復活・・・それとも復活体験?


「聖書と典礼」 2013. 3.31 号に、仙台教区の小松神父様の文章が掲載されています。

   復活の出来事は一人で起こるのではなく、遣わされた誰かの寄り添いと受け容れに
   よって起こるのだ。地域の営みの中でしか生きられないわたしたちは、日々の出来事を
   復活体験として捉え、復活体験によって支えられ活かされる。

以前にも書いたことですが、現代の教会は、今日の復活祭を素直にイエス様のご復活として
祝うことよりは、それぞれの信者が捉える「復活体験」を思い起こす日として、その意義を
説明しているように思えてなりません。

キリスト者の日々の生活を、自らが出会った「復活されたイエス」との絆(恵み)の実践と
して理解することにはもちろん同意できます。 しかし、それを「復活体験」ということばで
表現することには、何か「復活」そのものを胡散臭いものとして脇に置きたい気持ちが働いて
いるようで、違和感を覚えます。

カトリック教会が教える「イエスの復活」とは、イエス様ご自身に起こった出来事であり、
救いの成就のシンボルでしょう。 それをストレートに受け取ることをせずに、「復活とは
私たち一人ひとりの信仰体験」であるとわざわざ言い換えるところに、何か社会から理解され
ない・マイナスイメージの信仰宣言だと引け目に思っている雰囲気を、私は感じてしまいます。

新しい教皇様が誕生し、教会はこれまでとは違ったカラーを打ち出すかもしれませんが、
「復活」をイエス様において実現した救いのしるしとして受け止めることは、教会の教えの
基本的事項として、ずっと受け継ぎたいものだと思います。

その上に立って、私たちが「イエス様に倣い、日々を生きる」ことは当然のこと。
小松神父様のいう、

   出逢いは寄り添いとともに育まれ、結びつきへと変わる。 共に居ることの
   有難さとその人の体験を尊いものとして受け容れようとする姿勢は、その人の
   起き歩みの原動力となる。

という信仰者として姿勢は納得できるものです。 しかしそれは「復活体験」というよりは
むしろ、ガリラヤで生きておられたイエス様に倣う、私たちの日々の生活と呼ぶ方が
私には素直に受け取れます。 
目の前の現実・そこで出会う一人ひとりとの関わりにおいて、「生きた姿のイエス様なら
どう振る舞われただろう」という思いで、自分の行動・言動を考える方が、「復活された主なら
どうなさるだろうか?」とイメージするよりは、はるかに泥臭く・生身の人間の苦しみや
喜びに即したものを生み出すと思うのです。

「ご復活」を伝統的な理解で人々に説明することを恐れ、それぞれの信者の「(復活)体験」と
言い換えるアイディアには、信仰の基盤を疎かにする危うさを見る気がするのです。

   イエス様は復活された。 アレルヤ!!

   「ハリストス復活!」:「実に復活!」    ロシア正教での復活信仰についての参考記事

と心から叫びたいと願っています。

2013/03/31

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