その3:パコ神父のケース(前甲子園教会主任司祭)

第1の出来事(1998/7/26)

第1の出来事に関する「私の質問」と「神父の回答」

第2の出来事(2000/2/13)


第1の出来事(1998/7/26)
この日曜日、甲子園教会では「ミサ」がなくて、代わりに「集会祭儀」が行なわれ ました。
その理由は、神父が日曜学校のキャンプに参加して「不在」となったためです。

ミサは、司祭・司教でなければ執行することができません。
最近は、世界的に司祭不足となり、ミサを行うことができない教会では、それに代えて集会祭儀が行なわれるという現象が見られます。
集会祭儀では、必要な研修を 受けた信徒が、儀式を司式します。

ですから、このこと自体は別に特異なことではありません。
ただし、カトリック教会では、信仰生活の中心にミサを位置づけていますので、 集会祭儀でミサに代える際には、それなりの理由や事前の説明が必要だと思われ ます。

7/26 の集会祭儀について、この点を検証しましょう。

1)司祭の留守には、正当な理由があったのか。
甲子園教会では、毎年、日曜学校のキャンプが行なわれており、行き先はほとんどの場合、教会関係の施設です。
'98 の場合も、和歌山県の教会が行き先でした。日曜学校の先生や保護者がそこに同行していましたし、日曜日にはそちらの教会でミサに与ることが可能でした。

次週のミサの中で、神父は「甲子園でミサをする選択の方が、気持ちは楽だったが、子供たちのことを大事に考えたので苦しい選択をした」と説明しました。
私は、それなりに主任司祭には「理由」があったと理解しました。

ただし、このことが第2の出来事の「原因」となるのです。
2)事前の周知は必要ではないのか。
カトリック信者は、ミサを大事にします。それだけに、ミサが行なわれない場合には、それなりの事前周知が必要です。
ミサにどうしても与りたい信者は、周辺の教会でミサに与ることを希望するケースが結構多いからです。

日曜学校のキャンプは、早い時期から計画されていたことで、司祭がそれに同行するのであれば、事前に必要な措置を講じることが可能です。
事実、他の教会などの神父に、甲子園でのミサの執行を依頼する試みを行なっていたようです。そのことは理解できます。
結果的に、当日、甲子園に来てくれる司祭が見つからなかったということのようです。このことも理解できることです。

問題は、結果として、ミサが集会祭儀に代わるという「情報」が、事前に全くアナウンスされていないという事実です。
前の日曜日に、「実はあちこちに依頼をしているが、まだ確約が得られない。最悪の場合、ミサに代えて集会祭儀になるので、了知して欲しい」という事前周知を行なわなかったことです。

信者がミサを大事に考えているだけに、そういう事前周知はぜひ行なって欲しかったことです。
しかし、それはありませんでした。
3)司式者は、信徒の知らない間に決まるものなのか。
聖書に次のようなことばがあります。(Tテモテ3:1 〜 10)
この言葉は真実です。「監督の職を求める人がいれば、その人は良い仕事を望んでいる。」
だから、監督は、非のうちどころがなく、一人の妻の夫であり、節制し、分別があり、礼儀正しく、客を親切にもてなし、よく教えることができなければなりません。
また、酒におぼれず、乱暴でなく、寛容で、争いを好まず、金銭に執着せず、自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません。
自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか。
監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。
更に、監督は、教会以外の人々からも良い評判を得ている人でなければなりません。
そうでなければ、中傷され、悪魔の罠に陥りかねないからです。
同じように、奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません。
この人々もまず審査を受けるべきです。その上で、非難される点がなければ、奉仕者の務めに就かせなさい。
その教会の奉仕者である集会祭儀の司式者は、一般的に、信徒の中から推薦され、司祭の承諾を得た人が、研修を経て、その役割につくことになります。
当然、信徒は誰がそのような研修を受け、集会祭儀を司式するかを知っています。
甲子園教会では、当時、そのような司式者の研修を受けた人はいないと理解されていました。
信徒評議会では、司祭からそうした相談を受けておらず、誰かを推薦することも全くなかったのです。
というより、ミサに代わる集会祭儀が日曜日に行なわれることを、全く予想していなかったというのが実態でしょう。

