安保法制と宗教 : 東京大司教


毎日新聞 2015. 6 .26 朝刊に、岡田東京大司教様へのインタービュー記事が掲載されています。


   戦後70年が過ぎ、日本の過去の植民地支配や侵略戦争での罪の歴史を書き換え、
   否定する動きが顕著になった。  ・・・  事実上、憲法9条を変えようとする政治の
   流れと連動している。

   カトリック教会は2つの大戦やナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺を食い止められ
   なかった反省から、1962〜65年の第2バチカン公会議で、宗教的な領域に閉じこもらず、    
   現実社会に深く関っていく方針を定め、軍事力に頼らない平和を強く求めていくことを
   決めた。

   戦争はアジアの多くの人々を苦しめ、日本人にも空襲被害や沖縄戦、長崎、広島への
   原爆投下という悲惨な体験をもたらした。 その体験から、平和憲法が生まれたはずだ。

   ヨハネ・パウロ2世が「戦争は人間の生命の破壊です。 戦争は死です」と語ったように
   歴代教皇もはっきりと戦争を否定するメッセージを発している。

   こうした流れから、日本の司教団が憲法の不戦の理念を尊重するのは当然のことだ。
   戦争放棄はキリスト者にとってキリストの福音そのものからの要請でもある。



大司教の発言はもっともな内容ですが、少し冷静に考えるといくつかの疑問が生じます。

1) 「戦争放棄はキリストの福音そのものからの要請」 というのであれば、欧米などの
   いわゆるキリスト教国でより強くそういう国民運動があって然るべきでしょう。

   日本の憲法9条は世界に誇れるもの ・・・ ということは、逆に、キリスト教国である
   欧米の憲法は戦争放棄を唱ってはいないという現実を指しているのでは?という疑問です。

   戦争放棄讃歌は理解できるとしても、それが福音からの要請というのであれば、大司教は
   先ずキリスト教国の信徒に向かって、むしろそれを語りかけるべきではないでしょうか。

   それなしに、キリスト教徒の少ない日本で、いくら福音的要請だとおっしゃっても、なんか変!
   という思いがするのは、私だけでしょうか?


2) 大司教も触れている第2バチカン公会議のことですが、私は発表された多数の文書の中、
   とりわけ『現代世界憲章』に大きな感銘を受け、カトリック教会の歴史的な方向転換を見る
   思いがしたものです。

   そこには、次のような重要な文章があり、感動しました。(43項)


    信徒は霊的光と力を司祭から期待すべきであるが、司牧者 が何事にも精通
    していて、どのような問題についても、しかも重大な事がらについても、
    即座に具体 的解決策をもちあわせているとか、それがかれらの使命である
    かのように考えてはならない。むしろ 信徒はキリスト教的英知に照らされ、
    教権の教えに深く注意を払いながら、自分の責任を引き受けるようにしな  
    ければならない。

    キリスト教的なものの考え方に従って、ある状態におい て、ある特定な解
    決策を選ぶということがしばしば生ずるであろう。他の信者は同じくまじめに    
    考えた結果、同じ問題について異なった判断を下すということもたびたびあり、
    それもまた当然なことである。
  

   前にも記したのですが、この文章を普通の感覚で読めば、至極当然と思える内容です。
   ところが第2バチカン公会議の公式文書の中に、わざわざこういう一文が盛り込まれている
   ところに、それまでのカトリック教会内の意識なり・雰囲気がどういうものであったかが、
   はっきりと見てとれるわけです。

   つまり、それまでは、教会の権威が一言発すれば、世界中の信徒が全員右向け右をしていた
   という『弊害』を教会自体が認めたということです。

   そういう理解に立てば、大司教の「平和憲法は福音からの要請」という発言も、決して
   すべてのカトリック信者を拘束する力はなく、それぞれの信者が良心に従い、熟慮した
   うえで、別の結論を出したとしてもそれを 『反福音的』 と断罪することはできないと
   言うべきなのです。


3) もうひとつ、現代のカトリック教会で起こっているテーマとして、いわゆる性的マイノリティ
   LGBT に関する対応という課題があります。

   フランシスコ教皇は、彼らに対してある種の暖かい眼差しを示していますが、ローマに
   集まった世界の司教たちは、必ずしも教皇の姿勢に賛同せず、会議が発表した文書は、
   大幅に修正を加えられたとのこと。 このブログの 2014/10 に記した通りです。

   教皇フランシスコの柔軟なまなざしとくらべ、東京大司教の目線は、「これが正しいこと。
   福音を信じるなら、こうするのが唯一の選択肢だ!」 と教会の一致団結を強調するような
   姿勢であり、第2バチカン公会議の目ざしたものとは、やはり違うという居心地の悪さを
   覚えざるを得ないのでした。

2015/06/26

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