映画「沈黙」を観て・・・


スコセッシ監督の 「沈黙」 が公開されました。
さっそく 映画館で鑑賞しましたが、これは単なる 「原作の映像化」 ではなく、むしろ 原作者に対する
スコセッシ監督の 「問いかけ、挑戦」 ではないかと私には思えます。

45年前の篠田正浩監督の映画 「沈黙」、それに遠藤さんの著書 「沈黙」+「深い河」 とを比べながら、
それぞれの 『作品』 がもつ特徴を、私の目線から整理したくなりました。


  1.篠田監督の映画 「沈黙」 は、1971年に公開され、私も 12月4日に東京で見ています。
    当日の日記には、次のように記してありました。

      この作品には、聖書の主張 「我為に人々汝等をのろい、且 迫害し、且 偽りて
      汝等にきて所有あらゆる悪声を放たん時、汝等 さいわいなるかな、歓躍よろこびおどれ、は天に
      おける汝等のむくい はなはだ多かるベければなり 」 (ラゲ訳 : マテオ福音書5章11-12節) が
      全く見いだせない。 それと この脚本には原作に溢れている葛藤が欠けている。
      彼が背教せざるを得なくなった必然性の描写にも乏しい。 そもそも 遠藤が重視する
      「日本の風土と キリスト教との関係」 という問題提起を、篠田監督は理解できて
      いるのだろうか?
      ラストの唐突さなど司祭職への無理解もはなはだしい。

    私の感想の論理欠陥はさておき、当時の、日本でのカトリック側からの反応は相当
    厳しく、次の記事からも当時の状況がよく伝わってきます。

     ドン・ボスコ社:バルバロ神父の例

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    私の当時の感想を一言で言い直せば、

      「イエスが小説のようなセリフ : 『踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、
       この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ』 といったことを
       言う筈がない」

    ということです。
    前出のバルバロ神父と同じ伝統的なカトリックの立場に立っていたのです。

    とりわけ疑問を抱いたのは、映画のラストシーンで、「ころび司祭」が自己嫌悪に
    耐えかねて女を抱く場面が設定されていたことです。 これにはさすがの遠藤さんも、
    異を唱えたようで、そのあたりは別のところで触れられていました。

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    ということで、この映画(旧作品)は、遠藤さんの小説をもとに制作されたとはいえ、
    ラストシーンで監督と遠藤さんの意見は対立し、小説にはない「ころび司祭」の姿で
    原作者も予期せぬ苦々しい映像を観客に提示してしまったのです。

    結果的に、この映画では 「ころび司祭」 が己の弱さをむき出しにしただけ ・・・ という
    なんとも言えない 「弱い人間像」 を提示して the end という、原作のもつ味わいを
    十全に表現できない、というよりは監督のキリスト教観が、カトリック信仰の基本を
    描ききれなかったという 「後味の悪さ」 だけが残ったと、私には思えました。

    一言でいえば、 『人間なんて、所詮はこんなものさ』 という乱暴さです。
    これでは、遠藤さんの 「キリスト教との葛藤」 の長い日々が伝わって来ないのです。
    あえて、篠田監督を弁護すれば、当時の遠藤さんは、ご自分の信仰と格闘する初期の
    段階にいて、まだ、現在の私たちが認識するような 「遠藤神学」 の段階と同じでは
    なかったから ・・・ ということでしょう。




  2.遠藤周作 「沈黙」 + 「深い河」 から読み解く私の 『遠藤神学』 理解

   1) 小説 「沈黙」 が私に与えた印象は、日本の宗教的風土との対峙に挫折した宣教師の
      姿でしたが、遠藤さんの司祭像ないし信仰理解の作業は、そこで終わったのではなく、
      実は最後の長編小説 「深い河」 まで、絶えることなく続いていたというべきでしょう。
      遠藤さんの柩には、ご自分の著書 「沈黙」 と 「深い河」 の2冊が収められたと聞き
      及んでいます。
      この2冊は、遠藤さんの信仰への視線がどのように変化・醸成されたかの検証に
      欠かせないものだと私は認識するようになりました。

  2) 「沈黙」 で挫折した司祭像は、その後の小説 「鉄の首枷 小西行長伝」 や 「銃と十字架
      (ペトロ岐部)」 などで、いろいろなキリスト者の生き様に広がりを示していきます。

      遠藤さんは、典型的な(理想的・ワンパターンの) キリスト者の姿を描き続けたの
      ではなく、イエスへの信仰に触発されたいろいろなキリスト者の多様な姿を提示し
      続けています。 その最後の作品が 「深い河」 です。

  3)  私は 「深い河」 においては、伝統的な宗教の側からは 「落ちこぼれ」 としか見られ
      なかった日本人のダメ司祭が、みじめな最期を迎えるまで、イエスの生き方に
      精一杯倣おうとしていたことを提示している ・・・ という思いがしてならないのです。

      ここには、伝統的なキリスト者の姿とは全く別の、イエスという人物のすごさに
      魅せられた もうひとつのキリスト者の姿があります。 私の眼には、もはや彼は
      「キリスト教」 の枠を超えたイエスに従う者 ・ イエスの生き方に倣う者と見える
      のです。

      この落ちこぼれ司祭に関しては、私のブログの中ですでに触れてありますので、
      そちらをご覧いただければ ・・・ と思います。

         「深い河」を読む




  3.スコセッシ監督の 「沈黙」

    この映画では、原作の 「落ちこぼれ司祭」 が、転んだ後に日本人妻と家庭を持ち、天寿を
    全うするまでの時間を、これまで想像もつかなかった姿かたちで提示しています。
    そこにはセリフもなく、ある種の幻想的な画面のつくり方で、観客に自由な想像力を求めて
    いるようです。

