聖職者:この困った人々

50年近くキリスト者としての生活をしていると、いろいろな聖職者に出会います。
その大多数は、イエスに一生を捧げた立派な人々です。
しかし中には、世間知らずの、思い込みの烈しい人々もいます。
人間ですから・・という慣用句を利用しつつ、のらりくらりとしているうちは構わない
のですが、度が過ぎると『困ったちゃん』になることもあります。
このページでは、そんな『困ったちゃん』にご登場願うことにしました。
教会の中の、多様性をどうぞ味わってみてください。


その1:自閉症への無理解

その2:エイズへの無理解

その3:パコ神父のケース(前甲子園教会主任司祭)



その1:自閉症への無理解


    カトリックの出版物のひとつ『心のともしび』'96/8 月号に次のよう
    な文章が掲載されました。著者はE神父です。

    ・パソコンなど電子メディアの普及にともない、終日機器を相手に仕
      事や勉強や、ゲームなどをする人々が増えつつあります。
      そのため人々と直接関わり、お互い心のふれあいができるほど語り
      合うということが、非常に少なくなりました。

    ・その結果(中略)自分の殻の中に閉じこもる自閉症的人間になりか
      ねません。
      そうなりますと、さまざまな心理的障害が生じることになります。
      そればかりか言語障害を起こしたり、孤独地獄に陥ったりして、逃
      げられない苦しみを味わうことになります。

    自閉症という病気を、この神父は理解しているのでしょうか?
    自閉症の原因の90%以上は、胎児の段階にあるといわれています。
    E神父のような見方をすると、自閉症は「育て方」に問題があり、親
    に責任があるといった「差別観」を生み出すことになります。
    このような差別と蔑視とが、自閉症患者とその家族を苦しめているこ
    とに気づいていないのです。

    また、パソコンが新しいコミュニケーションの道具として、広く活用
    されている現状を、どのように認識しているのでしょうか?

    私は、障害を持った人々がパソコンと通信回線を通じて、今まで果た
    せなかった社会参加を少しずつ実現していることを、身をもって体験
    しています。
    こんな文章に出会うと本当に悲しくなります。

    カトリックの司祭には、この程度の認識の人物がいるのですね。
    
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その2:エイズへの無理解

    カトリック司祭N神父の運営するホームページで、同神父は次のよう
    に話しています。

        もちろん同性愛行為は本質的に悪であり、最終的にはエイズどこ
        ろか地獄の罰で神様が正義を回復なさいます。医療事故でエイズ
        感染は悲惨であり、心から同情しますが、同性愛とか売春でエイ
        ズにかかる人たちに同情は難しいです。高い崖から飛び降りた人
        たちをどのようにすれば助けることができますか?できません。
        自分の落ち度でエイズにかかる人たちはまさにそのような状態に
        あります。もちろん、連中の回心があれば別ですけれど…ですか
        ら、あんまりカッカとするのは止めて、しばらくの間でもにこや
        かに過ごしてください。エイズの予防法は婚前の純潔、結婚後の
        純潔だけです。ですから、純潔でない人たちが死に絶えたらエイ
        ズはほぼ撲滅できます。

    このような考えが、カトリックの神父の一般的な認識であるとすれば
    ゆゆしいことだといわねばなりません。
 
    ・「自分(本人)の落ち度」を理由に、その人を救いの対象から外す
      という発想は、決してキリスト教的ではありません。

      神様は、神の命令に反して「禁断の木の実」を食べた人類を「お前
      の落ち度で楽園を追われたのだから、自業自得だ」とはおっしゃい
      ませんでした。
      イエス様を人類の救いのために送ってくださったのは、連中(人類)
      が回心したからではなく、神様の一方的な愛から出たものではあり
      ませんか?

    ・「エイズの予防法は婚前の純潔、結婚後の純潔だけ」というのは、
      単なる観念論です。
      キリスト教の伝統に培われた西欧諸国では、そのようなことが実現
      しているのでしょうか?
      神父がいくら精神論を振り回したらかといって、信者はそのような
      生き方をしているとは限りません。
      キリスト教国にも、殺人事件があり、騙しあいがあり、不正な行為
      が絶えません。純潔に関してもしかりです。
      人間とは、そういう(悲しい)存在ではありませんか。
      であれば、次善の策としての「別の対処」も必要になるのではない
      でしょうか。
      司祭の説教だけでは、世界は救えません。患者とその家族は慰めを
      得ることすらできません。

    ・「純潔でない人たちが死に絶えたらエイズはほぼ撲滅できます」
      こんな乱暴な論法を用いるのが、カトリック司祭の常識なのでしょ
      うか?
      少なくとも、これを聞いた平均的日本人は、カトリックを軽蔑する
      ことでしょう。
      人間の弱さに「同情」しないというスタンスは、決して聖書が示す
      神様の姿ではありません。
      司祭は、もっと「神様のまことの姿・まことの望み」を人々に伝え
      ることに注意を払うべきです。
      このような発言は、カトリックの信仰を侮辱するものだと、私は考
      えています。