取りたいと思います。


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