1) |
みことばの祭儀と家族による祈り |
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『教会』はギリシャ語で『エクレシア』といい、このほんらいの意味は共同体(人々のあつまり)をあらわすことばです。
わたしたちは「主の日」と「共同体」をべつべつのものとして考えることはできません。
この2つのことは、ほとんど同じといってもよいでしょう。
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この部分は、とても共感できることです。 |
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主日を「聖」とするために、共同体はあつまってミサをささげます。
教会の教えによってとくに強められることは、「ミサ」ではなく「共同体」なのです。
共同体は1人もあつまらない時には、司祭はミサをささげることがゆるされていません。
つまり、主日の義務をはたすためにその土地の共同体があつまることが、もっともよいのです。
そして、その共同体の祈りはけっして個人の祈りではなく教会の祈り、すなわち「典礼」です。
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(大事なことは)<「ミサ」ではなく「共同体」なのです。>
このことは、今日始めて聞きました。
私は、長いカトリック信者の生活の中で、典礼よりも共同体の方が大事だということを、聞かされたことがありませんでした。
ところで、「共同体」イコール「小教区」なのでしょうか?
家庭は、信仰共同体ではないのでしょうか? |
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ミサと現代教会がさだめた「みことばの祭儀」は、どちらも教会の公的な「典礼」であることを受けとめてください。
たとえもし「みことばの祭儀」のかわりに個人の家であつまって祈ったとしても(それはけっして悪い祈りではありませんが)主日のつとめをはたすことにはならないでしょう。
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はい、この部分はそのように理解いたします。
(家庭は、信仰共同体ではないという前提で・・です。)
また、自分の小教区ではミサがなく、みことばの祭儀が行われる時に、隣の教会のミサに与ることは、上記の理解から言えば、決してよい行為だとはいえないということですね。
(主日のつとめを果たしてはいるけれど・・)   |
2) |
主の食卓 |
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教会のさだめる「ミサ」を、もう一度よく考えてみてください。
みことばの祭儀にも「主の食卓」はもちろんあるのです。
主の食卓をかこむ「交わりの儀」はそのままおこなわれているではありませんか。
また「感謝の祭儀」の部分については、ご聖体がつくられたミサの食卓がみことばの祭儀に引きつがれていると受けとめるべきです。
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みことばの祭儀が、主の(みことばの)食卓であることはよく分かりますが、後半の部分は、実感として持つことができないことを告白せざるをえません。
それは、イエス様のあの言葉としぐさが、そこに欠落しているからです。
エマオの弟子の話を持ち出すまでもなく、あのしぐさは、それがイエス様であることを認識するための、とても大事な key だと理解しています。
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教会は、聖体訪問や聖体の前での祈りはダメだと言ったことはありません。
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しかし、第二バチカン以降、以前のような熱心さをもって信者に勧めてはいませんね。
現に、永久聖体礼拝をおこなっているグループに対しては、古い考えの信徒は仕方がないなぁ・・という目で見ています。
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全世界を広く見れば、みことばの祭儀はいま急にはじまったものではなく、ふつうのミサと同じようにおこなわれている土地もたくさんあります。
もちろんミサがベストですが、みことばの祭儀にあずかる時にも、ミサにあずかる時と全く同じ恵みがあたえられるのです。
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はい、このことは、心に刻んでおきたいと思います。
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みことばの祭儀は教会がさだめた公的なものであることをしっかりと受けとめてください。
みことばの祭儀のことだけではなく全てのことについて、教会が公的にさだめたことは、そのまま受け入れるべきです。
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<教会が公的にさだめたことは、そのまま受け入れるべきです。>
このことは、カトリック教会の「司牧」の原則として理解します。
ただ、不思議に感じるのは、
教会は信徒の集まり・共同体である
といっておきながら、上記の「教会が公的に・・」という場合の「教会」の概念には、私たち一般信徒が含まれていないということです。
つまり、ある場面では、
信徒こそ教会の構成要素そのものだ
といっておきながら、別の場面では、
導き手としての教会と導かれる側の一般信徒
とがはっきりと区別されていて、「教会」と「信徒」との関係があいまいなのです。
私は、子供の頃から「教会」と「信徒」とは、別のものとして教育されました。
その立場で言えば、教会があることを定め、信徒がそれに従うのは当然だということになります。
(いわゆる「母なる教会」という表現です。)
しかし、第二バチカン以降の教会は、教会そのものを「信徒のあつまり」といっているのではないのでしょうか?
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メールでのやりとりを延々と続けるのも考えものですから、これで切り上げますが、私は、つぎのような疑問を抱いています。
・家庭は信仰共同体ではないのか。
Nice 2 が提起した問題は、何だったのか?
・教会と信徒との関係
教会(位階制度)は、都合の良いようにこの言葉を使い分けているように思えます。
つまり、信徒に責任を負わせたいときは、「信徒の皆さん、教会とは信じるものの集まりです」といいながら、権威をもって信徒を服従させたいときは、「教会のいうことに従いなさい」といっているのです。
司祭という立場で、これ以上の発言をなさるのは難しいと思います。
多分、保守的な回答しか出来ないのが、司祭の立場だと思います。
それはよく理解できますので、これ以上のお答えは下さらなくても結構ですが、結局、こういうあたりが、信徒と司祭とが本気で向き合うことの出来ない「限界」なのだと実感します。
私が、日本の普通の男性として、日本人の感覚を持って聖書を読み、福音の精神を生きようとするとき、司祭とは気持ちを通じ合わせることができない部分を、こうして感じてしまうのです。
どの教会でも、司祭から見て、成人男性が一番あつかいにくい存在だろうと思います。
彼らが、教会に対して冷淡に見えるのは、仕事が忙しいからというのは、実は本当の理由ではありません。
むしろ、教会の中では、本心を見せ合って話をすることが出来ないからです。
教会(位階制度)の言い分に黙って従えといわれれば、もう何も話す余地がないということです。
こういうことが、平均的な日本の成人男性のフィーリングであることを、どうぞ知っておいてください。
私は、そういう人間があつまり・話し合える場こそが、日本の教会には必要だと思っています。
もちろん、教会という「場」の外でです。
東京・新宿の「エポペ」などは、そういう思惑があっての存在だろうと理解しています。
メールの質問に、お答えいただいたことを、心からお礼申し上げます。
有難うございました。
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