当日は、信徒会長からいきなり「ミサに代えて集会祭儀をする。司式はその研修を受けている○○さん」とアナウンスされました。

「○○さんて、誰や」「○○さんが、司式者の研修受けとったとは、知らなんだ」というのが、大方の感想でした。
そういう状況の中で、当日の主日の礼拝「集会祭儀」は始まりました。
このような安易な「ミサの代わりの集会祭儀」が、信徒のよろこんで受け入れるものといえるのかどうか?
それが、パコ神父に対する不信感を抱かせた出発点となるのでした。
第1の出来事に関する「私の質問」と「神父の回答」)
 
《 7/28   私から神父への質問メール 》
主日の「みことばの祭儀」について   (注:ここでの「みことばの祭儀」は、「集会祭儀」のこと)
1) みことばの祭儀と家族による祈りとの違いは?
今週の日曜日、私は初めて主日に「みことばの祭儀」に与りました。
当日、私の家族と嫁の実家の家族が10名そこにいました。

もし、その10名が我が家で賛美と感謝の祈りの集まりをしたとして、それは、聖堂におけるみことばの祭儀に与ることと、本質的に差異のあるものなのでしょうか?

そのいずれの集まりにもイエス様が臨在されることは、マタイ18章20節で明らかなことだと思います。
家庭における祈りの集いをどのように進めるかの規範はありませんが、我が家では、毎日、その日のミサの聖書朗読個所をよみ、「毎日の黙想」(みことばの泉社刊)を味わう習慣がありますので、それに加えて賛美と感謝の聖歌を共に歌うことになると思います。

小教区でのみことばの祭儀には、主日の義務を果たす効果があるが、家族の祈りにはそれがないといえるのでしょうか?
2) 主の食卓の本質は何か?
ミサには、「カルバリオにおいて一度成し遂げられた十字架のいけにえ」の「感嘆すべき仕方で」の「再現」という面と、キリストのおん体の食卓をかこむという面とがあると理解しています。

みことばの祭儀では、いわゆる主の食卓という要素が欠けていると感じるのですが、いかがでしょうか?

聖体拝領は行われますが、ミサ(主の食卓をかこむ)抜きの聖体拝領では、本来の主の食卓の意味が出てこないように思います。

聖書では、
・ すなわち、主イエスは死に渡される夜、パンを取り・・・
   ・・・このように行いなさい。(1コリント11の23〜)

・ パンを取り、感謝をささげてこれを手で分け・・・
   私を記念するためにこれを行いなさい。(ルカ22章19節)
いずれの場合も、「パンを取り」「感謝をささげ」「手で分け」という方法で、主の食卓を再現ないし継承しています。

みことばの祭儀につづく聖体拝領では、このようなことが行われていません。
別の機会に「聖別されたご聖体」を、単純に頂くだけです。
これで、主の食卓を囲むといえるのでしょうか?

私は、食前の祈りとして、1コリント11章23節以下を唱えます。
決して、パンにイエス様が現存するとは考えていません。
しかし、私たちのなかにイエス様が臨在し、イエス様と一緒に食事をいただく恵みを感謝しています。

第2バチカン公会議以前は、ご聖体自体を「イエス様のおん体」として(単独でも)大事にしていました。
聖体訪問、聖体の前での祈りが、それ自体として尊いものとして勧められていました。
一方、現在のミサの理解では、ご聖体は、とりわけミサにおいてこそ、本来の意味を持つというように私は聞かされていますが、そうではないのでしょうか?
小教区で主日にミサが行われない状況は、残念ながら避けられない事態だと思います。
この場合、みことばの祭儀プラス聖体拝領だけが、信徒の唯一の選択肢なのでしょうか?

