本文 | 2 : 13 | イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。 |
2 : 14 | そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。 彼は立ち上がってイエスに従った。 |
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2 : 15 | イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。 実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。 |
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2 : 16 | ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 | |
2 : 17 | イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 | |
レビ、イエスと出会う |
新約聖書に収められている「福音書」は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つです。 ひとつの話(エピソード)が、複数の福音書に記されていることがしばしばあり、「並行記事、並行個所」として比較することが行われます。 マルコ2章13節の並行個所は、 マタイ 9-9 以下 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、 「わたしに従いなさい」と言われた。 彼は立ち上がってイエスに従った。 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、 イエスや弟子たちと同席していた。 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と 一緒に食事をするのか」と言った。 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って 学びなさい。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 ルカ 5-27 以下 その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、 「わたしに従いなさい」と言われた。 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。 そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。 ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。 「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」並行個所を比較すると、いくつかの不思議な点が発見できます。 第1は、マルコとルカとが「レビ」と記す人物の名前が、マタイでは「マタイ」となっています。 第2は、ルカには、マタイとマルコにはない「彼は何もかも捨てて(イエスに従った)」という説明が加わっています。 それから、日本語訳の問題として、次の点にも注意を払いたいと思います。 それは、新共同訳などで「わたしに従いなさい」と訳されている個所が、フランシスコ会訳では「わたしについて来なさい」となっていることです。 その後の「イエスに従った」の個所も、「彼は立ちあがって、イエズスについて行った。」と訳されています。 カトリック教会では、伝統的に「イエズス・キリスト」という呼び方をしています。 新共同訳聖書が使われるようになって、カトリックでも「イエス・キリスト」と呼ぶことが多くなって いますが、それでもミサの中で、また普段の用語として、「イエズス」を使う場合が結構あります。第2の問題から考えてみます。 フランシスコ会訳に従って読むと、この場面は「イエスがレビに<ついて来なさい>と言ったので、レビはイエスについて行った」という単純な記述とも受け取れます。 しかし、ルカの「何もかも捨てて・・・イエスに従った」を加味して読むと、この場面はまさに「イエスによるレビの召命物語」となります。 一体、レビなる人物は、持てるすべてを捨ててイエスの弟子グループに加わったのでしょうか? マルコ3章16章以下には、いわゆる12人の弟子の名前が記されています。 そこには「レビ」という名前は見出せません。 この矛盾を説明するために、次のような見解が登場するのです。 それは「レビは、マタイという別名を持っていた」という説明です。 よく言われるのは「レビはセム名で、使徒マタイ(ギリシア名)の別名。当時の人は、一般にこのように二つの名前を持っていた。」(フランシスコ会訳の脚注)というもの。 マルコとルカとは、同一人物の名前をこの個所ではレビと記し、12弟子のリストの個所ではマタイと記したということになります。 私は、無理にレビの別名がマタイであったとか、レビは12人の弟子のひとりとなったとかにこだわる読み方をすることもないのでは・・・と思います。 新共同訳での「イエスに従った」という単語を、しゃにむに「イエスの弟子になった」と 読むのであれば、そのあとの「大勢の人がいて、イエスに従っていた」ことから推測して、 イエスには12弟子どころかこの時点ですでに大勢の弟子が存在したことになってしまいます。 それは無理な読み方というものでしょう。 また、何もかも捨てたレビが「自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した」(ルカ5章29節) というのもおかしな話でしょう。ここは単純に「イエスはレビに声をかけた。レビはイエスについて行った」ということでよいのではないでしょうか。 むしろ大事なことは、イエスが声をかけたのが「収税所に座っていたレビ」だったという点でしょう。 当時のユダヤは、ローマ帝国の支配下にありました。そしてローマ皇帝の直轄地では、通行税が直接に皇帝の金庫に送られていたそうです。 それ以外の地域(この場面でもあるガリラヤ地方など)では、ローマ人以外の通行者から徴収した通行税は、それぞれの地域の王など(この場面では、ヘロデ・アンティパス)のふところに入っていたということです。(参考:田川建三の注解書) 徴税人はローマの手先であったので人々から嫌われていたとしばしば説明されるのですが、すべての地域でローマのための通行税が徴収されていたのではなく、この場面では明らかにそうではないのですから、徴税人が人々に毛嫌いされていたのには、別の理由があったと考える方が素直です。 私腹を肥やすなどの不正を行うことが多かったので、人々に嫌われ、律法学者たちからも「罪人」扱いされていたというのが真相でしょう。 いずれにしても、人々に毛嫌いされ、律法学者から非難されていた「徴税人」であるレビに、イエスは声をかけたのです。「ついて来なさい」と。 次の15節にも「大勢の徴税人や罪人」が出てきます。イエスがそういう人々と共に食事をなさる、座を共になさることにこだわりを覚えていないということにこそ、私たちは目を向けることが必要だと思います。 |
