本文 | 1 : 21 | 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。 |
1 : 22 | 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。 | |
会堂での説教 |
カファルナウムという場所は、ガリラヤ湖北西岸の漁港のある町で、ペトロとアンデレの故郷です。(1章29節) 訳文では「カファルナウムに着いた」と書いてありますから、文字通りに読むとペトロとアンデレの召命はカファルナウム近郊のどこかだったということでしょうか。 イエスはこの町を拠点として活動をはじめることになります。 安息日は、ユダヤ教において、一週間のうち神に捧げられた聖なる一日であり、この日には労働を休み、神殿や会堂で神への賛美と感謝を捧げる大切な一日です。 具体的には、金曜日の日没から土曜日の日没までを指します。 ちなみに、キリスト教では日曜日が安息日(「主日」とか「主の日」と呼びますが)とされ、こちらは土曜日の日没から日曜日の日没までという定義ではないものの、伝統的に土曜日の夕方のミサでは 翌日の主日の典礼が行われていますので、ユダヤ教の影響があると考えてよいでしょう。 会堂は、ユダヤ教の教会ともいうべきもので、各地のユダヤ教の集会所であり、礼拝と宗教教育の場所として大事なところです。 ユダヤ教の人々は、安息日ごとに会堂に集まり、神への礼拝と(旧約)聖書の話しを聞くなどして、聖なる時間を過ごします。 イエスと弟子たちも、同じように振舞っていたと考えられます。 新共同訳では、ある安息日に、ここに記したような振る舞い、すなわち会堂に入ってイエスが教え始めた(便宜的に、説教したと表現しておきます)と読み取れます。 ただ、田川建三は、次のように説明して、「安息日毎に、彼は会堂にはいって教えをなすようになった」と訳しています。 21,22節は動詞はすべて未完了過去形だから、ここは字義通りに複数の意味にとる方がよいと思われる。 すなわち、安息日になるとイエスが会堂に出かけて行って話をすることがよくあった、という意味である。イエスの説教は、会堂に集まった人々に驚嘆をもって受け取られたようです。 それはこれまで会堂で教えていたファリサイ派の律法学者とは違って、(旧約)聖書やそれに由来する伝承の権威を振りかざして話すのではなく、イエスがご自身のことばで確信に満ちた話をなさったからだと思われます。 具体的にどのような内容であったかは、ここでは明らかではありませんが、いずれ、イエスの説教の一端はマルコ福音書にもとりあげられることになります。 |
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本文 | 1 : 23 | そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 |
1 : 24 | 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 | |
1 : 25 | イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 | |
1 : 26 | 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。 | |
1 : 27 | 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」 | |
1 : 28 | イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。 | |
はじめての奇跡 |
この会堂に「汚れた霊に取りつかれた男」がいたとマルコは紹介します。 汚れた霊は、悪霊と同じ意味に解してよいでしょう。「聖と穢れ」「善と悪」のような対比で人々は、神に反する存在(悪霊、悪魔)を受け止め、病気や災いを悪霊の働きとして 恐れていた訳です。 現代的に理解すれば、発作的症状をともなう病気にかかっていた人と考えてよいと思います。 イエスはこの人をその病気(悪霊の支配)から解放します。 しかも、ただ「一言」で。 こういう奇跡物語を信じないという(現代)人が多いと思いますが、イエスの時代の人々は、目の前の不思議な出来事を素直に受け止めています。 福音書を読む際、奇跡物語は信じられないと頭から否定するのではなく、当時の人々はこのように理解するのが「普通・当然」だったと受け止める視点が必要だと思います。 イエスの教えは、「ことば:説教」と「わざ:奇跡」のかたちで記録されています。マルコはどちらかといえば、「わざ」の部分に関心を示しているように思えます。 ということで、しばらくは、奇跡物語を頭から否定する姿勢をちょっと脇において、マルコのレポートを読んでみたいと思うのです。 とにかく、イエスの奇跡物語は、あっという間にこの地域の人々に伝播していきます。 イエスはこうして「無名の人」から、「奇跡を行う力ある方」として、人々に受け取られる立場に変わっていったのでした。 マルコの伝えるイエス像は、決して無力な人ではなく、あくまでも力ある方なのです。 |