JIJI と読むマルコ福音書  (3)
聖書引用は特記事項ない場合「新共同訳」

本文 1 : 5 ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
1 : 6 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1 : 7 彼はこう宣べ伝えた。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
1 : 8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
ユダヤ教社会 当時のユダヤ教は、エルサレムの神殿 (祭りを行い、犠牲を捧げる場) を中心に実権を握っていた「サドカイ派」と、 各地の会堂 (聖書を学び、祈りを捧げる場) などで宗教的指導者として活動していた「ファリサイ派」とが主流をなしており、 洗礼者ヨハネがそのいずれにも属していなかったことは、ここに書かれている異様な服装からも容易に推測できます。
つまりヨハネはエルサレムのような都市や、人々が生活を営む町や村を中心にしたユダヤ教とは一線を画す立場であったと考えられます。
聖書の解説書の中には「荒野の隠者」という表現も発見できます。

ちょっと大げさに言えば、洗礼者ヨハネは、既存のユダヤ教に対して批判的な立場をとっていたということです。
これは、ヨハネの最期(マルコ6章17節以下)と照らし合わせれば、納得のいくことでしょう。

当時のユダヤ教社会には、他にも非主流派のグループが存在していたことが分かっています。
1947年に発見された 「死海文書」 で 脚光を浴びるようになったクムランのグループ ( エッセネ派 とみなす学者もいる) なども そのひとつです。

ということで、当時のユダヤ教の体制に飽き足りない思いを抱き、それに批判的に生きる人々がいたことが見えてきました。

イエスもまた、そういう宗教的な動きの中にその身を置こうとしているようです。

洗礼者ヨハネの立場と、イエスの思いとが一致していたかどうかの判断は後ほどの課題にするとして、とにかくイエスはヨハネのもとに 姿を現そうとしています。
ここに書かれたヨハネの言葉が、そのとおりに語られたのか、誕生したばかりのキリスト教会側の「理解・解釈」だったかは別にして、 ヨハネと同様、イエスもまたユダヤ教非主流の立場に立っていたのだ ・・・ という主張が、ここから伝わって来るようです。

本文 1 : 9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
1 : 10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
1 : 11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
イエスの受洗 前回の個所にも書いたのですが、なせ洗礼者ヨハネという先駆者を必要としたのか? また、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた理由は何か?  という点に私は疑問を持っています。
   わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。
ヨハネのこの言葉が、イエスを指しての「予言」だったとすれば、イエスに洗礼を授けるというのは不自然です。

マタイは、この点を次のように説明しています。
   3:13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
   3:14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。
      「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
   3:15 しかし、イエスはお答えになった。
      「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
      そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
何とも弁解がましい説明だとは思いませんか?
このような「護教的」な説明は、現代のカトリック教会でも行われています。
 「イエスは私たちにお手本を示すために洗礼を受けられた」 といった説教が、この個所に関しては常だと記憶します。

イエスとヨハネとの最初の対面がどのような状況下で行われたかを推測することは困難ですが、マルコの記述の核心すなわち「イエスの受洗」そのものが歴史的事実だとすれば、 ヨハネはイエスを特別な存在と認識していたのではなく、単にひとりのユダヤ人として他の人々と同じように洗礼を授けたということ(だけ)が事実であり、 その他の記述は、キリスト教会による付け足しと解するのが素直ではないでしょうか?

10節、11節のような超自然的な現象が起こったのであれば、ヨハネも、その弟子たちも、またそこに居合わせた多くのユダヤ教の人々も イエスを「神の愛子」として認め、即座に「イエスに従う者」となったのではないでしょうか。
実際には、ヨハネ自身、後に自分の弟子たちをイエスのもとに行かせ、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねさせているのです。 (マタイ11章3節)
イエス受洗の時点で、ヨハネがイエスを特別な存在だと認識していたとは、とうてい思えないのです。
ということで、私はイエスの受洗そのものを否定する根拠はないと考えますが、この場面の描写には、キリスト教会の「解釈」が色濃く反映しているように 思えてなりません。


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