JIJI と読むマルコ福音書  (2)
聖書引用は特記事項ない場合「新共同訳」    
本文 1 : 2 預言者イザヤの書にこう書いてある。
「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。
1 : 3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。
『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、
1 : 4 洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。
ちょっとした疑問 上記の個所を一読すると、
   見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。
   荒れ野で叫ぶ者の声がする。
   『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』
という文章全体が、旧約聖書のイザヤ書から引用されているという印象を受けます。
1章3節は、たしかにイザヤ40章3節の引用ですが、1章2節後半の文言はそこにはありません。
出エジプト記23章20節と、マラキ書3章1節とを混合した文章だと説明されることが多いようです。

面白いことに、マタイ福音書では同じ場面の描写(3章3節)で、正確にイザヤ書からの引用部分のみを記し、 問題の「混合した引用」は、別の個所(11章10節)に収めています。
聖書学者はいろいろな説明を試みているようですが、それには深入りしないことにします。
JIJI の感想 聖書はキリスト教の中心で、誤りのない「神聖な書物」であるといった観念を持つ人々がいますが、 ここで取り上げたような「客観的にみて明らかに錯覚、間違い」といえる部分が、聖書の中には確かに存在します。
多くのキリスト者は、こういう部分を直視したがらないようですが、聖書を構成する諸文書の著者が勘違いをしたり、 写本家が何らかの意図をもって書き換えたりというケースがあったであろうことは否定できないことだろうと思います。
私たちにとって、聖書は神からのメッセージを伝えるものであるとはいえ、人間的なミスがそこに混じり込む可能性があると いうことを冷静に受け止めることが必要でしょう。

聖書を「そのまんま、字面の通りに受け取る」こと (いわゆる「原理主義」といわれる立場) がベストとはいえないことを、この個所から学びたいと思います。
洗礼者ヨハネ 旧約聖書からの引用ミスはともかくとして、ではなぜこれらの個所が洗礼者ヨハネに適用される「予言」として 用いられているのでしょうか?
田川建三 によると
   K.ステンダールはこれを、洗礼者ヨハネの弟子たちがこのように言っていたのをそのまま採用したものだと、推定する。
   (中略)
   つまり、洗礼者ヨハネは、終末の時に神自身が明らさまに顕現する前に現れる先駆者である、という信仰である。
   それをキリスト教会において、神自身の先駆者というよりはむしろイエス・キリストの先駆者である、という意味に
   変えて解釈したものであろう。
と解釈しています。(「マルコ福音書 上巻」)

洗礼者ヨハネとイエスの関係は、確かに密接なものがありますが、しかしだからといって、
☆ 洗礼者ヨハネが師であり、イエスが弟子だったということでもなく、
☆ イエスを「神の子」と信じる立場からは、あえて先駆者がいなくてもよいのでは・・・
という気がしてなりません。

ところで洗礼者ヨハネが、実はイエスの親戚であるというような記述がルカ福音書にあります(1章36節以下)が、 マルコはそのような事柄には関心を示しません。
この姿勢を私は信用します。
マタイやルカは、イエスの家系をながながと記述し、読者にイエスが特別な方であることを印象づけようとしています。

ちょっと話がそれますが、昨年話題になった「ダ・ヴィンチ・コード」では、イエスは結婚して子どもを残し、その子孫が今も存在する という「歴史を覆す事実」が明らかになった ・・・ と騒がれました。
マタイやルカとは違う意味で、この新事実(?)を喧伝する人々は「血脈」を大事に考えているということです。
しかし、そういうものでしょうか?  イエスの子孫が今も存在するとして、だからどうだっていうの?  というのが私の率直な感想です。
その人が、イエスと同じように「病人をいやし、パンを増やす」などの奇跡をおこなっているというのでしょうか?
神のメッセージをより豊かに、またクリアに、その人が語っているとでもいうのでしょうか?

イエスの血脈を云々することは、先祖の方向に向かっても、子孫の方向に向かっても、意味のあることとは思いません。

イエスのお姿を、余計な飾りたてを抜きに、しっかりと見つめるようにしたいと願っています。


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