JIJI と読むマルコ福音書  (1)
聖書引用は特記事項ない場合「新共同訳」    
本文 1 : 1 神の子イエス・キリストの福音の初め。
JIJI の狙い マルコ福音書の冒頭は、実に単純明快です。
他の福音書が、イエスの家系をくどくどと記述したり、イエスは天地万物が創造される以前から 存在した方だというような高尚な説明から始まるのに対して、マルコは<神の子イエス>について 記述しはじめるぞ!!と単純に、しかし力強く宣言しています。

とはいっても、この短いメッセージには、いろいろな「考えておきたい課題」が含まれています。

最大の課題は<イエス・キリストの福音>ということばは、何を指しているか? という点でしょう。

<福音>が、よい知らせ good news という意味であることはよく知られているところですが、 では<イエス・キリストの福音>とは、何を指しているのか? という点になると、決して簡単ではありません。

☆ イエスが示してくださった good news つまり、イエスの教えのことでしょうか?
☆ イエスが人々の中で具体的に見せておられたイエスの生き様のことでしょうか?
☆ それとも、マルコはイエスの存在それ自体を good news だと言いたいのでしょうか?

この課題を、今回のテーマとしてずっと追求してみたいと考えています。
私たちは、マルコ福音書を通して、何を<福音>と理解するのがベストなのか?
マルコが私たちに伝えたかった<福音>とは何だったのか?
では、マルコを通しての<福音>探求の旅を始めましょう。
神の子 <神の子>ということばを、後世の写本家による加筆と考える学者もあるようです。
有名な  シナイ写本 などでは単に<イエス・キリストの福音>となっているそうです。

個人的には次のように考えています。
これが後世の加筆であったとしても、問題のことばを加筆した写本家は、マルコ福音書を通して <神の子イエス・キリスト>という信仰を確信するに至ったからではなかろうか。
つまり件の写本家は、イエスを<神の子>として受けとめるところに、彼なりの<福音>発見をした ということでしょう。
福音の初め 引用している新共同訳聖書では「初め」ですが、フランシスコ会訳聖書では「始まり」と訳しています。
一方、  岩波書店から出版されている佐藤研の訳  では、ここが「源」となっています。
その理由を、こう説明しています。

    原語(arche)には単に時間的意味以上のものがある。

つまり、マルコは福音の「源」ないし原点を、福音書という独自の形で提示しようとしているのだと説明しています。

ということは、マルコは、この福音書を読む人々に、ここにイエスの福音の原点があることを発見して欲しいと 願っているということです。

たった一行の 1章1節 の中に、聖書の写本家や翻訳者は、いろいろな「思い」を込めているのですね。
私たちも、その人々の万分の一でもの「思い」を込めて、読み進めていきたいと願っています。


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