私は、信徒が数人集まって祈ることによっても、主日の感謝と賛美の業を神様に向かって捧げることはできるのではないかと考えます。

こうした考えについて、神学的な立場からのコメントを頂ければ幸いです。
 
《 8/6   パコ神父からの回答メール 》
1) みことばの祭儀と家族による祈り
もし、我が家で賛美と感謝の祈りの集まりをしたとして、それは、聖堂におけるみことばの祭儀に与ることと、本質的に差異のあるものなのでしょうか?
小教区でのみことばの祭儀には、主日の義務を果たす効果があるが、家族の祈りにはそれがないといえるのでしょうか?
旧約の時代に、神様は1週間に1度(このころは土曜日でしたが)の祝日をおさだめになり、人々はこの日を「聖」としなければなりませんでした。
新約の時代にはいり、教会がうまれ、この祝日は「主の日」としてイエスの復活をきねんする日となりました。
『教会』はギリシャ語で『エクレシア』といい、このほんらいの意味は共同体(人々のあつまり)をあらわすことばです。
わたしたちは「主の日」と「共同体」をべつべつのものとして考えることはできません。この2つのことは、ほとんど同じといってもよいでしょう。
主日を「聖」とするために、共同体はあつまってミサをささげます。
教会の教えによってとくに強められることは、「ミサ」ではなく「共同体」なのです。共同体は1人もあつまらない時には、司祭はミサをささげることがゆるされていません。
※CA-906
正当かつ合理的理由がない限り司祭は、少なくとも1人の信者の参加も得られない場合はミサを挙行してはならない。
つまり、主日の義務をはたすためにその土地の共同体があつまることが、もっともよいのです。
そして、その共同体の祈りはけっして個人の祈りではなく教会の祈り、すなわち「典礼」です。
ミサと現代教会がさだめた「みことばの祭儀」は、どちらも教会の公的な「典礼」であることを受けとめてください。
たとえもし「みことばの祭儀」のかわりに個人の家であつまって祈ったとしても(それはけっして悪い祈りではありませんが)主日のつとめをはたすことにはならないでしょう。

2) 主の食卓
みことばの祭儀では、主の食卓という要素が欠けていると感じるのですが、いかがでしょうか?
聖体拝領は行われますが、ミサ(主の食卓をかこむ)抜きの聖体拝領では、本来の主の食卓の意味が出てこないように思います。
別の機会に「聖別されたご聖体」を、単純に頂くだけです。これで、主の食卓を囲むといえるのでしょうか?
第2バチカン公会議以前は、ご聖体自体を「イエス様のおん体」として(単独でも)大事にしていました。聖体訪問、聖体の前での祈りが、それ自体として尊いものとして勧められていました。
一方、現在のミサの理解では、ご聖体はとりわけミサにおいてこそ、本来の意味を持つというように私は聞かされていますが、そうではないのでしょうか?
教会のさだめる「ミサ」を、もう一度よく考えてみてください。
※CA-899
(1)ミサは、キリスト自身及び教会の行為であり、そのなかにおいてパンとぶどう酒の形色のもとに実体的に現存する主キリストが司祭の奉仕職をとおして自分自身を父である神に奉献し、かつその奉献と結ばれる信者に自らを霊的食物として与えるのである。
(2)ミサの集会において神の民は、キリストに代わって行う司教又はその権限下の司祭を司式者として一つに呼び集められる。
出席するすべての信者は、聖職者であれ信徒であれ、職階及び典礼上の任務の相違に従って各自各様に共同参与する。
(3)ミサは、参加するすべての者が豊かな実りを得るように秩序づけられなければならない。
実に主キリストはそのために聖体のいけにえを制定したのである。
みことばの祭儀にも「主の食卓」はもちろんあるのです。主の食卓をかこむ「交わりの儀」はそのままおこなわれているではありませんか。
また「感謝の祭儀」の部分については、ご聖体がつくられたミサの食卓がみことばの祭儀に引きつがれていると受けとめるべきです。

