「信仰年」一年を振り返って


「聖書と典礼」 2013.10. 6 号と 10.13 号に、東京教区 稲田保明神父様の文章が掲載されています。

   まもなく信仰年も閉幕を迎えようとしています。

   この信仰年を呼びかけたのは前教皇ベネディクト16世です。
   第二バチカン公会議閉会から50年、・・・ 昨年の10月11日から今年の11月24日まで
   という一年をもう一度 ・・・ 私たち一人ひとりが自覚し、深め、回心の時とするように
   とのことでした。

   小教区の皆さんから 「信仰年って、何をすればいいんですか?」 と尋ねられた時、
   迷わず答えたことは 「要するに、私たちは何を信じているか? 何故信じているのか?
   信じていることをどう生きるのか? について、この一年をかけて、一人ひとりが
   自分に合った方法 ・ やり方でよいから取り組むことです」 と答えました。

   「誰がやるの? いつやるの? 今でしょ!」 と信仰年の初めには考えたのですが・・・。

私の所属する小教区では、ミサの前に 「信仰年の祈り」 を唱えることで、一年が過ぎました。
稲田神父様のように 「一人ひとりが自覚し、深め、回心の時とするように」 という動きは、
私の見る限り、なかったようでした。

稲田神父様は、ナイスT・Uのことに触れた後、次のように書いています。

   私たちは正直に認めなければならないと思います。 私たちの弱点は「すぐに成果が見えない
   ことにじっくりと取り組むのが苦手である」 ということを。
   教会で会議や議論が行われると立派な文書はできるが信仰生活の現場はそれだけでは
   変わらないということを。
   そして司教団には個々の教区の都合ではなく、日本の教会全体の協力態勢をつくることを。
   司祭たちが本気で動けば教会が動くことを。
   信徒の人たちには 上げ膳 据え膳 を教会に期待するのではなく、神の民自らが母なる教会と
   なることを目指すべきことを。

と結んでいます。

神父様の主張は分からなくもないのですが、私は、自分の信仰遍歴の体験に照らして、違和感を覚える
ことの方が多いのです。

1)なぜ、50年待たなくてはならなかったのか?

  私は、このサイトの中ですでに記しているように、第二バチカン公会議の文書「現代世界憲章」に
  触発されて、自分の信仰の根本的な見直しを行ってきました。

     私とキリスト教

  結果的に、その営みは「キリスト教および宗教」への決別 ・ 「イエス様への信仰」に生きる
  という思わぬ方向に定まりました。
  このサイト自体、そういう私の信仰変遷の記録そのものでもあります。

  なぜ、信者への「自覚的な <信仰の振り返り> の呼びかけ」を、もっと早くにしてこなかった
  のでしょうか?

2)教会は、信徒の自覚的信仰プラッシュ・アップを歓迎できるのか?

  本気で一人ひとりの信徒が己の信仰を見つめ直し、神様との親密な関係を構築することを
  教会は(あるいは神父様方は)期待しているのでしょうか?
  「現代世界憲章」にもあるように、


    信徒は霊的光と力を司祭から期待すべきであるが、司牧者 が何事にも精通
    していて、どのような問題についても、しかも重大な事がらについても、
    即座に具体 的解決策をもちあわせているとか、それがかれらの使命である
    かのように考えてはならない。むしろ 信徒はキリスト教的英知に照らされ、
    教権の教えに深く注意を払いながら、自分の責任を引き受けるようにしな  
    ければならない。

    キリスト教的なものの考え方に従って、ある状態におい て、ある特定な解
    決策を選ぶということがしばしば生ずるであろう。他の信者は同じくまじめに    
    考えた結果、同じ問題について異なった判断を下すということもたびたびあり、
    それもまた当然なことである。
  

  実際にこういう「異なった判断を下す」信徒が増えてきたとき、教会は(そして神父様方は)
  それにどう対応するのでしょうか? これまでの ・ いや現在もなお、教会の権威と
  司牧の現場の実権を握っている司祭方が、おたおたせずにそういう事態に対応できるの
  でしょうか?

  そう考えると、第二バチカン公会議を受けての信徒の目覚めというテーマは、
  教会にとってまことに「痛し 痒し」の難問ともなりかねないことでしょう。

  こう考えると、第二バチカン公会議の方向性は、司教・司祭にとって、まことに扱いの
  難しいものであり、日本の教会が、ナイスUで「家庭」というテーマに逃げ込んでしまった
  のも、ある意味で、自然の成り行きだったのかもしれません。

3)上げ膳 据え膳 ではなく・・・

  稲川神父様のメッセージの最後にあるこの文章こそ、問題凝視のキーワードであると
  私は思います。 何でも神父に聞く・依存するという傾向の強い 従来の信徒の意識を
  とにかく変革することが、第二バチカン公会議の大きな方向性だと理解するなら、本気で
  この言葉の実現を目指すことが必須でしょう。

  しかし、それはカトリック教会・カトリック信徒の「ありよう」を大きく変えるかもしれない
  という覚悟を持った上で、取り組まなくてはならないテーマだともいえます。

  稲川神父様のいう「司祭たちが本気で動けば 教会が動く」どころではなく、もっと大きな
  新しい 動き を生み出すものになるものだと思います。
  ところで、司祭方が、それに共鳴をなさるのでしょうか?

4)母なる教会? への違和感

  先ほど紹介したサイトにも書いたのですが、私にとって「母なる教会」という用語は、
  第二バチカン公会議以前の教会の体質を最もよく表している <教会の特徴> でした。
  あのような概念、つまり母親が子どもたちを慈しむように、まるごと信徒を包み込むという
  それまでの教会の司牧スタイルを、新しい視点の教会像に持ち込もうという稲川神父様の
  見解には、大いに疑問を抱きます。 これでは上げ膳 据え膳の主体が交代するだけで
  本当の意味で、成熟した一人ひとりの信者の集まりという 教会像 は、見えてきません。

  本気で「上げ膳 据え膳」ではない教会を作るのであれば、「母なる教会」というお節介を
  当てにしない 自立した一人ひとりの信徒 を目指すことこそが大切でしょう。


まさしく、第二バチカン公会議が打ち出した新しい道は、信徒が(世俗の事柄に関して)、自らの信仰に
基づいて、それれぞれの判断をする・・・上げ膳 据え膳 ではない という方向性だと思います。

2013/10/15

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