    スコセッシ監督は、キリスト教の聖職者の姿ではなく、むしろ宗教の くびき を脱した信仰者の
    立場 ・・・ キリスト教の伝統の垢にまみれたイエス像や聖人像ではない、むしろ 「深い河」 の
    終わりで見たあたらしい 「信仰者」 の姿に通じるものを、あの映像を通して提示しているように
    思えてならないのです。

    映画の最後の方では、画面はリアルな 「埋葬のシーン」 を見せますが、その直前の数分間の
    独特な雰囲気の描写 ・ 見る人に いろいろなイメージを描くことを許しているあの時間を通して、
    この転び伴天連が、「キリスト教」 ではなく 「イエスご自身との親しい関係」 を作り上げて
    いったことを十分に推察させてくれたと、私は受け取りました。

    イエスの生き方に倣う ・・・ という信仰の姿は、「深い河」 の落ちこぼれ司祭にも、
    スコセッシ監督の映画のラストでのあの主人公の生き方の中にも、実に見事に結実している!

    これこそが、遠藤さんの信仰遍歴がたどり着いたところだと ・・・ 私は受け止めました。

    「深い河」のあの司祭は、まだカトリック司祭としてのスタイルを(教会が受容してくれて
    いないにも拘わらず) 保持し続けているのです(毎朝、自室でひとりでミサを捧げる)が、
    スコセッシ監督が、あの幻想的な個所で提示したのは、もはや 「古い伝統的宗教観からは
    完璧に解き放たれた魂のもつ自由さ」 をその生活の隅々にまで示し切っている日々です。

    あの時代の日本で、彼が持っているタレント (資質) を、必要な場面で十全に発揮し、その
    場所で共に生活する人々と一緒に生きる ・・・ という新しい信仰者の姿、新しい生き方が
    そこからは読み取れるのです。

    信仰者が 「己のおかれた場」 とは まったく 別の 「信念・心情」 を掲げ、殉教者や隠遁者と
    なって死んでいくことを、神の望み ・ 神への忠実と考えるのか。
    それとも、「おかれた場所」で、神の望みを実現するためにどんな手法が相応しいのかを
    探ることが望ましいと考えるのか。

    こういう 『おかれた環境と、そこでのベターな手法・ライフスタイル』 を探求する姿勢の
    大切さを、スコセッシ監督は問いかけていると思えます。

    そういう観点からみれば、遠藤さんが 「深い河」 で最後に提示した司祭(彼はまだ司祭の
    資格を示す 「ミサ」 の挙式という形に拘りを持ち続けてはいますが ・・・ ) にしろ、今回
    スコセッシ監督が映画のラストで示したあの幻想的なシーンでの主人公の生き様には、
    共に、イエスが当時の 『人々と共に暮らし、体をはってまで人々に示した己の生き方』 に
    相通じるものがあったと、私には思えてなりません。



   まとめ (私の感想)

   小説 「沈黙」 は、遠藤神学の初期の姿であり、篠田監督は作者の当時の信仰の内面に蠢いて
   いるものを忖度することができなかった。 それがあのラストシーンであり、当時のカトリック
   関係者の反発を強く招くという結果(のみ)を齎した。

   遠藤さんは、その後の作品を通じて、己の信仰の在り様を深めていき、最終的に 「深い河」 での
   落ちこぼれ司祭のみじめな死の描写にまで到達した。

   スコセッシ監督は、遠藤さんが示した 「司祭職へのこだわり」 という遠藤さんの限界を さらに
   打ち破り、「宗教者」 としての立場に固執することなく、むしろ彼の住む社会が、彼に期待する
   役割を十全に果たすこと (今回のケースでは、西欧人である彼ならではの、来日したプロテスタント
   諸国からの交易商人たちとの橋渡し役) を最優先させた ・・・ と私は読み解いたのです。

   スコセッシ監督の、ラストの幻想的シーンこそが、篠田監督はもとより、遠藤さん自身が
   (もしかすると、まだ) 気づいていなかった新しい 「ころび司祭」 の次のステージの姿を描き切った
   のではないのか? 私が強く思ったのはこういうことでした。 つまり、遠藤さんの描いた「深い河」
   での司祭像には、まだ苦渋に満ちた表情がありありのように思えます。 一方、スコセッシ監督が
   描ききったあの司祭像には、周囲の人々と共に生きる 「喜び」 が十全に描かれていると思えます。
   あの司祭にとって、「ころび」 は単なる 『脱落』 ではなく、新しいライフスタイルへの第一歩だった
   のです。

   私は、自分の信仰遍歴を通じて 『脱キリスト教』 『脱宗教』 という立場にありますが、それは
   信仰の否定ではなく、むしろ 「硬い宗教」 から 「しなやかな信仰」 への覚醒・転身(メタノイア)
   です。
   スコセッシ監督も、今回の映画の 「ころび」 から 「埋葬」 の間に置いたあの描写を通じて、同じ
   ような思いを表現しているのではないか ・・・ これが今回得た 私の 「勝手な」 感想でした。

      《追補》 2011年に制作(日本では2012年公開)された、映画 『ローマ法王の休日』
           原稿を書いた数日後、この映画のことを思い出しました。
           この映画では、最後のシーンの後に、主人公の枢機卿が結局はどのような
           「最後の選択」 をしたのかには 口を噤んでいましたが、スコセッシ監督は
           それに 《回答》 を与えているようにも思えます。

2017/1/29

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