教会は、聖体訪問や聖体の前での祈りはダメだと言ったことはありません。
全世界を広く見れば、みことばの祭儀はいま急にはじまったものではなく、ふつうのミサと同じようにおこなわれている土地もたくさんあります。
もちろんミサがベストですが、みことばの祭儀にあずかる時にも、ミサにあずかる時と全く同じ恵みがあたえられるのです。
みことばの祭儀は教会がさだめた公的なものであることをしっかりと受けとめてください。
みことばの祭儀のことだけではなく全てのことについて、教会が公的にさだめたことは、そのまま受け入れるべきです。

『神学的なコメントを〜』と記されていましたが、私にとって、その仕事は1年以上もかかる大きな負担になってしまいます。
しかし、上に記した内容は、本当に大切なポイントを正しく示していますので、どうか心配しないでください。
 

《 回答を読んでの感想 》
 

この回答では

・ 神学的なコメントは、私にとって大きな負担になる。
・ 教会が公的に定めたことは、そのまま受け入れるべき。
と集約されており、一言でいえば 信徒は教会の言うことを聞いていれば、それでよいのだ  という内容です。

ここには、一人一人の信徒の疑問に誠実に対処するという姿勢が感じられません。
こうして、主任司祭の司牧姿勢への不信が始まりました。
 
 
《 8/6   パコ神父からの返答への再メール 》
お忙しい中でのお返事に感謝します。

1) みことばの祭儀と家族による祈り
 

『教会』はギリシャ語で『エクレシア』といい、このほんらいの意味は共同体(人々のあつまり)をあらわすことばです。
わたしたちは「主の日」と「共同体」をべつべつのものとして考えることはできません。
この2つのことは、ほとんど同じといってもよいでしょう。
  この部分は、とても共感できることです。
 

主日を「聖」とするために、共同体はあつまってミサをささげます。
教会の教えによってとくに強められることは、「ミサ」ではなく「共同体」なのです。
共同体は1人もあつまらない時には、司祭はミサをささげることがゆるされていません。
つまり、主日の義務をはたすためにその土地の共同体があつまることが、もっともよいのです。
そして、その共同体の祈りはけっして個人の祈りではなく教会の祈り、すなわち「典礼」です。
  (大事なことは)<「ミサ」ではなく「共同体」なのです。>

このことは、今日始めて聞きました。
私は、長いカトリック信者の生活の中で、典礼よりも共同体の方が大事だということを、聞かされたことがありませんでした。
ところで、「共同体」イコール「小教区」なのでしょうか?
家庭は、信仰共同体ではないのでしょうか?
 

ミサと現代教会がさだめた「みことばの祭儀」は、どちらも教会の公的な「典礼」であることを受けとめてください。
たとえもし「みことばの祭儀」のかわりに個人の家であつまって祈ったとしても(それはけっして悪い祈りではありませんが)主日のつとめをはたすことにはならないでしょう。
  はい、この部分はそのように理解いたします。
(家庭は、信仰共同体ではないという前提で・・です。)

また、自分の小教区ではミサがなく、みことばの祭儀が行われる時に、隣の教会のミサに与ることは、上記の理解から言えば、決してよい行為だとはいえないということですね。
(主日のつとめを果たしてはいるけれど・・)
 
2) 主の食卓
 

教会のさだめる「ミサ」を、もう一度よく考えてみてください。
みことばの祭儀にも「主の食卓」はもちろんあるのです。
主の食卓をかこむ「交わりの儀」はそのままおこなわれているではありませんか。
また「感謝の祭儀」の部分については、ご聖体がつくられたミサの食卓がみことばの祭儀に引きつがれていると受けとめるべきです。
  みことばの祭儀が、主の(みことばの)食卓であることはよく分かりますが、後半の部分は、実感として持つことができないことを告白せざるをえません。

