<b>ブログ読者の方へのメール</b>
ブログ読者の方へのメール

先月のブログについて、ある方から感想などを頂戴しました。 有り難いことです。
私からのレス2件(抜粋)を、ご本人様のご了解の下、ご紹介いたします。



   さっそくブログをご覧いただきありがとうございます。

   体調を損なわれたとのこと、どうぞご無理をなさらないようご自愛ください。
   当方、今のところ、定例の医者通いはしているものの、大きな変化なく過ごしております。
   ただ気温の急変にはついていけない「廃車寸前」状態で、昨日あたり、歌のレッスンで
   大阪に出かけ、少々バテバテで戻ってきました。

   阪神タイガース、よう分かりませんねぇ。 あの試合、監督は「お見合いしてのヒットよりは、
   まぁ、まし・・・」と言ってましたが、本当に惜しいですね。
   岩貞投手にはこういうのを乗り越えていくことを期待しています。

   監督のいう「超変革」も、まあ、一年目でから、長い目で見ないと ・・・ ということでしょう。

   キリスト教をめぐる記事は、ブログの読者?のひとりでもある、会社の同期入社の友人
   (「月一 でもブログを続けるよう」 けしかけてきた人物です・・・) が、昨年クリスマスに、
   ご家族の影響を受けてプロテスタント教会で洗礼を受けたことを意識して、取り上げた
   テーマでした。

   私の場合、10代で受洗し、40代に「第二バチカン公会議」によるカトリックの刷新・
   近代化路線を受けて、信仰の総点検を行い、いまの 『脱キリスト教』 の心境に到達した
   のですが、くだんの彼は、今、クリスチャンになったばかりのことから、残りの時間で
   どんな信仰形成をしていくのか?  余計な老婆心から 「あのような」 テーマをあえて
   取り上げたのでした。

   聖書の中のエピソードを、あれこれ「御託を並べて解説」することは、私の好むところ
   ではありません。 すべてがイエスのことばそのものかどうかも判断しがたいことだと
   思っています。 福音史家(=当時、各地の信仰共同体に散在していた)が、数十年前に
   耳にした話を、それぞれの信仰の場で文字にしたものですから、現代に生きる私たちが
   イメージする 『記録ドキュメンタリー』 と同じ感覚で読むのは、全くの的外れというケースが多いと
   思います。

   ご指摘の「タラントンのたとえ話」(マタイ 25:14 〜)なども、どう解釈するのがベストか?
   私にはさっぱり分かりません。 (才能を開花させるのは、その受けた才能の程度に応じ
   てで一向に構わない。 ただ、宝の持ち腐れにだけは陥らないように ・・・ くらいにしか、
   私には読み込めていません。 「みんなちがって、みんないい」という感覚でしょうか。)

   そもそも4つの福音書のエピソード相互間に、矛盾した部分がある点など(たとえば、
   12使徒の名前の不一致 : マタイ10章、マルコ3章、ルカ6章)、学問として扱うことに
   馴染まないのではないかと思っています。

   同期入社の彼への私からのメッセージを書き終えたので、7月以降の「テーマ」は未定
   です。 本来なら昨年12月で終わるべきブログでしたので、いつやめても、私的には
   何の未練もないものです。

   今のところの私の課題は、歌の教室(ベルカントで歌う)でのイタリア語の歌の練習のみ
   です。 最近、呼吸法を変えることで、高音部が出やすくなった気がしますが、ちょっと
   油断する(体幹の保持、口腔の開き方などの注意を怠る)と、とたんに発声が × に
   なるということが、自覚できるようになりました。 やはり「身体作り」がベースになって
   いると実感します。

   キリスト教にもひとつのけじめをつけ、また、プログラミングなり設計の分野も、すでに
   卒業してしまい、今、手許にあるのは、歌うことを少々でもレベルアップすることだけで
   しょうか。 これとて特段の意味もない事柄ですが、せめてそういうことでもしないこと
   には、文字通り「喰って寝る」だけの日々になってしまいます。

   もう少々だけ、おつきあいください。  有難うございました。





   早速のレス、有難うございます。

   ・ 実は私も最近は物忘れが多く、女房によく注意されています。
     今朝も、起きがけに「昨日のタイーガース VS DeNA戦の勝敗」をすっかり忘れて
     いて、もう一度、新聞のスポーツ欄をチェックし、勝敗を確かめたというドジぶりです。
     こういうケースが頻発していまして、『もう、歳だ、あかん』 と思うことがしばしばです。

   ・ 『歎異抄』 のことは、手許に一冊だけ本があったはずなのですが、処分したらしく
     見当たりません。
     なんとなくの記憶では、親鸞聖人の教えを弟子がどのように 「解釈・継承」 していく
     かで、いろいろな論争?があった ・・・ という内容だったと思います。

     キリスト教でも、福音書が提示するイエスの姿と、パウロ書簡から読み取れる宗教
     観とでは、かなり違いがあります。 「イエスなり親鸞」が教えた内容を巡り、その
     弟子たちの間には、ある「説話」をどのように解釈・継承するかを巡って、内部対立
     が起こっていたのでは ・・・ という思いを抱きます。

     この 「解釈の違い」 で、無用の神学論争を続ける悪しき慣習はその後もずっと繰り
     返され、キリスト教 (そして、もしかすると浄土真宗) に、不毛ないさかいを生み
     出し続けているのでは? と思ってしまいます。

   ・ 私の 『脱キリスト教』 という究極のスタンスは、「宗教・宗派」の違いにこだわりを
     持って論争をする暇があれば、むしろイエスや親鸞聖人の生き様を、今、自分は
     どういう形で追体験・実践できるのか? という方向に向けていきたい ・・・ と
     いうことでした。

     55歳で退職後、3年間のソフトハウスでの勤務をしている中で、この「問いかけ」は
     ずっと私を捉えていて、1993年のゴールデンウィークに過ごした、京都の宇治市に
     あるカルメル会修道院での研修会( 『私は誰か?』 という、フランスで始まった
     大人のキリスト信者向けの研修カリキュラム)の中で、徹底的に考えさせられたの
     でした。

     それが、結果的に 『社会的に小さくされている人々』 と歩みを共にする ・・・ という
     『目線』に絞られ、プロップ・ステーションという障害者就労支援団体への参加('94年
     春)に到ったのでした。

     同様の意味で、「メモリアル・キルト・ジャパン」という HIV/AIDS 患者の家族に寄り
     添う活動にも連なりました。 ただ、こちらの方は、いろいろな事情があり、ながく
     継続することは叶いませんでした。

        しかしこれが契機となり、私は改憲論に組することとなります。 対象は
        憲法第24条1項です。
        改憲というとすぐに第9条(だけ)に目が行きますが、それ以外にも手を
        付けることが急がれるテーマがあることに、人々が気づいていないことを
        残念に思います。

        すでに、ブログ http://ilovejesus.minibird.jp/katte/a0303.htm に記した
        とおりです。

   ・ 年齢からみても、もうそういう事柄が実現するまで見届けることはできないと、
     あきらめていますが、若い人々が、従来の価値観に捉われることなく、新しい
     目線をもってくれることを切に期待しています。


   勝手な 「たわごと」 にお付き合いいただき、有難うございました。