JIJI と読むマルコ福音書  (4)
聖書引用は特記事項ない場合「新共同訳」

本文 1 : 12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
1 : 13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。
その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
荒野での誘惑 いわゆる「荒野での誘惑物語」のシーンですが、マルコはいかにもそっけない記述で済ませています。
他方、マタイでは有名な聖句「人はパンのみにて生きるにあらず」を含む、ストーリー性に満ちた物語として記しています。

要するにマルコにとって、このあたりの「伝承」は、ほとんど関心の持てない事柄。 イエスの福音を伝えるに際して、さしたる重要事項とは考えていないということでしょう。
マルコとマタイとでは、イエスの福音の捉え方がかなり違うようなのです。

13節の後半は、「野獣と一緒におられた」の部分と、「天使たちが仕えていた」の部分とを、新共同訳では「対立的」に表現していますが、すでに紹介した 佐藤研の訳 では  「むしろ並列関係にある」 として、「彼は野獣たちと共におり、御使いたちが彼に仕えていた」と訳しています。
野獣たちとの生活を、イザヤ書11章6節以下のイメージと重ね、「平和的な同居」と解釈しているからです。
   11:6 狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち 小さい子供がそれらを導く。
   11:7 牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
   11:8 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ 幼子は蝮の巣に手を入れる。
   11:9 わたしの聖なる山においては 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
     水が海を覆っているように 大地は主を知る知識で満たされる。
これから次第に明らかになっていくマルコの視点をふまえれば、もっともな解釈・翻訳という気がします。
本文 1 : 14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
1 : 15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
宣教の開始 いよいよ、イエスの物語が本格的に始まります。

ヨハネは、国王ヘロデによって「捕らえられ、牢につながれた」とマルコ6章17節は伝えています。
これがイエスの受洗のどれくらい後の話であるかは明らかでありません。
「荒野での誘惑」の直後であったのか、もう少し後の出来事であったのかは不明です。
とにかく、ある時点で、イエスは預言者のもとを去り、ご自分の故郷であるガリラヤ地方に移動して、ヨハネ直伝の宣教ではなく、 イエスご自身の宣教「神の福音」を述べ始めたということです。

「神の福音」という言葉は、考えようによっては解釈の難しい文言です。
☆ 神に関する福音なのか
☆ 神が示しておられる福音を指しているのか
この表現はパウロ的表現であり、ここと第1ペトロ書4章17節を別にすれば、あとはパウロの書簡にしか出てこないと、  田川建三 は指摘しています。(マルコ福音書 上巻 p.59)

イエスの宣教の言葉「時は満ち」、「神の国は近づいた」、「悔い改めて」、「福音を信じなさい」も、それぞれに解釈が難しいものです。

「時は満ち」の個所を、佐藤研訳では 「 [定めの] 時は満ちた」 と言葉を補っており、脚注に
   洗礼者ヨハネの宣教によって視野に入ってきた、終末的な「救いの時」と理解する。
   他の訳はすべて単に「時は満ちた」と訳し、ここの「時」の特殊性を考慮していない。
と指摘しています。 つまり、イエスの宣教によって、人類史上の決定的な「現実」が今ここに実存するのだ ・・・ と力強く宣言されたと 読むのです。

同じことが「神の国は近づいた」でもいえます。
「神の国」を「神の支配」と理解するのが適切であると多くの学者が記しています。
国という概念が地理的なものとして認識されがちなことから、 むしろ「神の思い・意思が、そこに実現している状態」という「現実」を指しているのが「神の国」の意味だと言うわけです。
「支配」を暴君の意のままに国民を服従させている状態ととるのではなく、神の思いがそこでは人々に受け入れられ、実行されている ・・・ そういう 状態を指していると読むことになります。

つまり「神の国は近づいた」とは、「今、ここに神のご意思・神の思いが実現する現実が生まれようとしている」というメッセージです。

したがって、「神の福音」とは神に関する知識(神学)などであろうはずはなく、神が私たちにどういうことを示したいのか、どうあることを望んでいらっしゃるのか ・・・ を 指していると読み取ります。

イエスはご自分の宣教によって、今、現実に神の思い・ご意思がここに実現しようとしている ・・・ と力強く宣言し、人々に呼びかけます。 「悔い改めて」「福音を信じなさい」。
悔い改め イエスは人々に、神の思い・ご意思を提示するに当たり「悔い改め」を要求しています。
すでに見たように、ヨハネもまた「悔い改め」と「洗礼」を人々に要求していました。
では、イエスの宣教はヨハネの宣教の継続でしょうか?

ヨハネの悔い改めの最終目的は「罪の赦しを得させるため」のものでした。
ユダヤ教では、神の示した戒めを破ることが「罪」であり、その罰を免れるすなわち罪の赦しは重大関心事であったのです。
しかしイエスのいう「悔い改め」は、そうではないと多くの聖書学者は説明しています。
一例として、田川建三 の前掲書 p.63 を参照します。
   悔い改め(メタノイア)とは、よく言われるように、単なる過去のあやまちの悔悛ではなく、
   思い(ノイア)を変えること(メタ)、いわば全実存をあげての方向転換である。
つまりイエスの要求は「罪の後悔」ではなく、人々が、今明らかにされる神のご意思を本気で受け止め、そこに己の全人生をかけよ! という 強烈なものだということになります。

ヨハネの宣教とイエスの宣教とには、このように大きな違いがあります。
その本質は、これから段々と明らかになりますが、ヨハネとの違いは

☆ ヨハネが荒野を活動の拠点に、世間離れしたその日常生活を営み、人々がヨハネのもとに集まっていた。

のに対して、

☆ イエスは当時のユダヤ社会の真っ只中で、人々と交わり一緒に「飲み食い」をしながら、「福音」を示した。

という現象面にも現れています。
もちろんユダヤ教の主流に対して批判的立場をとっているという点では共通していますが。


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