それは、イエス様のあの言葉としぐさが、そこに欠落しているからです。
エマオの弟子の話を持ち出すまでもなく、あのしぐさは、それがイエス様であることを認識するための、とても大事な key だと理解しています。
 

教会は、聖体訪問や聖体の前での祈りはダメだと言ったことはありません。
  しかし、第二バチカン以降、以前のような熱心さをもって信者に勧めてはいませんね。
現に、永久聖体礼拝をおこなっているグループに対しては、古い考えの信徒は仕方がないなぁ・・という目で見ています。
 

全世界を広く見れば、みことばの祭儀はいま急にはじまったものではなく、ふつうのミサと同じようにおこなわれている土地もたくさんあります。
もちろんミサがベストですが、みことばの祭儀にあずかる時にも、ミサにあずかる時と全く同じ恵みがあたえられるのです。
  はい、このことは、心に刻んでおきたいと思います。
 

みことばの祭儀は教会がさだめた公的なものであることをしっかりと受けとめてください。
みことばの祭儀のことだけではなく全てのことについて、教会が公的にさだめたことは、そのまま受け入れるべきです。
  <教会が公的にさだめたことは、そのまま受け入れるべきです。>

このことは、カトリック教会の「司牧」の原則として理解します。
ただ、不思議に感じるのは、
教会は信徒の集まり・共同体である
といっておきながら、上記の「教会が公的に・・」という場合の「教会」の概念には、私たち一般信徒が含まれていないということです。

つまり、ある場面では、
信徒こそ教会の構成要素そのものだ
といっておきながら、別の場面では、
導き手としての教会と導かれる側の一般信徒
とがはっきりと区別されていて、「教会」と「信徒」との関係があいまいなのです。

私は、子供の頃から「教会」と「信徒」とは、別のものとして教育されました。
その立場で言えば、教会があることを定め、信徒がそれに従うのは当然だということになります。
(いわゆる「母なる教会」という表現です。)

しかし、第二バチカン以降の教会は、教会そのものを「信徒のあつまり」といっているのではないのでしょうか?

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メールでのやりとりを延々と続けるのも考えものですから、これで切り上げますが、私は、つぎのような疑問を抱いています。

・家庭は信仰共同体ではないのか。
Nice 2 が提起した問題は、何だったのか?
・教会と信徒との関係
教会(位階制度)は、都合の良いようにこの言葉を使い分けているように思えます。
つまり、信徒に責任を負わせたいときは、「信徒の皆さん、教会とは信じるものの集まりです」といいながら、権威をもって信徒を服従させたいときは、「教会のいうことに従いなさい」といっているのです。
司祭という立場で、これ以上の発言をなさるのは難しいと思います。
多分、保守的な回答しか出来ないのが、司祭の立場だと思います。

それはよく理解できますので、これ以上のお答えは下さらなくても結構ですが、結局、こういうあたりが、信徒と司祭とが本気で向き合うことの出来ない「限界」なのだと実感します。

私が、日本の普通の男性として、日本人の感覚を持って聖書を読み、福音の精神を生きようとするとき、司祭とは気持ちを通じ合わせることができない部分を、こうして感じてしまうのです。

どの教会でも、司祭から見て、成人男性が一番あつかいにくい存在だろうと思います。
彼らが、教会に対して冷淡に見えるのは、仕事が忙しいからというのは、実は本当の理由ではありません。
むしろ、教会の中では、本心を見せ合って話をすることが出来ないからです。

教会(位階制度)の言い分に黙って従えといわれれば、もう何も話す余地がないということです。
こういうことが、平均的な日本の成人男性のフィーリングであることを、どうぞ知っておいてください。

私は、そういう人間があつまり・話し合える場こそが、日本の教会には必要だと思っています。
もちろん、教会という「場」の外でです。
東京・新宿の「エポペ」などは、そういう思惑があっての存在だろうと理解しています。

メールの質問に、お答えいただいたことを、心からお礼申し上げます。
有難うございました。