その3:パコ神父のケース(前甲子園教会主任司祭)の続き

第2の出来事(2000/2/13)

パコ神父は、'99 秋のある時期から、教皇の書簡「主の日」の解説を延々と数ヶ月にわたって、ミサ中の説教に代えて続けています。
そのことで、私はカトリックのメーリングリスト(cjml)に、次のような投稿をしました。
1) 99/11/14(cjml:05066)
  今、こちらの小教区では、主日の説教に替えて、パパ様の書簡「主の日」が毎週読まれていますが、確かに内容は結構なものに違いないの ですが、これが書かれた背景には、ヨーロッパにおいて人々が日曜日に教会に来なくなったという危機感があると思うのです。
その人々に対するパパ様のメッセージとしてこれを読めば、これは大変時宜を得たものだと思います。

ただ、日本において、同じ意味を持つかといえば、そうではないでしょう。
しかも、主日に現にミサに与っている信者に向けてのメッセージとしては何週間にもわたって、説教の替わりに取り上げつづけるテーマだとは とても思えません。

日本の教会が抱えている問題と、ヨーロッパの教会が抱えている問題の違いに配意することなく、こういうスタンスで司牧をする外国人司祭の 感覚こそが、むしろ問題だと思います。

日本人の感覚で、日本の教会が直面する問題にこそ、取り組んで行きたいものだと思います。
 
2) 00/02/13(cjml:05622)
  今日のミサの後、説教の内容に関連して、主任司祭に個人的な立場からの質問をしました。

主任司祭は、少しの会話の後、出入り口を指差して「どうぞ」と言いました。
つまり、退去しなさいという指示と受けとめられるものです。

ここは、宗教法人カトリック大阪大司教区の所有する土地・建物であり、大司教様から管理の委託を受けている主任司祭の発言 ですから、日本の法律に従って、すなおに退去しました。

一人の信徒の質問、それもその日の説教に関連した質問に対して、日本のカトリック教会では、聖職者がこのような対応をしているという現実があるのです。

質問の内容などは、私のホームページに掲載してありますので、関心のある方は、そちらをご覧下さい。
http://www07.u-page.so-net.ne.jp/kg7/john35/koma.htm
現時点、このページは開けません。内容は、次の 3)と同じです。
教会を「イエスを信じる人の信仰共同体」と説明する人々に伺いたいのです。
教会とは、宗教法人の管理する「土地・建物」のことだと理解する方が、現実にかなっているのではありませんか?

自分の管理する教会からの退出を求める主任司祭の姿は、そう言っているようにしか解釈ができません。

とんだ、主の日となりました。
 
3) 私が質問しようとしたこと
  主の日(日曜日)の意義とミサの重大さは、今日の説教でよく分かりました。
では、1998.7.26 の神父様の行動(小教区の主日のミサを放棄して、別の場所に行ったこと)は、どう理解したら良いのですか?
 
4) 疑問と希望
  今日私が主任司祭に質問したのは、
『大事な主日のミサよりも、日曜学校のキャンプを優先させたことは、今日の説教の趣旨と合わないのではないか』
ということでした。

主任司祭は、それに対して、
『その質問にはすでに答えている。私の邪魔をしないでくれ』
そして、出入り口を指差し『どうぞ』と退出を求めたのです。

1998 年に質問したのは、
・ 家庭での祈りの集いの位置付けは、みことばの祭儀とはどう違うのか?
でした。
それに対しては、
『教会がさだめた公的なものであることをしっかりと受けとめてください』
と、教会の権威を持ち出して、その違いを説明されました。
私は、それを受け入れています。

私の中では、あの時点で
『ミサ』> 『みことばの祭儀』> 『家庭での祈り』
という順位付けを了解しているのです。

今回の質問は、説教であれほど強調したミサの重要性にかんがみ、
なぜ、
『日曜学校のキャンプ』> 『小教区の主日のミサ』
という優先順位が出てくるのか?という質問です。

主任司祭は、すでに回答済みといって話を拒絶しますが、質問そのものが異なるのです。
主任司祭は、とにかく私のような信徒は煙たくて仕方がないのです。

実際、私が本当に望んでいるのは、典礼や行事の優先度のことではなく、教会(聖職者)は、なぜ信徒との対話を避けるのか?です。

自分におべんちゃらを言ってスリよって来る信徒は歓迎するが、返答に窮するような質問をする信徒とは、対話を拒み、教会から退 去させる。
このような姿勢の聖職者(単に司祭だけでなく)がいることこそ、福音宣教の妨げになっているのではありませんか。

そういう問題点をしっかりと見据えることのできない今日の教会を大変残念に思います。

しかし、今、信徒は目覚めつつあります。
教団という目に見える従来の教会の姿ではなく、イエスを信じる人々のネットワークという新しい姿の教会を意識し始めています。
そこでは、カトリックだプロテスタントだという『殺し合いの歴史』も、聖職者と平信徒という『支配の構造』も無縁です。
ネット上で、神様の霊が働き始めていることに大きな期待と信頼を持ちたいと思います。