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律法学者との論争 |
前回に引き続き、律法学者がイエスに論争を挑んできます。 レビを収税所から連れ出したイエスは、レビの家で食事のもてなしを受けることになりました。 そしてその席にはイエスの弟子に加えて、大勢の人々が同席する始末です。 大勢の人々の中には、レビの仲間でしょうか徴税人たちも加わっており、さらには多くの「罪人」もいたと福音書は伝えています。 「罪人」という言葉は、日本人にはとても「やっかいな言葉」だと思います。 これを「つみびと」と発音するのはキリスト者くらいでしょう。多くの日本人は「ざいにん」と読むことでしょう。 「ざいにん」というイメージは、事件における加害者とか、横領や放火などの犯人と結びつくものです。 「なぜ、おれたちのことをキリスト教は<罪人>というのか」という非難の言葉を、私自身いくども浴びせられています。 聖書に出てくる「罪びと」は、そういうイメージとは違います。 刑法や民法上の「罪」ではなく、倫理的・道徳的な意味での「善の欠如」や「神のおきてに反する」ことがらを指しています。 乱暴な言い方をすれば、「穢れ」というイメージに近いと思います。 神社では、まず手を洗ってから神前に詣で、お祓いを受けたりします。このときイメージされるのは「邪気や穢れ」からの清めです。決して犯罪行為などの赦免ではありません。 当時のユダヤ社会では、(いわゆる)旧約聖書やそのこまかな解釈にもとづく「律法、儀礼、日常的に守るべき宗教上の掟」が何百項目にも達したといいます。 たとえば、安息日(当時は土曜日)には 炊事のための火を焚いてはならないとか、労働や外出( 900メートルを超える歩行)が禁じられていたなどです。私たちの感覚からはとても理解できない掟の数々です。 律法の専門家である律法学者ならいざ知らず、一般の市民、とりわけ日々の生活に四苦八苦の貧しい人々にとっては、そのような掟を完璧に守ることは至難の業です。 このような、当時の社会の中では底辺に生きていて、熱心なユダヤ教徒の目からは「穢れた存在:すなわた罪人」と蔑まれていた人々を、イエスはなんの拘りもなく招き、食事を共にしていたのです。 律法学者たちが、そういうイエスの振る舞いをこころよく思っていなかったのは、当時の事情としては当然のことです。 そこで、彼らはイエスの弟子たちに非難の声を浴びせます。 それを聞きつけたイエスは、ここで有名な言葉を発します。 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」 つまり、社会から見放されている人々にこそ、イエスのまなざしは向けられているということです。 私たちは、イエスが何のために「福音」を述べているのか、誰に向かって「福音」を告げているのかを、ここから読み取ることができると思います。 イエスの関心事は、ユダヤ教の教えを守ることに熱心な人々のことではなく、ユダヤ社会から見放された人々のことであったと考えます。 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 もう一度、並行個所に注意を払えば、ここでもルカ福音書だけに特別なフレーズが付加されています。 「罪人を招いて悔い改めさせるためである。」 悔い改めということばは、俗にいう「改心」ないし「回心」であり、これまでの生き方を悔いて新しい生き方をするようになるということです。 イエスは、そのようなことを「罪人」と蔑まれていた人に要求したのでしょうか? それでは律法学者と同じ立場に立つことになります。 むしろイエスは、人々を律法に照らして裁くのではなく、律法の束縛・拘束からくる「宗教的劣等感」から解放しようとなさっているのだと私には思えます。 マタイ福音書に出てくる「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という表現は、旧約聖書のホセア書6章6節にあるものです。 ここでいう「わたし」とは、神ご自身のことです。つまり、神は人々がご自分に向けて「いけにえ」を捧げる儀式をとりおこなうことよりも、人々が神を「知り、愛し」また互いに「憐み、共感、愛情」をもって生きることを望んでいるということ。 新共同訳では、 「わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく 神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。」 と訳されています。つまり、イエスは律法にもとづく各種の宗教的儀礼や形式重視の生活よりも、神のお望みをしっかりとこころに刻み、それに従って生きることの方が大事だということを、律法学者たちに「宣告」しているのです。 こういうスタンスのイエスが、ルカの記すような「悔い改め」を人々に要求したとは考えにくいことです。 どうも、ルカには、ユダヤ教的・律法学者的な発想から自由になっていない傾向があるようです。 ルカ福音書を読むときには、こうしたルカの傾向に注意を払うことが必要なように思えます。 なお、ルカ19章には、ザアカイという名の徴税人の話があります。 こちらの話にも、徴税人のところに宿泊したイエスのことを人々が非難する場面が出てきます。 徴税人が当時の社会では人々に毛嫌いされていたことが窺えるとともに、イエスがそうした風潮を全く気になさらなかったことが分かります。 とにかく、イエスと律法学者たちとの間には、次第に大きな溝のあることがはっきりとしてきました。 このことはイエスの死につながる伏線となっていくのです。 |